第二十二夜 実地
その少年は、満たされていた。
何かに秀でていたわけではない。だが、何かに劣っていたわけでもない。
家族がいて、友がいて、笑い合える日々があった。
それだけで十分だった。
それが生きるということであり、世界とはそういうものなのだと、幼い彼は疑いもなく信じていた
それが、彼の小さな世界の絶対だった。
――だが、その世界はあまりにも呆気なく壊れる。
何の前触れもなく、何の慈悲もなく。
彼には何一つ罪はなかった。
あるとすれば、それはそんな運命の下に生まれ落ちたことだけ。
全てを奪われた彼の胸を満たしたのは、悲しみよりも、理不尽への怒りだった。
どうして自分が。
どうしてこんな目に遭わなければならないのか。
あまりにも、自分が可哀想ではないか。
もちろん、愛する者たちを失った悲しみはあった。
だが、その頃の彼はまだ幼かった。
他人の痛みを抱えられるほど強くはなく、自分の傷だけで心はいっぱいだった。
……それでも、一人だけ残っていた。
自分と同じように世界を失い、それでもなお生き残った許嫁の少女。
彼女だけは失いたくない。
その想いが、初めて彼を前へと歩かせた。
生きる理由を失った少年は、生きる目的を求めた。
そして、自らの決意を定めるために――失われた命を、その礎としてしまった。
◇
あれを聞いたのは酒の席だっただろうか。
いや、あんな話を聞くような場面なんて他に思い当たらない。酔っ払いが得意げに語っていた与太話だった気がする。
曰く――人は毎晩夢を見ている。
ただ、目覚めた瞬間に忘れてしまうだけで、本当は誰もが夢を見続けているのだと。
もしそれが本当なら、どうせなら今日の夢も綺麗さっぱり忘れさせてくれればよかったものを。
……要するに、夢見が最悪だった。
逃げるな、とでも言いたいのだろうか。
過去から。
失ったものから。
あの日の自分から。
……いや、違う。
あれはそんな綺麗なものじゃない。
きっと夢はこう言っていた。
「お前の私怨に、他人を巻き込むな」
と。
「…………」
分かっている。
そんなことは、言われなくても。
だから、もうやめてくれ。
何度も何度も思い出させるな。
俺は一体、何をしたいんだ。
人は変わる。
変わらなければ生きていけない。
本当なら、とっくに過去へ区切りをつけて、今を見て生きるべきなんだ。
昔とは違う。
力もついた。
役目も与えられた。
守らなければならない人も増えた。
死んでいったみんなへの恩返しは、それしかないはずだ。
……それなのに。
胸の奥に残った棘だけは、どうしても抜けてはくれなかった。
まるで「まだ終わっていない」とでも言うように。
「……いかん」
頭を軽く振る。
考えても答えは出ない。
そろそろ待ち合わせの時間だったはずだ。
集合場所は……確か協会の前だったか。
◇
「イェネロスさん!」
待ち合わせ場所へ向かうと、すでにゴニアたちが集まっていた。
見慣れた四人組も一緒だ。
「悪い、待たせたか?」
「いえ、今来たところです」
そのまま馬車へ乗り込み、今日の目的地である懐かしの山へ向かう。
道中、暇つぶしも兼ねて尋ねる。
「今日の試験って、なんか条件でもあるのか?」
「いえ、特にはありません。ただ……クリーチャーとの憑依は禁止されています」
「ああ、やっぱりか」
納得だ。
戦えない連中が無理に憑依すれば、マナは一瞬で尽きる。
最悪、制御できず暴走しかねない。
便利な力ほど、扱う側にも相応の力量が求められるというわけだ。
「そういや、お前らもちゃんと契約してたんだな」
そう言うと、一人がおずおずと答えた。
「学校の試験で、大きな契約石に触れるんです。そこで相性のいいクリーチャーと契約するのが恒例で……だから、ほとんどの人は何かしらのパートナーがいます」
「へぇ……」
契約、ねぇ。
いまいち実感が湧かない。
「『簡単に言えば、当て馬を逃がさないための首輪みたいなもんだ』」
……言い方
思わず苦笑する。
間違ってはいないのが腹立たしい。
少し苦笑していると、一人がおずおずと頭を下げた。
「あの……今さらなんですけど」
「ん?」
「俺たちも一緒に見てもらって、本当にありがとうございます」
「「「ありがとうございます!」」」
四人も続けて頭を下げる。
「別に気にすんな」
肩をすくめる。
「手間なんて大して変わらねぇしな。礼なら、とっくにもらってる」
支部長経由で色々と融通してもらっている。
それで十分だ。
事情を知らない五人は揃って首を傾げていたが、わざわざ説明する気もない。
そんな他愛ない会話を続けているうちに、馬車はゆっくりと目的地へ到着した。
◇
「それじゃあ、ここからは自由行動です!」
協会職員の合図とともに、受験生たちは思い思いの方向へ散っていく。
課題は単純。
山中に点在する薬草や鉱石を採取したり、弱いクリーチャーを倒し、日没までに戻ってくること。
危険な魔物は事前に騎士団が討伐しており、残っているのは精々E級やD級程度。新人試験としては妥当な難易度だ。
「じゃあ、俺たちも行こう!」
「お、おう!」
ゴニアを先頭に五人は森へと駆けていく。
……元気だな。
俺は近くの岩へ腰を下ろし、その背中をぼんやり眺めていた。
護衛とは言われたものの、四六時中張り付く必要はない。
危なくなれば助ける。
それだけだ。
「『暇だな』」
そうだな。
「『寝るか?』」
仕事中だぞ、何言ってんだ?
「『つまらん奴』」
お前が言うな。
ため息をつきながら周囲を見渡す。
昔見ていた景色とそう変わらない気がした。
木々は青々と茂り、小鳥が囀り、風が葉を揺らす。
……懐かしい。
昔、この辺りを駆け回っていた記憶がふと蘇る。
まだ何も知らなかった頃。
世界は狭く、けれどどこまでも広かった。
「……」
胸の奥が少しだけ痛む。
その時だった。
ザリッ――。
「……ん?」
小石を踏む音。
獣にしては軽い。
人にしては妙に規則正しい。
視線だけを向ける。
木々の隙間。
そこに、一瞬だけ何かが立っていた。
黒い外套。
顔は見えない。
だがこちらを見ていたことだけは分かった。
目が合った。
そう思った瞬間には、もう姿は消えていた。
「……気のせいか?」
「『いや』」
珍しくモルトの声色が低くなる。
「『いたな』」
だよな。
風が吹く。
木々が揺れる。
それだけだ。
気配は完全に消えていた。
普通なら追わない。
受験生の護衛が仕事なのだから。
だが――。
「『嫌な予感がする』」
奇遇だ。
俺もだ。
視線をゴニアたちの向かった方角へ向ける。
笑い声が聞こえる。
今のところ異常はない。
「……まあいい」
立ち上がり、軽く肩を回す。
「少しだけ様子を見るか」
そう呟いた瞬間。
山の奥深くから、小さく、それでいて確かに――
何かが吠えた。
その咆哮には、獣の荒々しさではなく、
どこか怒りと悲しみが入り混じっているように聞こえた。
◇
結論から言えば、何事もなく終わった。
事故もなければ、魔物の襲撃もない。
拍子抜けするほど平和な実地試験だった。
五人とも及第点。
中でもゴニアは一歩抜けている。
判断力も、立ち回りも悪くない。
もっとも、残りの四人との差は決定的というほどではない。
互いに切磋琢磨すれば、全員が伸びるだろう。
――将来有望。
それが、率直な感想だった。




