第28話:聖女の暴走・再び。お母様の「残り湯」は聖水ですわ!
隠れ里『聖母の箱庭』。この平和な里において、最も静かで、かつ最も危険な信仰心を燃やしているのは、間違いなく聖女セシルであった。
「究極の膝枕」という至高の聖務を授かった彼女であったが、その探求心は、もはや人間の理解を超えた領域――「お母様の日常、その全てが奇跡である」という極致に達していた。
ある日の夕暮れ。サツキがゆったりとお風呂から上がり、脱衣所で髪を拭いている時のことだった。
「あらあら……。今日もお湯が気持ちよかったわねぇ。さて、お水を抜いて、お掃除しちゃいましょうか」
サツキが風呂釜の栓に手を伸ばした瞬間。
脱衣所の引き戸が、凄まじい神聖魔力の波動と共に、音もなく「スッ」と開かれた。
「――なりません! お母様、お待ちくださいまし!!」
「あら、セシルちゃん? どうしたの、そんなに血相を変えて」
セシルは、後光(自前)を背負い、膝を突いてサツキの足元に平伏した。その瞳は、未曾有の国難に立ち向かう騎士のように鋭く、かつ陶酔しきっている。
「お母様、何を仰いますの! その風呂釜に湛えられたお湯は、もはやただの温水ではありません! お母様の尊い御身を包み、全ての不浄を肩代わりして浄化した、世界で最も純度の高い『極致聖水』ですわ!」
「えぇ……? ただの、入り終えた残り湯よ? 石鹸も混じっているし、早く流さないとぬめっちゃうわ」
「ぬめる……!? いいえ、それは慈愛の凝縮ですわ! このお湯を捨てるなど、神に対する冒涜、宇宙の損失ですわ! この私が、一滴残らず回収し、里の平和のために役立てて差し上げますわ!!」
セシルはどこから取り出したのか、特製のクリスタル製の小瓶を何十本も並べ、魔法で残り湯を吸い上げ始めた。
サツキは「あらあら……。お掃除の手間が省けるのは助かるけれど、変なことに使っちゃダメよ?」と困惑しながら、パジャマの袖を直して居間へと向かった。
翌朝。里の「外郭ガード」を担当する騎士団や、運び屋のガリたちの間で、ある「奇跡」が話題となっていた。
「おい、見たか!? セシル様から頂いたこの小瓶の水を、里の枯れかけた花壇に一滴垂らしたら、一瞬で見たこともない大輪の花が咲き誇ったんだぞ!」
「オレなんて、古傷にちょっと塗っただけで、十年前の痛みが消えちまったっす! これこそが、サツキ殿の……聖水……!」
男たちが小瓶を天に掲げ、涙を流して拝んでいる。
それを里の屋根の上から眺めていたアリアが、顔を引き攣らせて叫んだ。
「ちょっとセシル! 何やってるのよ! ママの残り湯を勝手に配るなんて、不潔……じゃない、不謹慎でしょ! ママのお掃除は、私の『神速』でパパッと終わらせる予定だったのに!」
「……不快。……セシル、……独占禁止法、……抵触。……ママの、……成分、……抽出、……私にも、……分けなさい」
ルナがどこからともなくビーカーを持って現れ、セシルから小瓶を奪おうとする。
「お黙りなさいませ! お母様の細胞一つ、髪の毛一本すらも、この世界には過ぎたる宝なのですわ! 見てください、このブラシに挟まっていたお母様の抜け毛を! これを織り込めば、どんな攻撃も通さない『聖母の法衣』が完成いたしますわ!」
セシルが、ピンセットで大事そうに一本の黒髪を掲げる。その目はもはや、聖女というよりは、高度に訓練された変態のそれであった。
(きゅう、きゅうっ! セシルお姉ちゃん、怖すぎるよ! それはただの『ゴミ』だよ、早く捨ててきなよ!)
シロが毛を逆立ててセシルに飛びかかるが、セシルは「シロ様、貴方は分かっておられませんわね!」と、神獣の爪を優雅にかわして、髪の毛を専用の保管ケース(金箔入り)に収めた。
「あらあら、みんな朝から集まって……。廊下で騒いだら、近所迷惑よ?」
サツキが、掃き掃除をしながら現れた。その手には、セシルが「聖遺物」として回収し損ねた、抜け毛や綿埃の入った塵取りが握られている。
「セシルちゃん。お湯も、抜けた髪も、役目を終えたら土に還してあげるのが一番なのよ。そんなに溜め込んでいたら、お部屋がゴミ屋敷になっちゃうわよ? ママ、そんな汚いお部屋にする子は、嫌いになっちゃうわよ?」
「……っ!! ご、ゴミ屋敷……! お母様に、……嫌われる……!?」
セシルの脳内に、第18話でルナが受けた「嫌いよ」という名の最終審判がフラッシュバックした。
彼女は、自分が「尊い」と思って集めていたものが、サツキにとっては「掃除の邪魔」でしかないという現実に、崩れ落ちるように膝を突いた。
「お、お母様……! 私、私はただ、お母様の全てを永遠に保存したくて……!」
「気持ちは嬉しいけれど、そんなことより……セシルちゃん。ママ、背中が少し痒いの。……流してくれるかしら?」
「……っ! 背中を、……流す……!? 私の、この手が、直接、お母様の背に触れるというのですか……!?」
セシルの中で、収集癖という名の「間接的な愛」が、直接の奉仕という名の「究極の聖務」へと一瞬で上書きされた。
「喜んでぇぇぇぇ! 謹んでぇぇぇ! このセシル、お母様の背中を、鏡面仕上げの如き滑らかさまで磨き上げて差し上げますわぁぁぁ!!」
セシルは鼻血を噴き出しそうな勢いで脱衣所へと猛ダッシュし、小瓶を全て放り投げてお風呂を沸かし直した。
結局、里に配られた「聖水」はサツキに内緒で回収(という名のセシルによる私物化)されたが、里の各所では「サツキ殿の背中を流す権」を巡って、アリアとルナが新たな火花を散らすこととなった。
(きゅう……。セシルお姉ちゃん、結局最後は鼻の下伸ばしてママについていったよ。……まぁ、ゴミ拾いが終わったなら、僕も今回は見逃してあげるけどね)
シロが縁側で欠伸をしながら、満足げに喉を鳴らす。
聖女の狂信的な愛すらも「お掃除」と「背中流し」で飼い慣らしてしまうサツキのおかん力。
隠れ里の平穏は、今日も少しばかり偏った愛に包まれながら、温かく、そして騒がしく更けていくのであった。




