第2話:伝説の賢者も、ママの人参には勝てないわよ?
魔王軍が滅び、世界に真の平和が訪れた翌朝。
隠れ里『聖母の箱庭』の朝は、小鳥のさえずり……ではなく、台所から漂う暴力的なまでに食欲をそそる香りで始まった。
「あらあら、みんなお寝坊さんね。冷めないうちに食べちゃいなさい」
サツキが鼻歌まじりに食卓へ並べたのは、こんがり焼けた自家製パンと、里の裏庭で採れた新鮮な野菜がこれでもかと投入された具だくさんのコンソメスープだ。
そこには、魔王討伐という大仕事を終えたはずの三人の英雄が、寝癖もそのままに椅子にしがみついていた。
「はふっ、はふっ……ママのスープ、五臓六腑に染み渡るよぉ……!」
「……熱い。でも、止まらない。マナが、細胞レベルで活性化していく……」
「お母様の手料理こそが至高の聖杯。教会が血眼で探している奇跡が、ここに具現化しておりますわ……!」
勇者アリアはパンをスープに浸して頬張り、賢者ルナは無表情ながらもスプーンを動かす速度を上げ、聖女セシルはスープの湯気を聖なる加護か何かのように浴びている。
平和だ。昨日まで魔王の首を狙って殺伐としていたのが嘘のような、至福の時間が流れている。
だが。
賢者ルナのスプーンが、ある一点でピタリと止まった。
「…………っ」
スープの黄金色の水面に浮かび上がった、鮮やかなオレンジ色の立方体。
サツキが「栄養満点よ」と微笑みながら切り分けた、里特産の人参である。
ルナの眉間が、禁断の暗黒魔法を解析する時よりも深く、険しく寄った。
「……ママ。報告。このスープ内に、私の生存戦略を著しく阻害する未知の魔力反応を検知。……オレンジ色の、硬い物体」
「あら、ルナちゃん。それはただの人参よ? 昨日アリアちゃんが耕してくれた畑で、今朝採ったばかりなんだから」
「……人参。……否。これは、地脈の呪いが結晶化したもの。……摂取した場合、私の精神回路に致命的なバグが生じる可能性がある」
ルナは震える声で供述するが、サツキは「またそんな難しいこと言って」と笑い飛ばし、洗濯籠を抱えて裏庭へと向かってしまった。
台所に残されたのは、勇者三人……そして。
「きゅう、きゅうっ(お姉ちゃん、好き嫌いする悪い子だねぇ)」
ママの椅子の影から、シロがひょこりと顔を出した。
その双眸には、明らかに年上の賢者を「弱者」として見下ろす、あざとい光が宿っている。
(ふふん。お姉ちゃんたちが魔王を倒したって、ママは『ちゃんと野菜を食べること』の方が大事なんだよ。……できないなら、僕が代わりにママに甘えてあげようか?)
「……白い塊。……黙れ。……私は賢者。……理を操る者。……人参一つ、次元の彼方へ消し去るなど、容易い」
ルナの瞳に銀色の魔方陣が浮かぶ。
彼女が構築し始めたのは、本来なら軍勢を丸ごと異次元に追放する際に使用する『極致転移』。その矛先が、今、直径一センチの人参へと向けられた。
「ルナちゃん、ずるい! 私だって、このピーマンが苦くて死にそうなんだから、一緒に飛ばしてよ!」
アリアが「便乗!」とばかりに叫ぶが、セシルがそれを制する。
「お待ちなさい! お母様が丹精込めて育てた野菜を魔法で棄てるなど、大罪ですわ! ……まあ、私もこのセロリだけは、神の御許へお返ししたい気分ではありますけれど……」
勇者パーティーが、たかが朝食の具材を巡って、世界を滅ぼしかねない禁呪を練り上げようとした、その時。
(……あ、ママが戻ってくるよー)
シロの無慈悲な念話。
直後、ルナは慌てて魔法を霧散させた。だが、焦りすぎた。
中途半端に発動した転移魔法は、人参を消し去るどころか、逆にスープの中で「分裂・増殖」させ、さらにサツキの愛情バフを吸い取って、まるで宝石のようにキラキラと輝き始めてしまったのである。
