第1話:魔王軍は殲滅したけれど、洗濯物は溜まってるわよ?
エテルナ大陸の最果て、伝説に謳われる『聖母の箱庭』――通称、隠れ里。
そこには、かつて世界を救ったとも、あるいは世界そのものを創り替えたとも噂される『最強の聖母』が住まうという。
だが、その実態は……。
「あらあら、いいお天気ねぇ。これなら厚手のシーツもすぐに乾いちゃうわ」
ふわりと、洗い立ての石鹸の香りが春風に乗って漂う。
黒髪をきっちりとお団子に結い、洗い古したエプロンをきゅっと締めた女性――サツキは、物干し竿に真っ白な布を広げていた。
前世で一通りの育児を終え、孫の顔まで見て大往生した彼女にとって、この異世界での生活は「二度目の、ちょっと贅沢な隠居生活」に過ぎない。
「きゅう、きゅうっ!」
サツキの足元で、真っ白な毛玉が忙しなく動いている。
伝説の神獣、天狐の幼体であるシロだ。世が世なら一国を滅ぼす神の使いだが、今の彼にとって最大の関心事は、サツキの足首にスリスリと頬を寄せて「僕が一番可愛いでしょ?」とアピールすることだけである。
「はいはい、シロちゃん。危ないから足元にいないでね。今、ブラッシングしてあげるから」
サツキが縁側に腰を下ろすと、シロは待ってましたとばかりにその膝の上へダイブした。
サツキの手が、慣れた手つきで木製のブラシを動かす。
(ふふん。ママの膝の上は僕だけの聖域なんだよ。お姉ちゃんたちがいない間に、たっぷり堪能しておかなくちゃね)
シロは念話でそう毒づきながら、恍惚とした表情で目を細める。
その時だった。
結界の向こう、遠くの空がどす黒く染まり、大地を揺らすような轟音が響いた。世界を破滅させんとする魔王と、それを阻止せんとする勇者たちの最終決戦の余波だ。
「あら……。なんだか外が騒がしいわね。夕立かしら?」
サツキは空を見上げ、少しだけ眉を寄せた。
「シロちゃん、あの子たち、傘持っていったかしら。濡れて帰ってきたら風邪を引いちゃうわ」
(ママ、あれは雷じゃなくて、アリアたちが魔王の城を消し飛ばした音だよ。……まあ、僕には関係ないけど。ママのブラッシングの方が一億倍大事だもんね)
シロは欠伸をしながら、サツキの手のひらに頭を押し付けた。
世界が救われようとしているその瞬間、この里で最も重要な議題は「洗濯物を取り込むタイミング」であった。
それから数時間後。
里を隠す強固な結界が、激しくこじ開けられた。
「ママぁあああああ! ただいまぁあああああ!!」
絶叫と共に飛び込んできたのは、黄金の髪を振り乱した少女――勇者アリアだった。
その背後には、銀髪を煤で汚した魔導士ルナと、聖衣がボロボロになった聖女セシルが続く。
彼女たちは、魔王軍を文字通り殲滅し、人類の宿願を果たした直後だった。だが、その顔に勝利の喜びはない。あるのは、愛する「ママ」に会えた安堵と、言葉にできない甘えの感情だけだ。
「あらあら、アリアちゃん! おかえりなさい。……って、まあ! なんて格好なの!」
サツキは立ち上がり、玄関先まで駆け寄った。
アリアは、世界に一振りの聖剣を庭の芝生に放り投げ、サツキの腰にしがみついた。
「ママ、ママぁ……! 怖かったよぉ! 魔王が変なビーム出して、服が焦げちゃったんだよぉ! うぇえええん!」
世界最強の剣士が、まるで三歳の子供のように号泣する。
「よしよし、怖かったわねぇ。よく頑張ったわね。……でもアリアちゃん、その鎧! 泥だらけじゃないの。廊下を汚さないでって、いつも言ってるでしょう?」
「ひっ、ご、ごめんなさいママ……! でも、早くママの顔が見たくて……!」
アリアは涙目になりながら、その場で固まる。サツキの「お説教モード」は、魔王の最終形態よりも威圧感があるのだ。
「……ママ。私も、頑張った。魔王軍の幹部三人を一撃で焼いた。……だから、褒めて」
クールなはずのルナが、サツキの袖をぎゅっと掴んで上目遣いで見つめてくる。無表情だが、その尻尾(実際にはないが、サツキには見える気がする)は激しく振られている。
「ルナちゃんも、おかえりなさい。あら、髪がバサバサじゃない。後でゆっくり梳かしてあげるわね」
「……っ! (こくりと頷く)」
「お母様! 私だって八面六臂の活躍をしましたわ! 勇者軍の負傷者数万人を一人で完治させ……ああっ、でもそんなことより、お母様に抱きしめていただきたいのですわ!」
セシルが優雅さをかなぐり捨てて、アリアを突き飛ばしてサツキの懐に潜り込もうとする。
(ふん、お姉ちゃんたち、見苦しいよ。ママは今、僕をブラッシングしてたんだから。列に並びなよ、列に!)
シロがサツキの肩に飛び乗り、勇者たちを見下ろして「勝ち誇った顔」で鳴いた。
「きゅう、きゅうっ!(ママは僕のものだもん!)」
「こ、この白い塊……! ママの肩は私の場所よ!」
「……シロ、そこをどけ。……火魔法で焼く」
「まあ、はしたない。お母様の聖域を汚す害獣は排除しなくてはなりませんわね……」
世界を救った英雄たちが、一匹の子ギツネを相手に、伝説級の魔力と殺気を全開にして睨み合う。
「はいはい、喧嘩しないの! ほら、みんな泥だらけなんだから、まずはお風呂! セシルちゃん、そんなに神聖魔法が使えるなら、自分の汚れくらいパパっと落としちゃいなさい」
「えっ、あ、はいっ! 今すぐ、今すぐ最高位の浄化魔法で塵ひとつ残さず消し去りますわ!」
本来、死の呪いすら解くはずの奥義が、ただの「泥落とし」に使われる。この里ではよくある光景だ。
「アリアちゃんは、その物騒な鉄クズ……聖剣だったかしら。それを玄関の隅に置いてきなさい。ルナちゃん、お風呂が沸くまでこれでも食べて待ってなさいな」
サツキがキッチンから持ってきたのは、ホカホカと湯気の上がる、ふかしたお芋だった。
「……っ! ママのふかし芋……!」
ルナの目が、魔導書の深淵を覗く時よりも鋭く輝く。
三人は縁側に並んで座り、ママが剥いてくれたお芋をハフハフと頬張った。
「おいしい……。生きててよかった……」
「……魔王の心臓より、ずっと、美味しい」
「お母様の愛を感じますわ……。これこそが真の福音……」
さっきまで死線を潜り抜けていたはずの彼女たちは、今やただの「お腹を空かせた娘たち」に戻っていた。
サツキは、その様子を満足げに眺めながら、大きな洗濯籠を抱え直す。
「さあ、洗濯物が山積みだわ。魔王を倒したくらいで浮かれてちゃダメよ? 明日は朝から畑仕事を手伝ってもらうんだから」
「「「はいっ、ママ(お母様)!!」」」
元気な返事が里に響く。
魔王軍殲滅という、歴史に残る大偉業。
だが、この隠れ里においては、「ママが機嫌よく夕飯を作ってくれること」に比べれば、それはあまりに些細な出来事でしかなかったのである。
こうして、最強の娘たちと、あざとい神獣、そして無自覚な聖母サツキの、騒がしくも温かい「やりすぎ」な日常が幕を開けた。




