番外編 とある勇者の物語7
ああ、痛い、悲しい、辛い、苦しい。
世界はこんなにも残酷で、悲しみに溢れている。
人々は互いを憎み、恨み、傷つける。
そして、傷つけられる。
そんな世界が、僕にはとても、とても怖かった。恐ろしくて、泣きたくなる。
あの楽しかった日々を、ある日突然失ったことを思い出すたび、胸の奥を何かで強く打ちつけられたような痛みが走る。
……いや、きっと、違う。
僕らが「突然だ」と思った出来事にも、きっと何か理由があったのだろう。
何かと何かが繋がり、その繋がりが、ほんの些細なきっかけで弾けた。
その結果、全てが崩れ去った。
そして、その根底にはきっと――憎しみや恨みがある。
なんて世界は苦しいのだろう。
辛い。
辛い、辛い、辛い。
どうしてこんなにも辛いのだろう。
痛い。何が痛いのかも分からないのに、痛い。
悲しい。苦しい。
世界が怖い。他人が怖い。
恐ろしくて、逃げ出したい。
なのに、足がすくんで動かない。
誰か、誰か僕を助けてください。
誰か――この苦しみを終わらせてください。
◇
オラクル教団の構成員たちの朝は早い。
ちなみに、ここでいう構成員とは、教団の庇護下にある村や里、町で暮らす住民たちのことである。
朝五時頃、季節によって多少の違いはあるものの、日が昇る頃になると、住民たちは広場へと集まる。
まずは挨拶を交わす。互いに言葉を交わし、近況を尋ねる。
そして、その後は全員で体操を行う。
一見すれば、どこにでもありそうな朝の日課だった。
しかし、これにはオラクル教団なりの理由がある。
この土地には人間だけでなく、様々な種族が暮らしている。
種族によって仕事や役割が分かれているため、普段の生活だけでは全く関わらない者たちも少なくない。
だからこそ、こうして毎朝顔を合わせる。言葉を交わし、互いの存在を知る。
種族同士の交流を増やすことも、オラクル教団が大切にしていることの一つだった。
そして一連の交流が終わると、住民たちは教会へ向かう。
神に祈りを捧げるためだ。
祈りを終えれば、それぞれの家へと戻る。
朝食を済ませた後、子供たちは学び舎へ、大人たちはそれぞれの仕事へ向かう。
そんな教会に集まる時間には、任務中ではないオラクル教徒たちも、もちろん姿を見せていた。
そして――鬼丸もまた、その一人だった。
今の鬼丸には、ゼロに会うという目的がある。自分について聞くためだ。
初めて出会った時、ゼロは妙なことを口走っていた。
もしかすると、彼女なら何かを知っているかもしれない。
何も分からない自分の過去。
胸の奥で、常に燻り続ける言い表しようのない焦燥。
そして――心のどこかに、何か大切なものが欠けているような不思議な感覚。
ゼロに会えば、その答えが見つかるかもしれない。
……いや。
見つかってほしい、と鬼丸は思っていた。
何も知らないまま生きていくには、自分という存在に対する違和感が、あまりにも大きくなりすぎていた。
◇
子供たちの世話をしていた神父にゼロの居場所を尋ねると、意外なほどあっさりと教えてくれた。
どうやら、鬼丸が彼女を訪ねてきた場合は、ここへ案内するようあらかじめ言われていたらしい。
「今の彼女は、随分とお疲れのようですので……気をつけてくださいね。この部屋の中にいらっしゃいます」
神父は扉の前で、どこか困ったような顔を浮かべながらそう言った。
疲れているのは、任務帰りだからだろう。
しかし――気をつけろ、とはどういう意味なのだろうか。
少し気になった。
だが、ここでうじうじと考えていても何も進まない。
怠惰な自分だからこそ、今この機会を逃せば、次に動くのはいつになるか分からない。
そう考えると、妙に気持ちが急いた。
鬼丸は意を決し、扉を開ける。
そして。
朝から酒盛りをしているゼロと出会った。
「ん〜?」
