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第二十五夜 準備

 この世界は、弱肉強食という単純な理によって成り立っている。

 強き者は、弱き者に対して何をしようとも許される。奪おうが、踏みにじろうが、支配しようが、それを止めるだけの力がなければ、誰も強者を裁くことはできない。

 ――しかし、その逆は成立しない。


 弱者が強者に対して同じことをしようとすれば、当然のように叩き潰される。

 ならば、弱き者は強き者を前にしたとき、ただ隅で縮こまり、自分の身に災厄が降りかからないよう耐え続けるしかないのか。

 否。

 そもそも、強さとは何も肉体の強さだけを指す言葉ではない。


 一人では敵わないのなら、同志を募ればいい。一人では持てない力も、十人なら持てる。十人で敵わないのなら、百人を集めればいい。

 人が集まれば、そこには新たな力が生まれる。


 大人数による呪文は、一人の強大な魔術師すら圧倒することがある。数百、数千の兵が一斉に動けば、たった一人の戦士では対処しきれないこともある。

 弱者一人では強者に届かなくとも、弱者が集まり、互いに力を合わせれば、強者を打ち倒すことすらできる。


 それこそが、人が弱肉強食の世界で生き残るために編み出した、もう一つの「強さ」だった。

 ――だが。

 この理屈には、当然ながら逆も存在する。

 強者が、一人ではなく集団として存在したなら。

 そのとき、弱者たちは一体どうするのか。



 ◇



 光文明の王宮、その一室。

 そこには、限りない贅が尽くされていた。

 磨き上げられた白亜の床には、一点の曇りもない。高い天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアには無数の宝石が嵌め込まれ、昼間だというのに室内には柔らかな光が満ちている。壁には名の知れた画家たちの絵画が幾枚も飾られ、部屋の隅には彫刻や花瓶、精巧な装飾品がまるで当然のように並べられていた。


 そのどれもが、一目で価値の分かるような代物ではない。

 むしろ、素人が見たところで「高そうだ」としか思えないだろう。

 だが、それでいい。

 この部屋に置かれているものは、単なる美術品ではない。

 それらは、この部屋を訪れた者に対して無言のまま語りかけるためのものなのだから。


 ――我々には、これだけの財がある。

 ――我々には、これだけの国力がある。

 ――そして、これだけのものを維持できるだけの力がある。


 もちろん、光文明皇帝の趣味を満たすという意味もある。皇帝が美しいものを好むのであれば、王宮に相応しい品々を揃えるのは当然のことだ。

 しかし、それ以上に重要なのが、この部屋を訪れる人間への威圧である。


 そもそも、この部屋に足を踏み入れることができる者自体が限られている。そこらの貴族や役人が気軽に入れるような場所ではない。皇帝の側近、王宮の中枢を担う者、あるいは外交上極めて重要な人物。

 つまり、この部屋に通される者は、皆それなりの立場にある。

 そんな相手だからこそ、言葉で脅す必要などない。


 ただ、この光景を見せればいい。

 相手が座る椅子の隣に置かれた美術品一つだけで、自分の家の財産を遥かに上回る価値があるかもしれない。壁に飾られた絵画一枚が、一般的な町一つを維持できるほどの金額で取引されているかもしれない。

 それを何十、何百と並べている。

 敵対することが得策ではないと思わせるには、それだけで十分だった。

 できることならば、この国の敵になるのではなく――この国の傘下に入りたい。

 そう思わせる。

 それこそが、この部屋の本当の役割だった。


 そして、それを可能にしているのは、光文明そのものの国力である。

 光文明は五文明の中でも、とりわけ行政と統治に秀でた文明だった。

 国民の戸籍は徹底的に整えられ、生まれた瞬間から、その存在は国家によって把握される。

 幼少期には教育を施され、適性を調べられ、才能があればそれを伸ばすための環境が与えられる。どのような仕事に就くのか、どのような場所で暮らすのか、場合によってはどのような人間関係を築くのかに至るまで、国家が介入することすらある。


