番外編 とある勇者の物語6
龍世界。
天を貫く龍の咆哮が世界そのものを震わせた。
衝撃波だけで雲海は左右へ裂け、数千年動かなかった山脈が軋みを上げる。
「来たか。」
玉座にもたれ掛かる少女――《龍世界 ドラゴ大王》は静かに黄金の瞳を開いた。
その視線の先、龍の死骸を踏み越えながら、一体の龍が歩いてくる。
無数の《偽りの龍王》を従え、迎撃に現れた龍たちをことごとく打ち倒しながら。
龍の頂点へ幾度となく挑み続けた男、《「修羅」の頂 VAN・ベートーベン》。
「ドラゴ大王ッ!!」
その雄叫びだけで空間が震え、龍世界を覆う大気が爆ぜる。
「今日こそ決着をつける!!」
ドラゴ大王は小さく息を吐いた。
「……またか。」
散らばる龍たちを一瞥する。
「それにしても、あやつらはこれ如きに数を集めても勝てぬとは。これだから、いつまで経ってもオムツが外れん。」
呆れたように肩を竦める。しかしその瞳には怒りはない。
あるのは――愉悦。
何百年も挑み続ける、一人の愚直な龍を眺める楽しさだった。
「何度負けても懲りぬな。」
ベートーベンは牙を見せて笑う。
「だからこそだ!!負けたまま終われるほど安い誇りじゃない!!」
ドラゴ大王も僅かに笑う。
「そうか。」
その一言と共に立ち上がる。
その瞬間、龍世界全土のマナが暴走した。
海が逆巻き、火山が噴き上がり、地平線まで続く大地が悲鳴を上げる。
後方で静かに控えていた《∞龍 ゲンムエンペラー》は一歩だけ退いた。
一歩といってもその巨体からするとという意味で実際は山一つ、もしくは湖一つぐらいだが。
王が戦う。
それだけで世界が姿勢を正したのだ。
「ならば見せてみろ、お前の欲望を。」
刹那、ベートーベンの姿が消えた。
否、世界が追いつけなかったのだ。
轟ッ!!
音より先に山脈が消えた。
数百キロに渡る大地が抉れ、衝撃だけで空間に無数の亀裂が走る。
龍たちですら、その姿を視認できない。
次の瞬間には拳がドラゴ大王の眉間へ届いていた。
――届くはずだった。
「……。」
ドラゴ大王は片手を上げる。
パシッと乾いた音が鳴った。
たったそれだけだった。
龍世界最強の拳は、少女の細い掌一枚で止められていた。
「そこそこ速くなったな。」
「ッ!!」
ベートーベンの瞳が見開かれる。
止められた。
全身全霊、限界を超えた一撃が。
それが、まるで癇癪を起こした子供の拳でも受け止めるように。
ドラゴ大王は拳を軽く握る。
「だが、まだ足りぬ。」
ゴォォォォンッ!!!
世界が沈んだ。
拳を振っただけで。
それだけで地殻が砕け、龍世界に巨大なクレーターが生まれる。
ベートーベンは砲弾のように吹き飛び、
山を一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
次々と山が最も容易く貫通していく。
遥か彼方でようやく止まった。
龍王であっても肉片すら残らぬはずの一撃。
だが、倒れない。
ベートーベンは血を吐きながら笑った。
「最高だ……!やっぱりあんたは最高だ!!」
ドラゴ大王はゆっくり歩く。
一歩、一歩。
その度に大地が沈み、空が軋む。
逃げる気はない。追い詰める気もない。
ただ真正面から歩く。それだけで規格外のマナに誰もが押されていく。
「まだ立つか、勝てぬと知っているだろうに。
馬鹿も突き抜ければ利点になるのだな。」
ベートーベンは折れた角を引きちぎり、血を拭う。
「勝つためじゃない!!俺は!!俺には使命がある!!
