第38話:知を求める賢者の弟子? ルナ、ママの邪魔をさせない魔術防衛線!
隠れ里『聖母の箱庭』を囲む山々が、深い藍色と燃えるような朱色のコントラストに染まる黄昏時。
サツキは縁側に腰を下ろし、使い古された分厚い本を膝に乗せて、ゆっくりと頁を捲っていた。それは魔導書でも予言書でもなく、前世の知恵を書き留めた自作の「お料理と暮らしの知恵袋」である。
「あらあら……。この季節は、大根の面取りを丁寧にするだけで、お出汁の染み込み方が全然違うのねぇ。シロちゃん、読書って本当に新しい発見があるわね」
サツキが、傍らで丸まって寝息を立てているシロの背を優しく撫で、穏やかな微笑みを浮かべた。
その瞬間。里の最外郭に展開された結界の端で、微かな、しかし粘り気のある「外界の魔力」が弾ける音を、賢者ルナの耳が捉えた。
「……検知。……マナ、……波長、……老齢。……知的好奇心、……過剰。……ママの、……読書、……聖域、……侵害。……不快。……排除、……開始」
ルナは、サツキに気づかれないよう音もなく立ち上がると、指先で空中に複雑な数式を綴り始めた。
結界の外には、大陸全土にその名を轟かせる老魔導師と、その弟子を名乗る若者が、伝説の「知恵の聖母」を求めて辿り着いていた。彼らは、世界の真理を解き明かすための最後の一片がこの里にあると信じ込み、血走った眼で結界を解析しようとしていた。
「……物理的、……排除、……禁止。……ママ。……血の匂い、……嫌う。……精神的、……摩耗、……誘導、……する」
ルナが放ったのは、攻撃魔法ではない。極めて高度な「生活阻害呪術」の連鎖であった。
結界を跨ごうとした老魔導師の靴の中に、突如として「どこからともなく小さな小石が入り続ける呪い」が発動する。歩くたびに激痛が走り、脱いでも脱いでも、次の一歩で再び石が現れる。
「……さらに。……デジャヴ、……ループ、……展開。……景色、……不変。……前進、……不能」
どれだけ歩いても、さっき見たばかりの「同じ形の切り株」と「同じ方向に曲がった枝」が目の前に現れ続ける。老魔導師の弟子は、あまりの恐怖に発狂しかけ、地面に膝を突いた。
「お師匠様……! ここは呪われています! 一歩も進めないどころか、足の裏が……足の裏が痛すぎます!」
「黙れ! これこそが聖母の試練! 真理への道は険しいのだ!」
老魔導師が意地になって結界をこじ開けようと、最高位の解呪魔法を放とうとした瞬間、セシルが物陰から「お母様の静寂を乱す不届き者は、一生タンスの角に小指をぶつけ続ける呪いをかけて差し上げますわ!」と、聖なる野次(呪詛に近い祝福)を飛ばして加勢した。
(きゅう、きゅうっ! ……おい、おじいさん! ママは今、大根の煮込み方の勉強で忙しいんだよ! そんなに知恵が欲しいなら、あっちの図書館で埃でも被ってなよ!)
シロが、里の内側から威圧的な念話を放つ。伝説の天狐による精神干渉を受け、魔導師たちはついに理性を失い、結界の隙間に向かって声を張り上げた。
「知恵の聖母よ! どうか、……どうかこの迷える羊に、世界の理を説いてくだされぇええ!」
「あらあら……。なんだか、お外が随分と騒がしいわね」
サツキが、ついに「知恵袋」から顔を上げた。
ルナが「……失敗。……ママ、……集中、……途切れた。……侵入者、……死、……相当」と瞳を冷たく光らせるが、サツキは既に立ち上がり、湯気の立つ急須を手にして門へと歩み寄っていた。
「まぁ、お疲れ様。そんなに大声を出すと、喉を痛めてしまうわよ? 少しだけ、お茶を淹れてきたから、これを飲んで落ち着きなさいな」
サツキが結界の隙間から差し出したのは、里で採れた茶葉を丁寧に淹れた、一杯の緑茶だった。
老魔導師は、震える手でその茶碗を受け取り、一気に飲み干した。その瞬間、彼の脳裏を駆け巡っていた複雑な数式や、世界を支配せんとする野心が、嘘のように霧散していった。
「……あ、……あぁ…………」
魔導師が見つめた茶碗の底。そこには、一本の「茶柱」が、誇らしげにピンと直立していた。
「あら、見て。おじいさん、茶柱が立っているわ。……知恵なんて難しいことは私には分からないけれど、こうして良いことがあるって信じるだけで、明日は今日より少しだけ、優しくなれる気がするのよ」
サツキの、あまりにも素朴で、全肯定に満ちた言葉。
老魔導師は、その一杯のお茶と茶柱の光景に、自分が一生をかけて追い求めていた「心理」の正体が、ただの「心の安らぎ」であったことを悟り、その場に号泣して伏した。
「……これだ。……これこそが、……真理……。難解な数式など、この一杯の慈愛の前には無力であったか……!」
魔導師たちは、深々と里に向かって礼を尽くすと、憑き物が落ちたような清々しい顔で山を下りていった。
「ふふ、いいことがありそうで良かったわねぇ、ルナちゃん」
「……ママ。……お茶、……一杯で、……賢者、……廃業。……ママ。……世界一、……恐ろしい、……知恵者」
ルナは、自分の張り巡らせた精密な防衛網よりも、サツキの「茶柱」の知恵が遥かに強大であったことに愕然としつつも、誇らしげにサツキの膝に頭を預けた。
「……ママ。……私にも、……お茶、……淹れて。……茶柱、……二本、……希望」
「あらあら、ルナちゃん。欲張りさんねぇ」
サツキがルナの銀髪を撫で、再び静かになった縁側でお茶を啜る。
大陸最強の知性が、お母さんの淹れたお茶と笑顔の前に平伏する。
隠れ里の夕暮れは、どんな魔導の深淵よりも深く、そしてどこまでも温かな「知恵」に包まれて、穏やかに更けていくのであった。