 自由という意味では、他文明よりも窮屈に感じる者もいるだろう。

 だが、その代わりに与えられるものは大きい。

 食料、住居、教育、医療、治安。

 国家が国民の人生に深く関わるからこそ、光文明では犯罪や貧困も比較的少なく、五文明の中でも群を抜いて安全な国として知られている。


 国民一人一人を管理し、育て上げ、社会を構築する。

 その積み重ねによって生み出される巨大な人口、安定した生産力、整備された交通網、そして莫大な財。

 光文明は、五文明の中でも最大の国力を誇っていた。


 さらに、この国にはもう一つ大きな役割がある。

 ――四龍教の総本山。

 五文明すべてに影響力を持つ宗教、その中心地が光文明に存在しているのだ。そのため実質的な宗教のトップにも立っている。

 そのため光文明は、単に国力が高いだけの文明ではない。

 政治的にも宗教的にも、五文明をまとめる立場にある。

 だからこそ、こうした外交の場もまた光文明が担うことになる。


 そして今日。

 この部屋には、普段なら決して揃うことのない者たちが集まろうとしていた。

 先日、忌むべき侵略者が――再び侵攻を開始したとの報告が入った。

 かつての侵略によって、五文明は大きな被害を受けている。

 各文明がそれぞれに戦い、互いの連携も十分ではなかった。

 その結果、多くの命が失われた。

 だからこそ、今回は同じ轍を踏まない。

 侵略が本格化するよりも前に、五文明の首脳が集まり、今後の対応を協議する。

 そのために、五文明のトップによる会談が開かれることとなった。


 これほどの規模の会談ともなれば、準備する側も尋常ではない。

 王宮の廊下には朝から使用人たちが行き交い、料理人たちは何度も料理の最終確認を行い、外交官たちは各文明の文化や作法を確認し直している。

 机の上には分刻みの予定表。

 廊下には各文明の使節団を迎えるための案内役。

 警備を担当する兵士たちも、普段より遥かに厳重な配置を組まれていた。

 失礼があってはならない。

 警備に穴があってもならない。

 そして何より――五文明の首脳が一堂に会するこの場を、何者にも邪魔させてはならない。

 光文明の皇帝の重臣たちは数日前から慌ただしく動き続けていた。


 やがて、王宮の正門が開く。

 最初の使節団が姿を現した。

 統一された衣装に身を包んだ一団が、王宮の敷地へと足を踏み入れる。

 出迎えの者たちが一斉に頭を下げる。

 その後ろ姿が見えなくなる頃には、今度は別の方向から新たな一団が現れた。


 一つ。

 また一つ。

 さらに一つ。


 それぞれ異なる衣装、異なる文化、異なる旗を掲げた使節団が、次々と王宮へ集まっていく。

 王宮の正門をくぐる馬車と護衛の列は次第に増え、普段ならば静謐そのものだった王宮の廊下にも、多くの人間が行き交うようになっていった。

 五文明の頂点に立つ者たちが、一堂に会する。この世界の今後を左右しかねない会談でもあった。


 その会談の中心となる人物こそ、光文明現皇帝――エルガ・タラポリア・オクトロスである。

 中年の男だった。

 白髪は絹のようになめらかで、肩から背中へと流れる髪には一切の乱れがない。その整えられた白髪とは対照的に、顔には傲岸不遜とも言えるほどの威厳が刻まれている。

 その身体つきもまた、老いを感じさせない。

 まるで巌そのものだった。

 分厚い肩、鍛え上げられた腕、そして長年の鍛錬によって無駄なく引き締められた肉体。華美な装飾を身につけずとも、その姿だけで並の者ならば自然と背筋を伸ばしてしまうほどの圧があった。


 エルガ・タラポリア・オクトロス。

 彼が帝位についたのは二十三歳の時だった。

 数多の兄弟たちを従え、血筋だけではなく己の実力によって帝位を勝ち取った男。それから二十数年もの間、彼は光文明を治め続けている。


 名君。

 そう呼ばれることを、彼自身は好まない。

 しかし、彼が光文明の繁栄のために費やしてきた時間と労力を知る者たちは、口を揃えてそう評していた。

 今日もまた、彼は皇帝としてこの会談の行方を考えていた。

 豪奢な部屋の窓から王宮の庭園を眺めながら、エルガは静かに目を細める。


(全く厄介な、忌々しい侵略者共め)

 前回は奇襲だった。

 そのせいで各文明は対応に追われ、十分な戦力を整えることすらできないまま戦火へ引きずり込まれた。


 だから今回は違う。

 侵略の報を受けた時点で、既に軍は動かしている。

(前回のように後手に回らぬよう準備はしている。だが……おそらく今回は、前回の比ではない大軍勢がやってくる)

 問題は、その規模だ。

 侵略者たちはフィオナの森からやってくる。

 なぜ、今になって再び。


 エルガの頭の中にいくつもの可能性が浮かんでは消えていく。

(フィオナの森での立場が悪化した……いや、流石にそれはないだろう)

