番外編 とある勇者の物語8
「……どうしたんだい、夜空を見上げて。今日は曇りだし、星も見えやしないよ」
夜の静けさの中に、女の声が響いた。
そこにいるのは、二人の女性だった。
一人は、すらりとした長身の女性。もう一人は、それよりもずっと小柄な女性だった。
雲の厚く垂れ込めた夜空には月明かりもほとんどなく、辺りを照らすものといえば、遠くにぼんやりと滲む街の明かりくらいだった。
二人の姿は暗闇に溶け込み、互いの顔立ちさえはっきりとは見えない。
それでも、不思議なことに声だけはよく通った。
長身の女性――エヴァーの声には、大人びた落ち着きと、どこか人を惹きつけるような色気があった。
暗闇の中では、その姿よりもむしろ声の方が鮮明に感じられるほどだった。
小柄な女性は、しばらく黙って夜空を見上げていた。
雲の向こうには星があるはずなのに、今夜はその姿すら見ることができない。
やがて、意を決したように口を開く。
「エヴァー様は、お星様はいつも私たちを見てくださっていると思いますか?」
その声には、わずかな迷いが滲んでいた。
エヴァーは、すぐには答えなかった。
彼女もまた空を見上げる。けれど、そこに星はない。
「それは……どうだろうね」
少しだけ間を置いて、エヴァーは静かに答えた。
「私には分からないな。きっとお星様も忙しいだろうしね。お星様だって、何でもできるわけじゃないだろうさ」
軽く笑うような声音だった。
冗談めかした言い方ではあったが、決して星を侮っているわけではない。
「それにしても、なんでそんなことを聞いたんだい?」
小柄な女性は、すぐには答えなかった。
「……えっと、そのー」
言葉を探すように、視線を彷徨わせる。
それを察したのか、エヴァーの声が少しだけ弾んだ。
「怒らないから言ってみなよ」
その声音には、隠しきれない笑みが混じっていた。
顔は見えなくても、きっと今、エヴァーはとてもニヤニヤしているのだろう。
小柄な女性は少しだけ躊躇ったあと、観念したように息を吐いた。
「……。じゃあ言いますよ」
一度、言葉を切る。
そして、今度は先ほどよりもずっと真剣な声で尋ねた。
「もしエヴァー様は、自分の信じていたものがハリボテだと気づいたら、どうしますか?」
しばし、沈黙が落ちた。
風が静かに吹き抜け、二人の衣服を僅かに揺らす。
やがてエヴァーが、小さく笑った。
「ふふ、なんだ。そういうことか」
その声には、少しだけからかうような響きがあった。
「つまり君はその、星を信じてもしょうがないんじゃないか、って言いたいわけだ」
「そ、そんなことは言ってませんよ」
小柄な女性は慌てて否定する。
「ただ、星を信じている人も、報われずにその生を終わらせる人はたくさんいます」
言葉を続けるにつれて、その声は少しずつ小さくなっていった。
「なので……少し不安に思っただけです」
また、静寂が訪れる。
遠くから風の音が聞こえる。
星は、まだ雲の向こうだった。
エヴァーはそんな夜空をしばらく眺めていた。
何かを考えているようにも見えた。
けれど、やがて小さく息を吐く。
「お星様を信じれば、必ず救われる――なんて考え方が、そもそも正しいのかは分からないけどね」
先ほどまでの軽さが、少しだけ消えていた。
「信じること自体が悪いわけじゃない。何を信じるのかも、どう信じるのかも、その人の勝手だと思う」
一度、言葉を止める。
「ただ……」
エヴァーは、少しだけ迷うように続けた。
「それで救われなかったからって、全部を嘘だったことにするのも、私は違う気がするんだ」
小柄な女性は、黙って聞いている。
「結局、大事なのは……どう信じるかだけじゃないんだろうね」
エヴァーは言葉を探すように、ゆっくりと続けた。
「どう考えて、何を選んで、それからどう生きるのか。たぶん、そういうことなんじゃないかな」
その言葉は、夜の静けさの中に一つずつ落ちていった。
「だから、大いに悩むといい」
一拍。