酒瓶を片手にしたゼロが、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
「ああ、来たか。何の用だ? 怖い夢でも見て、眠れなくなったか?」
部屋の中には、濃厚な酒の匂いが充満していた。
「朝っぱらから酔っ払ってるけど、教義的にも大丈夫なのか?」
「まあ、彼女は特別ですから」
背後から神父が答える。
「あと、訂正すると――彼女は昨夜から飲んでいます」
「それは余計ひどくないか?」
「ごちゃごちゃうるさい」
ゼロが酒瓶を持ち上げた。
「さあ、飲め」
「いや、まだ朝――」
「飲め」
有無を言わせぬ勢いだった。
鬼丸は差し出された杯を受け取る。
しかし、その瞬間。
「……ん?」
杯に注がれていた酒が、みるみるうちに蒸発していった。
鬼丸は無言で神父の方を見る。
「飲むふりだけで大丈夫ですよ〜」
「いや、何が起きてるんだ?」
「彼女は酔い潰れないと眠れない体質なのです。そして、ものすごく酒に強いので。こうでもしないと眠れません」
「別に、無理して眠る必要はないんじゃないか?」
その言葉にゼロの動きが、僅かに止まった。
「寝れば必ず、夢を見るんだ」
先ほどまでの軽い調子とは違う声だった。
鬼丸は、自然とゼロを見る。
彼女は手に持った酒を、静かに見つめていた。
「ボクの根幹にあった日々のことを」
一拍。
「……それを忘れないためにも、ボクは寝る」
意味は分からなかった。
だが、それ以上聞いてはいけないような気がした。
だから鬼丸は、話を戻す。
「……単刀直入に聞く」
ゼロを見る。
「貴女は、僕のことを何か知っているのか?」
「知らん、と言ったら?」
「知らないはずがない」
即答だった。
「だったら、あの時なぜあんなことを言った」
ゼロはしばらく黙っていた。
酒瓶を机の上へ置く。
先ほどまで漂っていた酔っぱらいのような雰囲気が、ほんの僅かに消えた。
そして。
「……真実を知ることだけが、幸せなことではない」
静かにそう言った。
「現にお前は、解放されているではないか」
「何に?」
「忌々しい――壊すことしかできない力に」
鬼丸の表情が、僅かに固まった。
壊すことしかできない力。
その言葉だけが、妙に胸の奥へ残った。
しかし、ゼロはそれ以上を語らない。
「真実を知るには、まだ早い」
「少なくとも、この世界のことを何も知らない今のお前に、教える気はないね」
気取ったような言い回し。
それなのに、なぜだろう。
その言葉が、どこか懐かしく感じられた。
「なら、助言だけでも教えてほしい」
鬼丸は諦めずに尋ねる。
「僕は、何をすればいい?」
「そうだねぇ」
ゼロは再び杯を手に取る。
酒が揺れ、小さな波紋が広がった。
しばらく考えた後、彼女は、ふっと笑った。
「英雄――」
一度、言葉を止める。
そして。
「……いや」
ゼロは鬼丸をまっすぐ見た。
「勇者になるつもりはないかい?」
鬼丸は眉をひそめた。
「……勇者?」
「ああ」
ゼロは、どこか楽しそうに笑う。
「世界を救えなんて言うつもりはないよ」
それにできやしないだろうし。そう呟いた後、酒瓶を傾けながら、続けた。
「ただ――お前が世界を知るには、それが一番早い」
世界を知る。
そのために、勇者になる。
鬼丸はすぐには、その言葉の意味を理解できなかった。
勇者とは何なのか。
何をする者なのか。
誰かを救う者なのか。
強大な敵と戦う者なのか。
それとも。
まだ知らない世界へ、自ら踏み込んでいく者なのか。
今の鬼丸には、まだ分からなかった。
ただ一つだけ。
自分が何も知らないということだけは、はっきりと理解していた。
だからこそ。
鬼丸は、知らなければならなかった。
自分のことを。
この世界のことを。
そして――。
世界がなぜ、これほどまでに恐ろしい場所になっているのかを。




