第16話:里にそびえ立つ巨大な影。シロのパパ、視察にくる
隠れ里『聖母の箱庭』に、かつてないほどの「圧」が降り注いだ。
それは魔王の放つ殺気とは正反対の、あまりにも清廉で巨大な、純粋なる神性であった。
「あらあら……。急に日が陰ったわね。シロちゃん、雨が降るのかしら」
庭でシロのブラッシングをしていたサツキが、ふと顔を上げた。
そこには、結界の外側に里の山々を越える巨大な影がそびえ立っていた。
金色の毛並みに、九つの尾。伝説に謳われる神獣天狐の王。シロの実の父親である。
「きゅう……っ! きゅう、きゅうぅ……(パ、パパ!? どうしてここが分かったの!?)」
サツキの膝の上で、シロがこれまでにないほど尻尾を丸め、耳を伏せて震えだした。
巨大な狐は、人間に向かって言葉を発することはない。ただ、地響きのような低い唸り声が、シロの脳内にだけ強烈な念話となって叩きつけられた。
『……我が愛しき子よ。一族の誇りたるお前が、かようで矮小な人間に飼われていると聞き、連れ戻しに参った。その女を焼き払い、今すぐ山へ戻るのだ』
(やめてよパパ! 焼き払うなんて絶対ダメ! ママは僕を助けてくれた、世界一のお母さんなんだから!)
シロが必死に鳴いて抗議するが、父狐の金色の双眸は、サツキを冷酷に射抜く。その視線だけで並の勇者なら精神を砕かれる威圧。だが、サツキはブラシを手にしたまま、まぶしそうに目を細めて空を見上げた。
「あらあら……。シロちゃんのお父様? 遠いところから、わざわざご苦労様ねぇ。……でもね」
サツキは、その巨大な足元までトコトコと歩み寄り、腰に手を当ててキリリと言い放った。
「そんなに大きいと、玄関に入れないし、お話しするのに首が痛くなっちゃうわ。……ほら、ちゃんとお部屋に上がれるサイズになりなさい! いいわね?」
サツキは言葉の通じぬ巨獣に言い聞かせるように、ビシッと指を指した。
その瞬間、伝説の天狐を包んでいた絶対的なプレッシャーが、サツキの「躾」を前に霧散するように消えていく。
山のような巨体はサツキの意志に従うように瞬く間に縮小し、次の瞬間、庭には大型犬ほどのサイズになった美しい狐が、きょとんとした顔で立ち尽くしていた。
『……な、何をした人間。我が神力が、……吸い取られるように……』
(あーあ、パパ。だから言ったのに。サツキママに「コラッ」て言われたら、僕たち神獣でも逆らえないんだよ)
父狐が狼狽して唸るが、サツキは構わずその首筋を「よしよし」と力強く撫でた。
「よし、いい子ね。……さあ、シロちゃんがいつもお世話になってるお礼に、まずはブラッシングしてあげましょうか。お山の方は空気が乾燥しているのかしら、少し毛並みがパサついているわよ?」
「グルッ……!?(な、なな、何を――)」
牙を剥こうとした父狐だったが、サツキの手が触れた瞬間に身体から力が抜け、金色の瞳がトロンと濁り始める。サツキはそのまま、特大のブラシを振るい始めた。
「お父様、動かないで。ほら、ここ。毛玉ができてるじゃない。痛くないようにしてあげるからね」
「……クゥ、……クゥゥゥ……(は、反則だ……こんなの……抗えるはずが……)」
大陸を統べる神獣の王が、サツキの手技の前に、わずか数秒で「ただの気持ちよさそうなキツネ」へと成り下がった。
『……あぁ。……これほどまでに深い慈愛。……あの子が、帰りたがらない理由が、……今、分かりました……』
(ね、パパもそうでしょ? このブラッシングを知っちゃったら、もう山には帰れないよね!)
庭の真ん中で、親子二匹がサツキに無言で「もふもふ」にされるという、シュールな光景が展開される。
「きゅう、きゅうっ(パパ。言ったでしょ? ここは言葉なんていらない、究極の癒やしスポットなんだよ!)」
シロが父狐の周りを跳ね回り、これでもかとマウントを取る。それを見た父狐は、ブラッシングの快感に身を委ねながらも、シロに静かに念話を返した。
『……認めよう。この人間は、我らよりも上位の存在……すなわち、真の「母」だ。お前を託すに、これ以上の器はあるまい』
ひとしきりブラッシングを終えたサツキは、満足げに立ち上がった。
「あら、すっかり綺麗になったわね。……シロちゃん、お父様にお礼を言いなさい」
父狐は凛とした顔つきに戻ろうとしたが、サツキの手を名残惜しそうに鼻先で突き、最大級の親愛を示して一鳴きした。
「ふふ、いいのよ。シロちゃんはもう、私たちの家族だもの。……あ、そうだわ。これ、お近づきの印に持っていってくださる?」
サツキが差し出したのは、シロの抜け毛を詰めた『特製お守り袋』。
父狐はそれを恭しく口に咥えると、空へと舞い上がっていった。
お礼として庭に残されたのは、一口食べれば寿命が延びる伝説の『神霊果』。
「あら、お土産までいただいちゃって。……ねぇ、アリアちゃん、今日のデザートはこの桃を剥いてあげましょうね」
「……う、うん。……神様が置いていった桃を、ただのフルーツとして食卓に出す。……やっぱりママが一番最強だよ」
(きゅう、きゅうっ! パパ、結局サツキママに骨抜きにされちゃったね!)
シロは勝ち誇ったように鼻を鳴らし、サツキの肩に飛び乗った。
言葉の通じぬ神獣すらも「ただの親戚」にしてしまうサツキのおかん力。
隠れ里の平穏は、神々の来訪すらも「日常」として飲み込み、今日も平和な夕暮れを迎えるのであった。