「お星様だって、その時間を邪魔するほど狭量じゃあないだろうさ」
穏やかな言葉だった。けれど、小柄な女性は思っていたよりもずっと深い返答が返ってきたことに驚いていた。
ただの気休めではない。
そんな気がした。
まるで、エヴァー自身も何かを悩み続けているような――。
「……エヴァー様も、そういう時期があったのですか?」
問いかける声は、今度は迷いがなかった。エヴァーは答えなかった。
夜風が二人の間を通り抜ける。雲は相変わらず空を覆い、星の光はどこにも見えない。
しばらくして、ようやくエヴァーが口を開いた。
「……その最中だよ」
その声は、先ほどまでとはまるで違っていた。
笑みも、からかうような響きもない。
ただ静かで、ひどく悲しげだった。暗闇の中では、その表情を見ることはできない。
それでも、小柄な女性には分かった。
エヴァーが今、どんな顔をしているのか。
そしてその夜、二人の頭上には最後まで星は姿を見せなかった。
◇
「ただ――お前が世界を知るには、それが一番早い」
ゼロが、いつになく真剣な声でそう言った。
先ほどまでの軽薄とも取れる笑みは、その言葉と共に僅かに薄れていた。
薄暗い部屋の中。
酒の匂いがまだ濃く残っている空気の向こうで、ゼロの瞳だけが妙に鮮明に見える。
その声には、期待や興味、そしてどこか哀愁のようなものまで混じっている気がした。
まるで鬼丸に何かを見ているような――。
しかし、それが何なのかまでは分からない。
「ゆうしゃ……」
鬼丸は、自分にしか聞こえないほど小さな声で呟いた。
口にした瞬間、不思議な感覚が胸の奥を撫でた。
初めて聞いた言葉のはずなのに、なぜか妙に懐かしい。
耳に馴染むというか、ずっと昔から知っていたような感覚がある。
だが、それ以上に思い出せることはない。
鬼丸は眉間に皺を寄せながら、その単語を頭の中で何度も転がしてみる。
勇者。
ゆうしゃ。
その響きだけが残り、意味だけがぽっかりと抜け落ちている。
自分でも不思議に思いながら、その単語の意味を考える。
だが、何も思い浮かばない。
「勇者というのは、困っている人々を導く英雄みたいなものさ」
そんな鬼丸の様子を察したのか、ゼロは優しげな声で説明を続けた。
先ほどまでのからかうような口調とは違う。
子供に何かを教える教師のような、妙に穏やかな声音だった。
「別に、心から英雄を演じきれと言っているわけじゃない」
ゼロはそう言って、僅かに肩をすくめる。
「お前の性格も、一方的ながら知っているつもりだ。決して聖人のように振る舞える人間じゃないこともね」
「余計なお世話だ」
鬼丸は即座に返した。
ゼロはそれを聞くと、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それでも、人々と交わり、何かを成していけば、自ずと失ったものを思い出せるようになるはずさ」
鬼丸は返事をしなかった。
部屋の中には、二人の声だけが残る。
酒の匂い。
床に転がった酒瓶。
雑然とした部屋。
そんな場所で語られるには、「勇者」という言葉はあまりにも場違いに思えた。
鬼丸はゼロをじっと見つめる。
その表情は穏やかだった。
……だからこそ胡散臭い。
「……仮にそうだとして、お前たちには何の得がある?」
鬼丸が尋ねる。
「おやおや」
ゼロは楽しそうに笑った。
「結構な目で人を見るじゃないか」
その言葉に、鬼丸はますます胡散臭そうな目を向ける。
「もちろん、こちらにも得のある話だよ」
ゼロは気にした様子もなく続けた。
「今の大陸の情勢は知っているかい?」
「ああ。侵略軍やらアウトレイジやら皇帝やらで、色々と混乱しているとか」
鬼丸はこれまで聞いた話を思い返しながら答える。
侵略軍、アウトレイジ。そして皇帝。
大陸の各地で起きている出来事は、鬼丸にとってまだ断片的な情報に過ぎない。
それでも、少なくとも平穏とは程遠い状況にあることくらいは理解していた。