お前を超えるという使命が!!」
その瞬間。
ドラゴ大王の笑みが消えた。
黄金の瞳が真っ直ぐベートーベンを射抜く。
数百年、幾千回。
挑み続けた龍にようやく。
王はその執念を認めた。
「……そうか。」
静かな声だった。
だが世界中の龍が震えた。
「ならば、儂は今この時より、お前を真の敵と認めよう。」
その一言だけで、
ベートーベンの瞳に炎が宿る。
全身から溢れる闘気が空を焦がす。
ドラゴ大王も拳を構えた。
世界が息を止める。
龍世界最強の王。
幾度敗れても立ち上がる修羅。
勝敗など最初から決まっている。
それでも。
その一戦は、今日も龍世界という世界そのものを揺るがし続けるのだった。
◇
「のどかだな」
鬼丸はぽつりと呟いた。
小高い丘の上から見下ろせば、オラクルの集落が午後の日差しを浴び、穏やかな時を刻んでいる。
黄金色に色づいた麦畑は風に揺られ、さらさらと耳に心地よい音を奏でる。その間を子どもたちが笑いながら駆け回り、獣人は大きな荷を軽々と運び、翼を持つ者は空から収穫を手伝っていた。
姿形は違えど、誰もが己の長所を活かし、誰かを助け、また誰かに助けられながら生きている。
争いとは無縁の、穏やかな日常。
「……美しいな」
空はどこまでも青く澄み渡り、遠くの山々は淡い霞をまとっている。吹き抜ける風は草木の香りを運び、頬を優しく撫でていった。
この胸に込み上げる感情を言葉にしようとした。
だが、やめた。
どれだけ言葉を尽くしても、この景色には敵わない。
自分の拙い言葉で、この静かな美しさを汚したくはなかったのだ。
鬼丸は現在、オラクル教団に用心棒――本人はそう認識している――として雇われている。
そのため毎日こうして見張り台に立ち、異変がないか目を光らせていた。
(……まあ、あの化け物がいる以上、そうそう危ない奴が入り込めるとは思えんが)
脳裏を過った考えを鼻で笑う。
どれだけ一人が強くとも、どうにもならないことはある。
だからこそ、自分は自分の役目を果たす。
今この場所を守る。
それだけだ。
そう思った瞬間、不意に胸の奥が微かに疼いた。
懐かしい、そんな感覚だった。
(……妙だな、ここへ来て、まだそんなに時間は経っていないはずなんだが)
鬼丸が物思いに耽っていると、背後から軽い足音が近づいてきた。
乾いた土を踏む柔らかな音。
振り返る必要はない。
誰なのかは足音だけで分かったし、何より振り返るのが面倒だった。
「こんにちは、鬼丸! 様子はどう?」
春風のように弾んだ声。
ナズナが満面の笑みを浮かべながら隣へやって来る。
鬼丸は露骨に眉をひそめた。
「上々だ。微笑ましいくらいにな」
「それは重畳……じゃなくて、それは私も見てきたから知ってるわ。」
ナズナは肩を揺らして笑う。
「そうじゃなくて、鬼丸のこと。……お昼、また食べてないでしょ?」
「必要ない。適当に済ませた」
「それ、"食べた"とは言わないの」
鬼丸は盛大にため息を吐く。
(……これだから嫌なんだ)
余計なお節介。
しかも妙なところでしつこい。
放っておいてくれればいいものを。
だが、ここで追い払えば、さらに面倒なことになる。
それを嫌というほど理解していた。
だから黙って空を見上げるしかない。
雲がゆっくりと流れていく。
風は変わらず心地よい。
その静けさの中で、ふと自分の腹に意識が向いた。
そう言われてみれば、最近まともな食事をしていない気がする。
空腹など意識しなければ忘れてしまう。
だが、一度気づけば腹は正直だった。
小さく音を鳴らし、自らの存在を主張する。
(……誰の言葉だったか、「腹が減っては戦はできぬ」……だったな)
確かにその通りだ。
無駄な意地を張る理由もない。
「食べるか」
そう言って歩き出そうとすると、ナズナが嬉しそうに胸の前へ籠を差し出した。
「こんなこともあるかと思って持ってきたんだ。サンドウィッチ」
籠の中には丁寧に包まれた色鮮やかなサンドウィッチが並び、焼きたてのパンの香ばしい匂いがふわりと漂う。
「食べよう? 一緒に」
鬼丸は少しだけ目を細める。
「……そうだな」
二人の間を、麦畑を揺らした風が静かに吹き抜けていった。
それが鬼丸にとって、とても心地が良かった。
次回、一章最終話!




