第二十一夜 学校
「人は、なぜ生きていくのだろうか」
柔らかな風が草原を撫で、黄金色に染まり始めた草花がゆっくりと波打つ。遠くでは小鳥のさえずりが響き、雲は何事もないように青空を流れていた。
そんな穏やかな景色を眺めながら、エヴァーはぽつりと呟いた。
その問いは誰かに答えを求めるというより、自分自身へ投げかける独り言にも似ていた。
隣を歩く付き人は一瞬だけ足を止め、主人の横顔を見る。少し考えるように視線を落とした後、静かに口を開いた。
「私としては……知らないし、興味もない、というのが正直な答えです」
少し申し訳なさそうに苦笑しながら続ける。
「ですが、こういう答えのない問いに向き合って考えてみること自体は、大切なのかもしれませんね」
「ほうほう」
エヴァーは楽しそうに目を細める。
「それで、君の答えは?」
突然話を振られた付き人は面食らったように目を瞬かせた。
「……私は……」
言葉を探すように空を見上げる。
流れる雲を眺め、風に揺れる草木の音へ耳を傾ける。その沈黙さえも心地よい時間だった。
やがて彼女は小さく息を吸う。
「……すみません。うまく言葉にはできないのですが……強いて言うなら、そこに命があるからだと思います」
「ふむふむ」
エヴァーは急かすことなく先を促す。
「人は生きていく過程で、これだけは絶対に失いたくないものを見つけます。もちろん、何もせず怠惰に生きることも一つの生き方でしょう。でも、本質はそこにはない気がするんです」
彼女は自分の胸元へそっと手を当てる。
「その目標のために日々努力し、ときには道草を食い、迷い、傷付き、あるいは目標そのものを変えることもある。それでも歩みを止めずに生きていく」
風が二人の間を通り抜け、長い髪を静かに揺らした。
「この辛い世界を生きることを諦めたくなる日も、きっと何度もあるでしょう」
その言葉には、実体験ではないはずなのに、不思議な重みが宿っていた。
「それでも人は、理想という美しさに恋焦がれ、その光へ手を伸ばし続ける。だから少しずつ輝いていくのだと、私は思います」
彼女は照れくさそうに笑い、小さく頭を下げた。
「……すみません。答えらしい答えには、なっていませんね」
「いや」
エヴァーは穏やかに首を横へ振る。
「それでいいんだ。私は、そういう話が聞きたかった」
エヴァーは夕焼けに染まり始めた空を見上げる。
「誰しもが美しいものへ手を伸ばし、それを手に入れようとする。何度折れそうになっても、歯を食いしばって立ち上がる」
静かな声だった。
しかし、その一言一言には不思議と人を惹きつける力があった。
「彼らは常に生き、常に進化している。だから過去の自分より、今の自分が劣っていることなんてありはしない」
風が草を揺らし、二人の影を長く伸ばす。
「経験でもいい。思い出でもいい。どんなに小さなものでも積み重ねてきた時間は決して消えない。その時の分だけ、人はより美しく、より眩しく照り輝いていくのだから」
付き人は思わず感心したように目を丸くした。
「……本当に、それはエヴァー様がお考えになった言葉なのですか?」
「はは、バレてしまったか」
エヴァーは肩をすくめて笑う。
「実はこれは、主様の言葉を少し借りただけなんだけどね」
懐かしい記憶を思い返すように目を細める。
「あの方からこの言葉を聞いたときは、本当に目から鱗が落ちるような心境だった。だからこそ、主様は人を……その輝きを、心から愛していらっしゃるのさ」
付き人は静かに主人の横顔を見つめる。
夕日を受けたその横顔はどこか誇らしげで、それでいて少し寂しそうにも見えた。
「エヴァー様や、他の皆様も……同じなのですか?」
しばしの沈黙。
風だけが穏やかに吹き抜ける。
やがてエヴァーは意味深に微笑み、どこか悪戯っぽく目を細めた。
「ふふ……どうかな」
◇
ゴニアと愉快な仲間たちがひと騒動を巻き起こしてから、気が付けば数か月。
窓の外では、春の柔らかな風が校舎の旗を揺らし、朝日を浴びた中庭には生徒たちの笑い声が響いている。
ゴニア達の卒業の日も、もうすぐそこまで迫っていた。
そもそも、この学校という場所は才能ある者をさらに伸ばすための施設ではない。
