第十九夜 日常
「むむむ〜」
柔らかな風が草原を撫で、遠くでは小鳥たちのさえずりが心地よく響いている。雲ひとつない青空の下、街道脇に腰を下ろした一人の少女――いや、世界中に名を知られる有名な吟遊詩人、エヴァーは、腕を組みながら難しい顔をしていた。
白い指先で顎をつつき、眉間には小さな皺を寄せる。その姿は、本来ならばどこか近寄りがたいほど凛々しく、クールな装いが似合う絶世の美女――本人談――なのだが、こうして頭を悩ませている様子には思わず頬が緩んでしまうような愛嬌があった。そのギャップこそが、彼女の不思議な魅力でもある。
そんな主の姿を少し離れたところから眺めていた付き人は、小さく肩をすくめる。
(ああ、これは詩が思いつかなくて誰かに構ってほしい時ですね)
長い付き合いだからこそ分かる。付き人は苦笑を浮かべながら、エヴァーへと歩み寄った。
「どうしたのですか? エヴァー様。そんなに可愛い顔で悩んでいたら、私が襲っちゃいますよ?」
「きゃー襲われるー。……じゃなくて聞いてよ、全く詩が思いつかないの」
両手を頬に添えて大げさに悲鳴を上げると、棒読みそのものの声で言い放つ。
案の定だった。
付き人は内心で「やっぱり」と頷く。
しかしここで「やっぱりですか」などと正直に返すのは愚策である。そんなことを言えば、エヴァーは子どものように拗ねてしまうのだから。
「えー、本当ですかー。あのエヴァー様が? 信じられないなー」
わざとらしく驚いてみせると、エヴァーは満足そうに一度頷いた。
「ええ。……ていうか、そりゃそうなんだけど。新しい登場人物が出ないから、なかなか思いつかないの」
そう言って空を見上げる。
彼女が紡ぐ詩は、世界を旅して見聞きした出来事や英雄たちの物語を歌い上げたものばかりだ。だが最近は大きな事件も少なく、新たな出会いにも恵まれない。そのせいで新しい一節がどうしても生まれなかった。
「思っていたより切実ですね。最近は昔語りばっかりですしね。私は興味があるからいいんですけど」
付き人が苦笑交じりに答えると、エヴァーは人差し指を立てて小さく左右に振る。
「ダメよ。とっておきだし……実を言うと、私もあんまり覚えてないんだから」
どこか誇らしげに胸を張る姿に、付き人は思わず額へ手を当てた。
「ダメじゃないですか」
「あら、ダメな私は嫌い?」
少しだけ首を傾げ、いたずらっぽく微笑む。
その表情は、多くの人間を魅了してきた吟遊詩人らしい愛嬌に満ちていた。
「馬鹿なこと言ってないで仕事してください。詩を詠まないエヴァー様なんて、ただの危険人物なんですからね」
「当たり前でしょ。これは主様からいただいた、私だけの大切な役目なのだから」
その瞬間だけ、エヴァーの表情からふざけた色が消えた。
風に揺れる髪を押さえながら、真っ直ぐ前を見つめるその瞳には、普段の軽薄さとは違う強い意志が宿っている。
詩を紡ぐこと。
それは彼女にとって仕事である以前に、誰よりも敬愛する主様から託された使命だった。
だからこそ、どんな時でも歌うことだけは決して諦めない。
「なら、ちゃんと働いてください」
付き人が呆れたようにため息をつく。
「ぶー、最近きびしー」
頬を膨らませながら歩き出すエヴァー。その隣を付き人も苦笑しながら追いかける。
二人の足音は穏やかな街道へ溶け込み、風はまた新しい物語を探すように草原を駆け抜けていく。
今日もまた、彼女たちは詩となる出会いを求め、この広い世界を歩き続けるのだった。
◇
ゴニアがやって来てから、もうすぐ一週間が経とうとしていた。
朝は訓練場へ向かい、昼は依頼をこなし、夜は宿へ戻る。そんな変わり映えのしない日々が、ゆっくりと、それでも確かに流れていく。
特に大きな事件もない。
……多分。
学校では、まだあまり馴染めていないらしい。教室の隅で一人になることも多いようだが、だからといって友達が一人もいないわけではないと聞いている。
原因は、おそらく頭に生えたあの禍々しい角だろう。
黒く歪み、まるで生き物のような存在感を放つ角は、初めて見る者なら誰だって一歩引く。無理もない。
けれど、人は見慣れる生き物だ。
時間が経てば、きっと周囲も慣れていくはずだ。
……慣れてくれ。
本当に。
これ以上面倒事は勘弁してほしい。
ある日突然、「暗黒のマナに侵されし魔角がゴニアの自我を乗っ取り暴走を始めました」なんて展開になったら洒落にならない。
冗談として笑い飛ばせないからこそ、なおさら質が悪い。
「『なんだ、暗黒のマナって。聞いたことないぞ』」
頭の中から聞こえてきたモルトの声に、少し考え込む。
有名なお伽話にそんな魔王がいたような気がする。