「皇帝がどうこうというのは火文明だけだが……まあいいか」
ゼロは軽く手を振った。
「概ねそんなものだ」
そして、少しだけ声の調子を落とす。
「そして、この情勢は非常に都合がいい」
「……都合がいい?」
「色々な場所に、オラクルの思想を広めるにはね」
ゼロの言葉を聞いて、鬼丸は僅かに目を細めた。
「……つまり?」
「君たちには、プロパガンダの先鋒に立ってもらいたい」
その言葉が部屋に落ちる。
一瞬、鬼丸は何を言われたのか分からなかった。
「プロパガンダ」
鬼丸はその言葉を繰り返す。
「宣伝工作か」
意味を理解した瞬間、思わず呆れた声が漏れた。
「これまた大層な野望を……」
「そうだろう?」
ゼロは悪びれる様子もない。むしろ楽しそうだった。
「だから、君たちには頑張ってもらわないとね」
「……君たち?」
鬼丸が聞き返す。
ゼロは何でもないことのように頷いた。
「ああ、そうとも」
そして、鬼丸の反応を楽しむように続ける。
「お前一人だと、やることなすこと悪評を振り撒くだけで終わりそうだからね」
「おい」
「だから、仲間を二人、用意させてもらったよ」
「勝手に決めやがって……」
鬼丸が吐き捨てる。しかしゼロはどこ吹く風だ。
「道中で他の仲間を増やしてもいいよ。人数に関しては好きにするといい」
そう言いながら、ゼロは部屋の片隅へ視線を向けた。
その仕草が妙に自然だった。
まるで、すでに次の展開を知っているかのように。
「ただし――」
ゼロはそこで言葉を切った。
僅かな沈黙。
そして、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「これは君だけの責任じゃなくなっちゃうからね」
鬼丸は嫌な予感がした。
「もし上手くいかなかったら――」
一拍。
ゼロの笑みが深くなる。
「ボクとお前とで、ガチバトルだ」
「…………」
鬼丸は無言になった。
それは困る。非常に困る。
冗談では済まされない。
少なくとも、こいつ相手では戦うどころか、逃げることすら叶わなそうだ。
鬼丸はゼロの姿を改めて見る。
華奢に見える。
力を持っているようには見えない。
なのに、なぜか勝てる気がまるでしない。
むしろ戦おうと考えること自体が間違いなのではないかと思えてくる。
「詳細は後で伝えるから、ひとまずは指示に従っておいて」
ゼロはそんな鬼丸の内心など知ったことではないとばかりに話を進めた。
そして何かを思い出したように、ぽん、と手を叩く。
「と、いうわけですでに来てもらってるから」
「……もう来てるのか?」
「うん」
あまりにも自然な返事だった。
「三人で仲睦まじく話してくれ」
「雑だな、おい」
鬼丸が呆れた声を出す。
だが、ゼロはもう話は終わったとばかりに踵を返した。
部屋の入口に控えていた神父を引き連れ、そのまま廊下へ歩き出していく。
「おい、説明は――」
鬼丸が呼び止めようとした時には、すでに二人の背中は廊下の奥へと遠ざかっていた。
やがて扉の向こうから、二人分の足音が響く。
コツ、コツ、と規則正しい足音。
そして、それが完全に聞こえなくなった頃。
鬼丸は一人、酒臭い部屋に取り残された。
「……本当に勝手な奴だな」
小さく呟く。
すると今度は、先ほどとは違う足音が近づいてきた。
軽い足音が一つ。
そして、それに続くように――
ズシン、ズシン、と床そのものを揺らすような足音が一つ。
鬼丸はそちらへ視線を向ける。
最初に姿を現したのは、見覚えのある少女だった。
「数日ぶりだね、鬼丸……って」
ナズナが部屋へ入った瞬間、ぴたりと足を止める。
そして鼻をひくつかせた。
「臭っ。飲んでたの?」
「飲んでない。例のあいつが飲んでただけだ」
鬼丸が答える。
「そっちの……人? は初めまして。狩人をやってるナズナです」
ナズナは鬼丸の横を見ながら挨拶する。
だが、その視線は明らかに鬼丸の後ろへ向けられていた。
そこに立っていたのは――
法衣を着た超獣だった。
あまりにも巨大だった。
