第7話:お疲れ気味の国王様、結界を抜けて実家へ帰る
魔王という共通の敵がいなくなった後の世界は、皮肉なことに、平和ゆえの混迷を極めていた。
戦後復興の予算配分、功績を巡る貴族たちの醜い派閥争い、そして伝説の勇者パーティーが「どこかの山に引きこもって出てこない」という事実に対する民衆の不安。
それら全ての重圧を、細い肩に背負い続けていた男がいた。
大陸最大の国家、エテルナ聖王国の若き国王、エドワードである。
「……もう、無理だ。書類が……書類が、魔物の群れに見える……」
王都の執務室。エドワードは積み上がった羊皮紙の山を前に、力なく呟いた。
目の下には色濃い隈が刻まれ、その頬は不健康にこけている。彼は魔王討伐後、一睡もせずに国政を回し続けていたのだ。
限界に達した彼の脳裏に、ふと、勇者アリアが去り際に残した言葉が過った。
『王様、疲れたら遊びにおいでよ。ママのご飯、最高なんだから!』
気づけば、彼は護衛もつけず、お忍びの旅装束に身を包んで城を抜け出していた。
あてもなく彷徨い、アリアたちが消えていったという『禁忌の森』の奥深くへ。
本来なら、賢者ルナの多重結界に阻まれ、一生辿り着けないはずの場所。
だがその時、サツキが「あらあら、なんだか家中が湿っぽいわね」と、里全体の空気をごっそり入れ替えるために結界を大きく緩めた瞬間だった。
「……あ、……光が……」
エドワードが吸い込まれるように光の隙間を抜けると、そこには、戦火に焼かれた外界とは無縁の、あまりにも穏やかな田園風景が広がっていた。
「あらあら、お客様かしら? それとも、道に迷っちゃったの?」
庭で大きなシーツをパタパタと広げていたサツキが、不思議そうに声をかけた。
エドワードの目に映ったのは、黄金の髪をなびかせた女神でも、威厳ある賢者でもない。
日除けの帽子を被り、エプロン姿で、洗い立てのシーツの香りを漂わせた、一人の「お母さん」だった。
「……あ、……うぁ……」
サツキの放つ、圧倒的なまでに全肯定な「おかんオーラ」。
それに触れた瞬間、エドワードの心の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「まぁ! 顔色が真っ青じゃない。あなた、最後にお布団で寝たのはいつなの? そんなに隈を作って……。さあ、そこへ座って。今、温かいお茶を淹れてあげるから」
サツキは、エドワードが国王であることなど微塵も疑わず、ただの「働きすぎて倒れそうな迷子の青年」として、縁側の特等席へと案内した。
「……は、はい。……すみません……」
一国の主が、借りてきた猫のように大人しく座る。
そこへ、サツキが湯気の立つ茶碗と、自家製の梅干しを乗せた小皿を運んできた。
「はい、どうぞ。梅昆布茶よ。疲れている時は、少し酸っぱいものがいいのよ」
エドワードは震える手で茶碗を手に取り、一口啜った。
昆布の深い出汁の味と、梅の程よい酸味が、凝り固まった脳を優しく解きほぐしていく。
「……っ!? なんだ……これは……。城の最高級の茶葉よりも、……ずっと、温かい……。懐かしい……。……う、……うわぁあああああん!」
エドワードは、茶碗を抱えたまま、子供のように号泣し始めた。
王位を継いで以来、誰にも弱音を吐けず、常に「完璧な王」であることを強行されてきた彼にとって、サツキの「あらあら、頑張りすぎちゃったのねぇ」という一言は、どんな治癒魔法よりも深く魂を癒やしたのである。
「よしよし、偉かったわねぇ。そんなに泣くほど、一生懸命お仕事してたのね。……でも、自分を粗末にしちゃダメよ」
サツキが、大きな手でエドワードの背中を優しくさする。
そのリズムは、まるで幼い頃に忘れてきた安らぎそのものだった。
「きゅう、きゅうっ(おじさん、情けないなぁ。僕なんて毎日ママに甘えてるんだから、見習いなよ)」
サツキの膝の上で、シロが呆れたように鼻を鳴らした。
その時。
「ママ! ただいまぁ! 今日は魔王軍の残党が持ってたお宝を……って、えええええええええええっ!? 王様!? なんでここにいるの!?」
狩りから戻ってきたアリアが、玄関先で文字通り飛び上がった。
その後ろには、冷ややかな視線を送るルナと、眉を潜めるセシル。
「……王。……職務放棄。……給料泥棒。……ここで、……肥料にする?」
「お母様に泣きつくなんて、不敬ですわ! 例え王様でも、お母様の背中をさすってもらう権利は、この里の住人だけの特権ですのに!」
「ひっ、あ、アリア!? ルナ!? セシル!? いや、これは……その……!」
エドワードが泡を食って立ち上がろうとするが、サツキがその肩をポンと押して座らせた。
「はい、喧嘩しないの! アリアちゃんたち、この方はね、お仕事が大変で、ちょっと心が風邪を引いちゃっただけなのよ。……王様なのかも知らないけれど、ここではただの『お客様』よ」
「ママがそう言うなら……。でも王様、あんまりママに甘えないでよね! 私の分が減っちゃうから!」
アリアがぷくーっと頬を膨らませて隣に座り込み、負けじとサツキの腕に抱きつく。
エドワードは、かつて自分が世界を救うために送り出した最強の勇者たちが、ここではただの「ママ大好きな娘たち」として振る舞っている光景に、度肝を抜かれた。
「いい、エドワードさん。……お仕事は大事だけど、お家で待っている人たちを心配させちゃダメよ。あなたが倒れたら、誰がみんなを笑顔にするの?」
「……は、はい。仰る通りです……」
「今日はこのまま、離れの客間でお昼寝しなさい。晩ご飯は、体力がつくようにスタミナ炒めにしてあげるから。……で、明日はちゃんとお家に帰って、また笑顔でお仕事頑張るのよ? いいわね?」
「……はい! ママぁ……!」
翌朝。
そこには、昨日の死相が嘘のように消え、希望に満ちた表情で立ち上がるエドワードの姿があった。
彼は、サツキが持たせてくれた「梅干しおにぎり」を宝物のように抱え、里の運び屋の荷馬車に乗り込んだ。
「行って参ります、ママ! 私、立派な王様になって、この里の平和を一生守り抜きます!」
「はいはい、気をつけてね。靴下、ちゃんと毎日履き替えるのよ?」
馬車が森の中に消えていくのを、サツキは笑顔で見送った。
「あらあら、元気になってよかったわねぇ。……さあ、シロちゃん。次はアリアちゃんの脱ぎっぱなしの鎧を片付けましょうか」
「きゅう(ママ、あの王様、たぶんまた来るね。……お守り、高く売りつけておけばよかった)」
こうして、世界を統べる王すらも「実家の息子」にしてしまうサツキの伝説に、また新たな一ページが加わった。
王都へ帰還した国王が、翌日から「全職員に週休二日と、ママの味を再現した炊き出し」を導入し、王国がかつてない活気に包まれることになるのだが、それはまた別の日の物語である。