 フィオナの森には、数多くのクリーチャーが暮らしている。

 侵略者たちが彼らと共存している可能性も考えたが、エルガはすぐにその考えを切り捨てた。

(あそこに住むクリーチャーと共存するとは思えん。会話のできる個体もいるそうだが、所詮は獣だ)


 ならば、別の理由がある。

(もしくは……森だけの資源では我慢できなくなったか、いずれにせよ何も分からんということが一番の問題だな。情報を集めるしかないが今更どうこうできることでもあるまい)


 どちらにせよ、答えは出ない。

 だが、一つだけ確かなことがある。

(強大な敵であることには変わりないな)

 エルガは窓から視線を外し、室内へ戻した。


 机の上には各文明から届いた報告書が並べられている。

 火文明。

 水文明。

 自然文明。

 そして闇文明。

 それぞれに異なる事情があり、抱えている問題も違う。

 そんな五文明が、侵略者という一つの敵を前にして好き勝手に動けばどうなるか。

 答えは決まっている。


(各文明が好き勝手に動くのは愚策というものだ。主導権を握り、各々の戦力を調整しなければならん)

 だからこそ、この会談には意味がある。

 光文明が五文明の中心として全体をまとめる。

 それが今回のエルガの役目だった。

 そこまで考えたところで、背後から控えめな声がかかった。


「陛下」


 エルガが振り返る。

 そこには、長年彼に仕えてきた側近――テフソウが立っていた。

 腰の曲がった老臣。その姿だけを見れば、誰もが老いさらばえた老人だと思うだろう。

 だが、エルガは知っている。その老いた姿は、彼が意図して作り上げたものだ。

 テフソウは、エルガが最も信頼する側近の一人だった。


「お考えのところ、失礼いたします。お耳に入れたい儀がございます」


「何だ」


「四龍教教皇、マリネッタ様が、もうしばらくでお見えになられます」


「……マリネッタか」


 エルガの表情が僅かに変わった。

 四龍教教皇、マリネッタ。

 人当たりのいい老人。

 少なくとも、周囲の者たちは彼をそう評価している。

 穏やかな笑みを浮かべ、誰に対しても丁寧に接し、冗談すら交えながら会話をする。敵を作らず、人の懐へ入り込むことにかけては天才的な男だ。


 だが。

 エルガにとって、彼は決してそんな単純な人物ではなかった。

(気持ち悪い男だ)

 得体が知れない。それが最も近い気がする。

 何を考えているのか分からないというだけなら、世の中にはいくらでもいる。


 しかしマリネッタは違う。

 その頭脳を持ってしても、その行動を予測できない。

 何を考えているのか分からないのではない。

 ――考えていることそのものが、こちらの想像の外にある。

 だからこそ、エルガは彼を警戒していた。


(だが……こういう状況では頼もしいというものだ)

 同時に、これほど心強い味方もいない。

 エルガとマリネッタは以前から良好な関係を築いている。

 少なくとも、これまで彼が光文明に対して余計な干渉をしてきたことはない。


 そして何より、四龍教には独自の兵力が存在する。

(四龍教直属の兵力を貸してくれる可能性もある)

 侵略者の規模が想定以上なら、戦力はいくらあっても足りない。

 ならば、利用できるものは利用する。


(今後のためにも、仲良くしておいた方がいいだろう)

 エルガはそう判断すると、側近へ向き直った。


「ああ。もう準備は整えている」


 皇帝の声は低く、よく通った。


「彼らの準備が整い次第、迎え入れてくれ。他の文明の者たちもな」


「承知いたしました、陛下」


 テフソウが一礼する。

 やがて足音が遠ざかり、再び部屋に静寂が戻った。


 エルガは一人、窓の外を見つめる。

 王宮の向こうには、光文明の巨大な都市が広がっている。

 整然と並ぶ街路。

 規則正しく配置された建物。

 そこを行き交う無数の人々。

 これまで二十年以上かけて築き上げてきた、この国の姿だった。


 ――これを守らなければならない。

 エルガは静かに拳を握る。その拳には6つの星が描かれたペンダントが握られていた。

 そして、その視線を遠く――フィオナの森のある方角へ向けた。


(来るならば来い)

 その眼差しには、名君としての冷静さと、一人の戦士としての鋭い殺気が同居していた。

(今度は、こちらから迎え撃つ)

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