身長は三メートル近くありそうで、鬼丸の視界を大きく塞いでいる。
身体全体は硬く鋭そうな殻に覆われており、光を受けるたびにその表面が鈍く光っていた。
法衣を着ているという一点を除けば、とても僧侶には見えない。
むしろ、その巨体と異様な外見だけなら、今にも襲いかかってきそうな怪物にすら見えた。
そんな見た目とは裏腹に、その超獣は豪快な笑みを浮かべている。
……ように見えた。
「俺は二人とも初めましてだな」
低く、よく響く声だった。
「オウ禍武斗って言う。見ての通り僧侶だ」
見ての通りと言われても、鬼丸には何がどう見た通りなのかよく分からない。
法衣を着ているから僧侶なのだろう。
少なくとも鬼丸はそういうことにしておいた。
「短い付き合いだろうが、よろしくな」
オウ禍武斗は大きな手を差し出した。
その手だけでも鬼丸の顔ほどありそうだった。
「指示は呪文で俺に伝わるからよ。それも頭ん中にぶち込んでくれ」
「分かった」
鬼丸が頷く。
オウ禍武斗は満足そうに笑った。
そして、改めて部屋の中を見回す。
床に転がった酒瓶、残された酒の匂い。
そして、それを見て僅かに目を細めた。
「……それにしても、朝っぱらから飲むたあ気概のあるやつじゃねえか」
鬼丸が何か言う前に、オウ禍武斗は豪快に笑った。
「気に入ったぜ」
「だから僕じゃないって言ってるだろ……」
鬼丸はため息混じりの声をあげた。
そして改めて二人を見る。
「……僕は鬼丸だ。戦士をやってる」
一度言葉を切り、二人に尋ねる。
「二人は話をあいつから聞いてるのか?」
「ゼロ様を『あいつ』呼ばわりできるのは、鬼丸ぐらいだよ」
ナズナが苦笑した。
「話っていうのは、勇者がどうこうってこと?」
「ああ。それなら俺も聞かされてるぜ」
オウ禍武斗も頷く。
「まあ、呼び方なんてのはなんでも良いとは思うがな」
「そういう問題なのか?」
鬼丸は呆れながら呟いた。
どうやら、あいつはこうなることを最初から予測していたらしい。
自分がどんな反応をするのか。
誰を寄越せばいいのか。
どこまで説明すれば自分たちが動くのか。
全部、最初から計算していたのかもしれない。
そう考えると、改めて背筋が寒くなる。
末恐ろしい奴だ。
「つまり、俺たちはどうやら体よく利用されちまったみたいだな」
鬼丸は二人を見渡した。
自分のような戦士。
狩人のナズナ。
そして、巨大な僧侶のオウ禍武斗。
どう考えても、まともな組み合わせには見えない。
それでも、これがゼロの考えた「勇者パーティ」なのだろう。
「まあ、これからよろしく」
鬼丸がそう言うと、ナズナが不思議そうに首を傾げた。
「あれ?」
長い髪が肩の上で揺れる。
「私たちは鬼丸に巻き込まれたんじゃないの?」
「……」
鬼丸は返事に困った。
確かに、その通りなのかもしれない。
「俺としちゃあどうでもいいが」
オウ禍武斗が腕を組む。
巨体が動くたび、法衣の布が擦れる音がした。
「悪巧みに利用されちまったみてえだな」
そして、少しだけ間を置く。
「どうでもいいが」
「二回言ったな、お前」
「大事なことだからな」
「いや、そういう問題じゃないだろ」
鬼丸は呆れながら二人を見る。
妙な奴らだった。
自分も人のことを言えた義理ではないが、それでも妙な奴らだと思う。
だが、不思議と、嫌な感じはしなかった。
少なくとも、一人でゼロの思惑に乗せられているよりはマシだろう。
鬼丸は小さく息を吐いた。
「変な形で集まったわけだが――」
鬼丸は二人を見た。
ナズナは少し不安そうでありながらも、どこか楽しそうにこちらを見ている。
オウ禍武斗は腕を組んだまま、豪快な笑みを浮かべている。
そして鬼丸自身は、未だに「勇者」という言葉の意味すら完全には思い出せていない。
それでも。
「勇者パーティとして、よろしくな」
一瞬の沈黙。
やがて、二人がほとんど同時に答えた。
「「ああ」」
三人の声が、酒の匂いの残る部屋の中に重なった。