「ただいま。あらあら、ルナちゃん? スープがまだ残っているじゃない。どうしたの?」
サツキが戻ってきた。その手には、取り込んだばかりの日向の匂いがするタオルがある。
「…………っ(絶望)」
ルナの器の中は、もはやスープというより「人参の宝石箱」と化していた。
逃げ場はない。シロがサツキの肩にピョンと飛び乗り、しっぽをパタパタ振って「報告」の構えをとる。
「きゅうっ! きゅう、きゅう!(ママ見て! ルナお姉ちゃんが、魔法でご飯をオモチャにしようとしたよ!)」
「あら……。シロちゃん、本当? ルナちゃん、そんなことしたのかしら?」
サツキの視線がルナに注がれる。
それは怒りではない。深い、深い慈しみ……そして「悲しみ」の色が含まれた、聖母の瞳。
「……あ。……う。……ちが、……違う。……これは、解析、……魔法の、実験」
「ルナちゃん。ママは、魔法のことはよくわからないけれど……食べ物を粗末にする子には、少しだけお説教が必要かしらね」
サツキが椅子を引き、ルナの隣に座った。
里全体の気温が五度ほど下がったような錯覚に、勇者たちが凍りつく。魔王との決戦でも震えなかったアリアの膝が、ガクガクと音を立てた。
「いい? この人参はね、みんなが元気に笑って過ごせるようにって、ママが毎日お水をあげたのよ。それを魔法で消しちゃうなんて……ママ、悲しいわ」
「…………ごめんなさい(消え入るような声)」
「わかってくれればいいの。……でも、残すのはダメよ? 自分で食べられないなら……はい、あーんして」
サツキがルナの器から、キラキラと輝く(魔法で増殖した)人参をスプーンですくい、ルナの口元へ運ぶ。
「……っ!?(赤面)」
伝説の賢者。大陸最強の魔導士。
あらゆる知識を網羅した少女が、今、ママの「あーん」という究極の物理攻撃の前に、完膚なきまでに沈黙した。
「ほら、お口を開けて。あーん」
「……は、……はむっ」
ぱくり。
ルナの小さな口に、人参が吸い込まれる。
噛み締めた瞬間、彼女の脳内に「ママの笑顔」と「里の肥沃な大地の記憶」が奔流となって流れ込んできた。
「……おい、しい。……甘い。……魔法より、……ずっと、温かい」
ルナの瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。それは苦手の克服ではなく、圧倒的な母性の前に屈した敗北の証であり、至福の証であった。
「偉いわ、ルナちゃん。ちゃんと食べられたじゃない。ご褒美に、食後のデザートはプリンを多めにしてあげるわね」
「……っ! (激しく頷く)」
その光景を見ていたアリアが、我慢できずに立ち上がった。
「ママ! ずるいよルナ! 私だって……私だって、本当はピーマン大嫌いなの! もう一歩も動けないくらい苦手なの! だから、私も『あーん』して! ママの『あーん』がないと、世界が滅んじゃう!」
「あらあら、アリアちゃんまで。もう、みんな甘えん坊さんねぇ」
「お母様! 私も、私もこのセロリがどうしても……! ぜひ私にも聖なる『あーん』を!」
朝食のテーブルは、一転して「ママに食べさせてもらいたい」英雄たちによる、阿鼻叫喚の甘え合戦へと化した。
(ふふん、お姉ちゃんたち、必死だね。でも、最後は僕がママの指からおやつをもらうんだから!)
シロが勝ち誇ったように喉を鳴らし、サツキの頬にスリスリと甘えかかる。
「はいはい、みんな順番よ。……もう、世界を救った勇者様たちがこれじゃ、先が思いやられるわね」
サツキは困ったように、けれど幸せそうに微笑みながら、娘たちの口へと次々にスプーンを運んでいく。
隠れ里の朝は、平和そのものだ。
魔王がいなくなった世界で、彼女たちが直面する最大の試練――それは「ママの愛情(野菜入り)」を、いかにして全身で受け止めるか、という幸せな戦いなのであった。




