第17話:神獣パパの浮気疑惑? 真実を確かめにママ狐が来ました
隠れ里『聖母の箱庭』から霊峰へと帰還した神獣天狐の王――シロの父狐は、かつてないほどに「腑抜けて」いた。
伝説に謳われる九つの尾は、サツキの丁寧なブラッシングによって一本一本がシルクのように輝き、その黄金の毛並みからは、日向の匂いとサツキが愛用する石鹸の香りがふわふわと漂っている。
『……あぁ、サツキ殿。……あの手の温もり、……あの包容力。……もう、あそこが我が実家でよいのではないか……。……明日にでも、……また、……行こう……』
父狐は、霊峰の頂で横たわりながら、念話でうっとりと独り言を漏らしていた。その表情は、神としての威厳など微塵も感じられない、ただの「骨抜きにされたキツネ」そのものである。
だが、その背後に、燃え盛るような紅蓮のオーラを纏った巨大な影が立っていることに、彼は気づいていなかった。
『……あなた。ずいぶんとお幸せそうね?』
地響きのような、冷徹な念話。
父狐が飛び起きて振り返ると、そこには彼よりも一回り大きく、さらに神々しい紅の毛並みを持つ九尾の狐――シロの実の母親であり、天狐の王妃が、金色の瞳を険しく光らせて立っていた。
『……は、ハニー!? いつからそこに!?』
『「サツキ殿」……ですって? その腑抜けた顔、そしてその女の残り香。……あなた、一族の誇りを捨てて、どこのメスキツネに鼻の下を伸ばしてきたのですの!?』
『ち、違うのだ! あれはメスキツネではない! 聖母というか、おかんというか……とにかく凄いのだ! ブラッシングが……あの指使いが、魂を浄化するのだ!』
『言い訳は見苦しいですわ! 私という妻がありながら、よその女に毛を梳かせて「実家」だなんて! その「サツキ」という女、私がこの目で確かめてやりますわ。もし不届きな誘惑者であれば、この霊峰ごと焼き尽くして差し上げます!』
激怒した王妃は、爆風を巻き起こして空へと舞い上がった。父狐は「待ってくれ、誤解だ!」と叫びながら、必死にその後を追うこととなった。
一方、隠れ里では。
「あらあら、なんだかまたお空が赤くなってきたわねぇ。シロちゃん、今度はお母様が怒ってやってきたのかしら? お茶菓子を多めに用意しなきゃね」
サツキは庭で「かりんとう」を皿に盛りながら、のんびりと空を見上げていた。
「きゅう……。きゅう、きゅうぅ……(あーあ、ママ(実母)が来ちゃった。パパ、絶対に浮気を疑われてるよ……)」
シロがサツキの影に隠れて震える中、空を切り裂くような轟音と共に、真っ赤な炎を纏った王妃が里の庭へと降臨した。
『貴女が「サツキ」ですの!? 我が夫をたぶらかし、神獣の誇りを奪った罪、万死に――』
「あらあら、遠いところからご苦労様ねぇ、お母様。……でもね、そんなに怖い顔をしていると、せっかくの美人が台無しよ? ほら、このハーブティーでも飲んで、少し落ち着きなさいな」
サツキは、焼き尽くさんばかりの殺気を放つ王妃に対し、まるでお隣さんが回覧板を持ってきた時のような気軽さで、湯気の立つカップを差し出した。
『……な、……なんですの、この女。私の神気が、……霧散していく?』
王妃は戸惑いながらも、サツキの「全肯定おかんスマイル」に気圧され、差し出されたカップを反射的に口にした。
『…………っ!? な、何ですの、この心洗われる味は……。……いえ、騙されませんわ! ブラッシングですわね? 夫が言っていたのは! 私にもなさい! もし夫へのサービスより少しでも劣っていたら、その時は承知しませんわよ!』
王妃はプライドを懸けて、ドサリとサツキの前に座り込んだ。
サツキは「あら、お母様も毛並みが立派ねぇ」と微笑みながら、昨日よりもさらに念入りに磨き上げた特大ブラシを取り出した。
「はい、お母様。力を抜いてね。……よしよし、子育てでお疲れだったんでしょう。ここは特に凝っているわねぇ」
「……グ、……ルゥ……。……ッ!?」
『……あ、……あぁ……。サツキさん、……貴女、……これ、……反則ですわ……。魂が、……蕩けますわ……』
わずか一分後。
里の庭には、夫以上のスピードで陥落し、サツキの膝に頭を預けて「クゥクゥ」と喉を鳴らす王妃の姿があった。
「あら、シロちゃんのお母様は、お耳の後ろが弱点なのねぇ。ふふ、可愛いわ」
『……はぅ、……そこ、……最高ですわ……。……サツキさん、……貴女を、……我が一族の、……終身名誉母(名誉顧問)として、……お招きしたい……』
(きゅう、きゅうっ! パパ、ママも完落ちだよ。……もうこれ、浮気とか言ってるレベルじゃないね)
上空でハラハラしながら見ていた父狐が、そろりと庭に降り立つ。
『……ハニー、分かってくれたか。彼女は誘惑者ではない。……「母」なのだ』
『……分かっていますわよ。……サツキさん、……さっきは、不躾なことを言って、……ごめんなさい。……貴女のこの手は、……神の御手そのものですわ……』
神獣の王と王妃が、サツキの両脇で「もふもふ」になり、サツキと「ママ友」のような雰囲気で話し込む。
「ふふ、いいのよ。シロちゃんはもう、私たちの家族だもの。……あ、そうだわ。これ、お近づきの印に持っていってくださる?」
『……サツキさん。今日のところは、貴女に免じて夫を許しますわ。……でもね。サツキさんは「母」として尊敬しますけれど、女としてのあなたは、……その、……素敵すぎますわ。……あなた(夫)、……サツキさんを、……「女」として、……誘惑するのは、……ダメ。……絶対ですわよ!』
王妃は念話で釘を刺しながら、鋭い眼圧で夫を射抜いた。
父狐は『め、滅相もない! 畏れ多い!』と、しっぽを巻いて平伏する。
「あらあら、仲がいいのねぇ。……じゃあ、これ。お近づきの印に、今度は二人分のお守り袋よ」
サツキからお守りを受け取った夫妻は、今度こそ仲良く寄り添って、夕焼けの空へと舞い上がっていった。
お礼に残されたのは、昨日よりもさらに巨大な『神霊果(桃)』が二つ。
「ふふ、お母様もいい方だったわねぇ。……さあ、シロちゃん。夕飯の前に、お父様に汚された廊下をお掃除しちゃいましょうか」
(きゅう……。パパ、最後までママ(実母)に睨まれてやんの。……でも、まぁ、これで当分は平和だね)
最強の神獣夫妻すらも「ただの仲良し夫婦」にしてしまうサツキのおかん力。
隠れ里の平穏は、神々の修羅場すらも「ママ友の茶飲み話」へと昇華させ、今日も平和な夜を迎えるのであった。




