第15話 裏社会の闇取引
帝都の地下に、もう一つの街がある。
表通りの石畳の下、古い水路を改造した通路が蜘蛛の巣のように広がっている。蝋燭の灯りが壁を橙色に照らし、空気は湿って重い。商人とも貴族ともつかない人影が、影から影へ移動している。
闇オークション。帝都の裏社会で月に一度開かれる禁制品の取引の場。
リーナは黒い外套のフードを深く被っていた。銀髪を布で覆い、紫の瞳だけが暗がりの中で光っている。隣を歩くルシアンの闇属性が、二人の気配を薄くしている。影が二人の足元から広がり、周囲の人間の注意を逸らしていた。
「この先だ。声を低くしろ」
ルシアンが囁いた。通路の奥に、広い地下室が開けていた。古い倉庫を改造した空間だ。中央に台が置かれ、その周囲を三十人ほどの人影が囲んでいる。
台の上に、布をかけられた品物が並んでいた。
「これより第四区画の取引を開始する」
仮面をつけた競売人が声を上げた。低く、くぐもった声。
「本日の目玉は、宮廷魔導院流出の禁制品。結界破壊の魔導具一式」
布が剥がれた。台の上に、精緻な魔導具が並んでいる。結界を内側から破壊するための術式が刻まれた短杖。使い方を間違えれば、宮廷の防御結界すら突破できる代物だ。
リーナは人垣の後方に立ち、鑑譜眼を発動した。
瞳が金色に変わった瞬間、地下室の空気が一変した。
旋律の洪水。
三十人の核紋が、同時に耳に流れ込んできた。嘘と欲と打算が絡み合い、不協和音の渦を形成している。一人ずつ聴き分けるには多すぎる。頭の奥が軋んだ。
だがその中に、リーナは別の感覚を見つけた。
二つの旋律が、同時に、くっきりと聴こえた。
台の前で最初に入札した太った男の核紋。そして、その隣に立つ細身の女の核紋。二人分の不協和音が、まるで二重奏のように重なって聴こえている。
片方は魔導具の出所を知りながら「正規品だ」と嘘をついている。もう片方は資金の出所を隠している。二つの嘘が、別々の旋律として同時に聴こえた。
和声。
リーナの瞳が一瞬、紫と金が混じり合う不思議な色に揺れた。
前世の記憶が、ほんの一瞬だけ蘇った。オーケストラのピットで、ヴァイオリンの弓を握っていた手。チェロとヴィオラの旋律が、自分の演奏と同時に聴こえていたあの感覚。
まだ不完全だ。三人目の旋律は霞んでしまう。だが、二人までなら同時に聴き分けられる。
リーナはルシアンの腕に触れ、耳元で囁いた。
「出品者の資金がヴァレンシュタイン派閥から流れていますわ。隣の女は、買い手側の資金源を隠しています。別々の旋律ですが、根が同じところに繋がっている」
ルシアンの碧眼が細まった。
「どちらも同じ派閥か」
「ええ。売り手も買い手も、元を辿ればヴァレンシュタインの金。自分たちの資金を自分たちの市場で回して、禁制品を表の経済に紛れ込ませている」
「マネーロンダリングか。古典的だが効果的だ」
競売が進んでいく。リーナは鑑譜眼で取引の旋律を一つずつ記録していった。頭痛がこめかみの奥で脈打っているが、今は止められない。
結界破壊の魔導具が落札された。買い手は黒い仮面の男。リーナの鑑譜眼が、その核紋に刻まれた所属の旋律を聴き取った。帝国騎士団の下級騎士。ディートリヒの部下だ。
「ルシアン様。買い手の一人が、帝国騎士団の人間ですわ」
ルシアンの顔が、一瞬で硬くなった。
「騎士団まで汚染されているのか」
「少なくとも一人は。この闇オークション全体が、ヴァレンシュタイン派閥の資金洗浄の場になっています」
競売人が次の品物を台に上げようとした時、地下室の空気が変わった。
入口の通路から、足音が近づいてくる。重い足音が複数。リーナの鑑譜眼が反射的に入口を見た。三人の男が通路を歩いてくる。核紋から聴こえる旋律は警戒と殺意の混合。
「見回りだ。撤退する」
ルシアンの判断は即座だった。リーナの手を掴み、壁際の通路へ引いた。
だが遅かった。見回りの一人がこちらに気づいた。
「おい、そこの二人。顔を見せろ」
ルシアンがリーナの前に出た。
影が爆発した。
ルシアンの足元から黒い波が広がり、通路全体を暗闇に沈めた。見回りの男たちが悲鳴を上げる。視界を奪われ、足元の感覚を失い、壁に手を突く音が聞こえた。
「走れ」
ルシアンがリーナの手を引いた。暗闇の中を駆ける。ルシアンは自分の闇の中では迷わない。足音が正確に通路を辿り、分岐を二度曲がり、上り階段に出た。
階段を駆け上がる途中で、リーナの足がもつれた。鑑譜眼の長時間使用と、走り慣れない体が限界を訴えている。
倒れかけた瞬間、ルシアンの腕がリーナの腰を掴んだ。
引き寄せられた。
ルシアンの胸に、リーナの体が密着した。外套越しに彼の体温が伝わってくる。心臓の鼓動が、直接聞こえるほどの距離。
「離すな」
短い言葉。リーナの耳元で、低い声。
リーナはルシアンの外套を掴んだ。息が荒い。足が震えている。だが離さなかった。
その瞬間、鑑譜眼が意図せず発動した。
こんなに近い距離で、ルシアンの核紋を聴いたのは初めてだった。
澄んだ和音。
嘘のない旋律が、耳の奥で響いた。闇属性の低い音色が根底にある。その上に、穏やかで温かい旋律が重なっている。嘘も虚飾も計算もない、まっすぐな音。
リーナの心臓が、一拍大きく跳ねた。
ルシアンが階段を駆け上がり、地上の路地に出た。夜の冷たい空気が肺を満たす。裏路地の暗がりで、ルシアンはようやくリーナを離した。
二人とも息が上がっていた。
リーナはレンガの壁に背を預け、胸を押さえた。心臓がまだ暴れている。走ったせいだけではない。
ルシアンが壁の向こうを確認し、追手がいないことを確かめて戻ってきた。
「大丈夫か」
「……ええ」
声が掠れた。リーナは唇を舐めて、呼吸を整えた。
「ルシアン様の旋律が、こんなにも近くで聴こえたのは初めてですわ」
ルシアンが眉を上げた。
「聴こえたのか。この距離で」
「嘘のない、まっすぐな音でしたわ」
沈黙が落ちた。路地裏の闇の中で、二人の呼吸だけが聞こえている。ルシアンの碧眼がリーナを見下ろしている。リーナの紫の瞳が、ルシアンを見上げている。
「……どうしましょう」
リーナは小さく呟いた。頬が熱い。耳が熱い。首筋まで熱い。
「わたしの心臓の方が、不協和音を奏でていますの」
ルシアンが息を呑んだ。それから、そっと目を逸らした。
「……帰るぞ」
声が、いつもより低かった。
夜の帝都を、二人は並んで歩いた。どちらも何も言わなかった。路地裏から表通りに出ると、街灯の光がリーナの銀髪を照らした。
ルシアンの影が、リーナの影に重なっている。
帝都の夜空に、星が満ちていた。