まだ何も知らない初心者が、自分の才能を開花させる前に命を落とさないよう、最低限生き残れるだけの実力を叩き込む場所だ。
その点、俺やアガピは最初からある程度戦えたおかげで、授業の多くを免除されている。ありがたい話ではある。
それに前にも言ったが、この学校は無料だ。
……もっとも、その代わり卒業後は協会で馬車馬のように働くことになるのだが。
だからこそ、将来の繋がりや実績を求めて、貴族の子弟がわざわざ金を払ってまで通ってくることも珍しくない。
もっとも、平民と貴族という立場の違いもあって、最初の頃は衝突ばかりで上手くいかないことも多いらしい。
さて、そんな話はどうでもいい。
そうだ、ゴニアのことだった。
あいつは学校でも案外うまくやっているらしい。
あの一件を経て、不思議な仲間意識でも芽生えたのだろう。
協会にも少しずつ馴染み始めている。
……まあ、角さえ見なければ普通に可愛い子供だからな。
もちろん、小さないざこざは何度かあったらしい。
だが、そのたびに俺やアガピ、あるいは顔馴染みの連中が間に入り、何とか丸く収めてきたようだ。
何より本人が図太い。
多少の陰口や視線くらいではへこたれない性格なのも大きいのだろう。
心配していたオラクル教団やアウトレイジも、ここ数か月は妙に静かだ。
嵐の前の静けさでなければいいが……。
まあ、大丈夫だろ。
知らんけど。
……そういえば今も盗み聞きしてるんだろ、モルト。
「『はいはい、人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ。今のところ怪しい動きは特にねえな』」
ならいいか。
ひとまず安心だ。
それよりも――。
腹が減った。
今日の朝飯は何だろうな。
焼き魚だったら嬉しいんだが。
朝食の匂いに誘われるまま食堂へ向かうと、焼きたてのパンの香ばしい香りと温かなスープの湯気が迎えてくれた。
まだ朝早いというのに食堂にはちらほら決闘者たちの姿があり、それぞれ眠そうな顔で朝食を取っている。
そんな中、一際見慣れた小さな姿がこちらへ勢いよく手を振った。
「イェネロスさん! 今日も早いですね! おはようございます!」
ゴニアだ。
……いや、"今日も早いですね"と言われても、毎回お前の方が先にいるんだから、あまりそんな気はしないんだけどな。
「ああ、おはよう。お前も相変わらず早いな」
席へ腰掛けながら尋ねる。
「それで、何か俺に用でもあるのか?」
「はい!」
ゴニアは元気よく頷いた。
「今日は実技の単位でクリーチャー討伐に行くんです。でも、僕たちだけで行くことは許可されていないので……よかったら今回も監督として一緒に来てもらえませんか?」
そこまで言うと、ふと思い出したように首を傾げる。
「ところで、アガピさんはまだ寝ているんですか?」
「まあ、この時間なら寝ててもおかしくないな」
苦笑しながら肩をすくめる。
「あいつ朝に弱いし。最近はいろいろ忙しそうだから、多分今回は俺だけになるけど、それでもいいか?」
「もちろんです!」
ぱっと表情を明るくし、満面の笑みを浮かべる。
「イェネロスさんに来ていただけるだけでも、本当に助かります!」
「そうか。それならよかった」
そこで、ふと以前から気になっていたことを思い出す。
「そういや一つ聞きたいんだが、前回あの四人組には誰が監督として付いてきたんだ?」
「あ〜……それは、そのぉ……」
見る見るうちに目が泳ぎ始める。
……なるほど。
事情があって本来の監督が来られず、『ゴニアと一緒だった』ことにしたわけか。
そうすれば、あいつらにも一応監督役が付いていたことになる。
なかなか思い切ったことをする。
だからあの四人とゴニアはあんなに仲がいいのか。
そういう経緯だったわけだ。
角だけじゃなく、腹の中まで真っ黒とはな。
なかなか将来有望じゃないか、ゴニア。
思わず苦笑しながら頭を掻く。
「……まあ、俺が言える立場じゃない気もするけどさ」
少しだけ真面目な声になる。
「気を付けろよ。そういう綱渡りってのは、油断すると案外あっさり足を踏み外すもんだからな」
ゴニアは背筋をぴんと伸ばし、力強く頷いた。
「はい! 心得ています!」
……なら、いっか。
そう思いながら、運ばれてきた朝食へと視線を向けた。