……いや、魔王じゃなかったか。
覇王だったかな。
「『ふーん。ただ、なんのトラブルもなしってのは虫が良すぎる気がするけどな』」
それなんだよ。
今は「あいつは危険そうだから近寄らないでおこう」と距離を置いていた連中も、無害だと判断すれば話は変わる。
興味本位で近づく者もいるだろうし、逆に面白半分で嫌がらせをする連中だって現れるかもしれない。
人間っていうのは、そういう生き物だ。
まあ、人間とほとんど変わらない見た目なのは救いだった。
角さえ隠してしまえば、ぱっと見では普通の少女(男だけど)にしか見えない。
もちろん、近づけば漂う邪悪な気配で「あ、普通じゃない」と気付かれるんだけど。
それでも何も隠せないよりはずっとましだ。
それに協会へ所属していることも大きい。
クリーチャーを憑依させた人間は、不完全とはいえ異形へと変貌する。
それは広く知られている知識だ。
だから多少異様な雰囲気を纏っていても、「そういうものか」と納得する者も少なくない。
……とはいえ、それを知らない人間からすれば、ゴニアの姿は十分すぎるほど恐ろしく映るらしい。
正直、その感覚はいまいち分からないが。
「『いや、あれはまずいぜ。どれくらいかって言ったら……すっごく。いや、姿形の問題じゃねえ気がするぞ。俺の故郷にも似たようなやつがいる』」
へえ。
どんなやつなんだ?
「『うちの大王様にしょっちゅう歯向かってるやつだ。見た目だけなら人間にそっくりなんだがよ、あの大王様と戦って、流石に本気じゃねえとは思うけど、それでもピンピンしてやがるんだぞ?』」
それは……とんでもないな。
大王様がどれくらい強いのかは分からないが、モルトの口ぶりからして化け物なのは間違いない。
そんな相手と戦って無事でいられる奴がいるなんて、想像もつかなかった。
そんなことを考えながらも、俺は依頼をこなし、剣を振り、少しずつ力を磨いていた。
以前よりマナの流れを掴めるようになってきた気がする。
モルトとの連携も悪くない。
……あれで口数さえ少なければ完璧なんだけどな。
それでも。
胸の奥には拭えない違和感が残っていた。
何かが足りない。
俺はいつも、どこかで力を出し切れていないような感覚がある。
「『ああん? 文句あんのかコラ』」
悪かったって。
「『分かればよろしい。それでお前の話だけどよ、感情っつーか……欲望とか意思とか、そういうもんを乗せて戦うといいかもしれねえな。さっき話したやつもそんな感じだったぜ』」
……それ、ちょっと怖くないか?
そんな話をしていると、通りの向こうから見覚えのある少女が歩いてくる。
「よ」
「こんにちは、イェネロスさん」
角をフードで隠したゴニアが、小さく頭を下げる。
まだ少しぎこちない笑顔だった。
「んー、イェネロスでいいよって言っても、多分聞かないんだろうけどさ」
「よくしてもらっている方に敬意を払うのは当然です!」
胸を張って言い切るゴニアに、思わず苦笑が漏れる。
「いや、別にいいよ。言われてやってるだけだし。敬意を払うなら口調じゃなくて、何かあった時にスケープゴートにでもなってくれたら十分」
「サラッとひどいこと言ってません!?」
「コラ!」
ごつん。
柔らかな衝撃が後頭部に走る。
この手の感触は一人しかいない。
「……アガピか」
振り返ると、案の定、頬を膨らませたアガピが立っていた。
「悪い悪い。からかっただけだろ? ていうか見てたのか」
「うん。なんか不安だから着いてきてって言われたの。どうしてほしいんだっけ?」
不安?
その言葉に少しだけ眉をひそめる。
どういう意味だ。
詳しく聞かせてもらおうか。
ゴニアは少し申し訳なさそうに視線を泳がせると、意を決したように口を開いた。
「明日、一緒に薬草の採取に来てほしいのです! チームを組む時に外されてしまって……」
その言葉を聞いた瞬間、予想以上に状況が深刻だと理解した。
露骨ないじめというほどではない。
けれど、放っておけば確実に悪化する類の問題だ。
あのおっさん――支部長が何か言ってくる前に、こっちから動いた方がいいかもしれない。
いざという時の言い訳くらいはいくらでも用意できる。
「明日か」
少しだけ空を見上げる。
予定はない。
「用事もないし、行ってみるか」
ゴニアの表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
その笑顔を見ていると、引き受けて正解だったのかもしれない。
「『三人の珍道中は続く!』」
続かないし、まだ始まってもねえよ。
呆れながらツッコミを入れると、モルトは楽しそうに豪快な笑い声を響かせるのだった。




