第22話:田んぼの小さな侵入者。ルナ、水の精霊と遭遇する
勇者アリアが泥だらけになって苗を植えたあの日から、里の棚田には清らかな水が満々と湛えられていた。
隠れ里『聖母の箱庭』の午後は、穏やかな風が稲の赤ん坊たちを揺らし、どこまでも平和な空気に包まれている。
そんな中、賢者ルナは一人、畦道にしゃがみ込んで水路をじっと見つめていた。
彼女の指先からは細い魔力の糸が伸び、水田に引き込まれる水の温度と流量を、コンマ単位で計測している。ルナにとって、ママが「白いご飯が食べたい」と言ったこの田んぼを管理することは、国家の存亡を賭けた儀式よりも優先順位が高いのだ。
「……異常。……水路、……分岐点、……マナの密度、……臨界突破。……未知の、……高エネルギー体、……検知。……敵襲?……否。……何かが、……詰まっている」
ルナが水路の石組みの隙間に指を差し込み、ツンツンと突ついてみる。
すると、そこから「ぷるんっ」という、およそ自然界の石や泥とは思えない弾力のある感触が返ってきた。
「……っ!? ……出て、……こい。……正体を、……明かせ」
ルナが魔力で水を少しだけ逆流させると、隙間から「ひゃわわわっ!」という、鈴を転がしたような甲高い声と共に、水色のゼリーのような塊が飛び出してきた。
それは、手のひらに乗るほどの小さな女の子の姿をしていた。髪も体も透き通った水で出来ており、背中には薄い羽のような水の膜が震えている。
「……高位の、……水の精霊。……純度、……百パーセント。……なぜ、……田んぼの、……土管に、……詰まっていた?」
『ぷーっ! ぷーぷーっ! 詰め込んだのはそっちでしょ! 水の流れが急に綺麗になったから、気持ちよくて寝てただけなのに!』
精霊は頬を膨らませ、水しぶきを飛ばしてルナを威嚇する。本来なら一国を水没させる力を持つ精霊だが、今の姿は怒った金魚のようにしか見えない。
「あらあら、ルナちゃん。また難しい顔をして、誰とお話ししているのかしら?」
そこへ、サツキが籠を持って現れた。中にはキンキンに冷えた石造りの水筒と、塩を振ったばかりのみずみずしい「きゅうり」が入っている。
「休憩にしましょう。今日は暑いから、麦茶を淹れてきたわよ」
サツキが水筒の蓋を開けた瞬間、香ばしい麦の香りが周囲に広がった。
それまでルナに向かって「ぷーぷー」と怒っていた精霊が、ピタリと動きを止めた。その小さな鼻(のような突起)が、ピクピクと動く。
『……っ!? な、なにこの匂い……。マナじゃないのに、すごく心が落ち着く……香ばしい誘惑が……』
「あら? ルナちゃん、その水色の……まぁ! 可愛い金魚さん……じゃなくて、妖精さんかしら? 喉が渇いているみたいねぇ」
サツキは、精霊が「世界を滅ぼしうる高位存在」であることなど微塵も疑わず、ただの「喉を痛めた小さなお客様」として、湯呑みに麦茶を注いで差し出した。
「はい、どうぞ。冷たくて美味しいわよ」
『……いいの? ……じゃあ、一口だけ……。……ぷはぁっ! ……なにこれ! 美味しい! 五臓六腑(水だけど)に染み渡るぅうう!』
精霊は湯呑みの縁にダイブし、自分と同じくらい大きな麦茶の海で泳ぎながら、夢中で飲み始めた。
「ふふ、いい飲みっぷりね。……そうだわ、田んぼのお水、あなたが綺麗にしてくれているのかしら? 助かるわねぇ、いい子ね」
サツキが、指先で精霊の頭をチョンと撫でる。
その瞬間、精霊の全身からキラキラと純白の光が溢れ出した。
『……っ、あぁ……。……なにこの温もり。……精霊王様よりも、……ずっと、……全肯定されてる感じ……。……私、……もうこのお茶がないと、……生きていけないかも……』
「……ママ。……そいつ、……危ない。……精霊、……気まぐれ。……懐柔、……困難」
ルナが忠告するが、精霊はすでにサツキの手のひらでお腹を見せて転がっていた。
「あらあら、懐いちゃったわねぇ。……名前がないと不便ね。……水色でぷるぷるしてるから、『プルちゃん』でいいかしら?」
『プル! ぷるぷる! 私、プル! サツキお母様、私、この田んぼの水、一生ピカピカにする! 洗濯機の水も、お風呂の水も、全部私が最高級の輝きにするからぁ!』
(きゅう、きゅうっ! ……ふん、また新しい「ぷるぷる」が来たね。でも、ママの隣は僕の場所なんだから。お水は外でやってなよ!)
シロがサツキの肩で、新入りの「プル」を厳しくチェックする。
だが、プルがサツキの洗濯籠に飛び込み、中の衣類を水魔法で一瞬にして「太陽の香り」以上に清浄化してみせると、サツキは大喜びした。
「まぁ! お洗濯物が一瞬で真っ白! プルちゃん、あなた魔法使いさんなのねぇ。助かるわぁ」
「……っ。……ママ。……私だって、……それくらい、……できる。……プル、……ライバル。……負けない」
ルナが、たかが洗濯の時短のために、賢者としての魔力を最大出力で練り始め、隣でプルが水をキラキラと輝かせる。
隠れ里『聖母の箱庭』に、ついに本物の「精霊」が居着いた。
かつてセシルが「顔も知らない」と拝んでいた対象は、今やサツキの淹れた麦茶一杯で、里の「洗濯助手兼・水質管理担当」へとジョブチェンジを果たしたのである。
「ふふ、賑やかになっていいわねぇ。プルちゃん、後で一緒にお夕飯の準備も手伝ってくれるかしら?」
『ぷるぷる! 喜んで! お母様のためなら、里中の水を聖水(生活用)に変えてみせるよ!』
里を流れる水路が、プルの喜びを反映するように美しく澄み渡り、稲たちが嬉しそうに葉を伸ばす。
サツキの「おかん力」は、ついに種族の壁どころか、精霊界の権威すらも「美味しい麦茶」で飲み込み、里の日常をさらに神秘的(かつ便利)に彩っていくのであった。




