第十六夜 終幕へ
そろそろ一章が終わりそう
それは、とても酷なことなのだろう。
彼が産み落とした蕾たちは不完全だ。
当然だ。
彼らは最初からそうあるべき存在として生まれたのだから。
欠けているからこそ求め合う。
弱いからこそ支え合う。
独りでは生きられないからこそ、互いを認め合う。
それが生命というものだ。
それが、主様が愛した世界だった。
だから本来ならば、それで良かった。
不完全で良かったのだ。
それでも時折、どうしようもなく考えてしまう。
もしボクが完全だったなら。もしボクがもっと賢ければ、もっと強ければ、もっと優しければ。あの日、あの時、違う未来があったのではないか、と。
夜空に浮かぶ星々を見上げる。
無数の光は何も答えてはくれない。
ただ静かに瞬くだけだ。
だから願う、祈る。
もう届かないと知りながら。
主様、どうかボクを叱ってください。
間違ったのなら叱ってください。
足りないのなら教えてください。
そしてボク達を導いてください。
主様――ボク達は、寂しいのです。
◇
耳を裂くような轟音と共に建物が崩れ始めた。
柱は折れ、天井は砕け、先程まで賑わっていた奴隷市は一瞬にして地獄へと変わる。人々は悲鳴を上げながら出口へ殺到し、押し倒された者の上をさらに別の誰かが踏み越えていく。
舞い上がる砂煙が視界を曇らせる中、その中心には二人の怪物が立っていた。
「一体全体これはどういうことなんだ、ライオネル!」
シャングリラの声が響く。
怒りを押し殺した声だった。
その瞳には確かな殺意が宿っている。
対する男は笑っていた。
まるで旧友と再会したかのように。
「何、簡単な話だよ」
崩れゆく瓦礫の上に立ちながら男は両手を広げる。
歓迎するように。
祝福するように。
「全ては星の望むがままに」
狂信者のような声音。
だがそこには迷いが一切なかった。
心の底から信じている。
だからこそ不気味だった。
シャングリラは眉をひそめる。
「しかし、その呼び方はやめてくれないかな」
男は苦笑した。
少しだけ。
本当に少しだけ寂しそうに。
「もう俺は姉様方の仲良しこよしではないんだ。その御名で俺を呼んでいいのは我が主様だけだ」
空気が震える。
「シャングリラ」
その名を呼ぶ声には憧憬も敬愛も憎悪も混ざっていた。
かつて家族だった者だけが抱ける複雑な感情。
それがその一言に凝縮されていた。
シャングリラは静かに息を吐く。
「……すまないね」
そして肩を竦めた。
「生意気な弟がいたものだから、つい勘違いしてしまったよ」
次の瞬間、その表情から温度が消えた。
「それじゃあ名前を教えてくれるかな? ゲス野郎」
エアフトスは吹き出した。
「酷いなぁ」
まるで本気で傷ついたような顔をする。
しかし笑みは消えない。
「では改めて自己紹介を」
ゆっくりと胸に手を当てる。
「俺の名はエアフトス。アウトレイジ創設者、そしてリーダー――『俺』の頂、エアフトスだ」
「あっそ」
シャングリラが踏み込んだ。
「くたばれ」
その瞬間、彼女の姿が掻き消える。
いや、消えたように見えただけだ。
次の瞬間にはエアフトスの眼前に拳が迫っていた。
衝撃だけで周囲の瓦礫が吹き飛ぶ。
砕けた石材が弾丸のように飛び散り、周囲の壁へ深々と突き刺さった。
だがエアフトスは笑う。
首を僅かに傾ける。
それだけで必殺の拳は頬を掠めて通り過ぎた。
空振った拳が背後の壁へめり込み、建物全体が軋むような悲鳴を上げる。
「やっぱり姉様は優しいな」
直後、地下全体が崩落した。
床が砕け、支えを失った人々が悲鳴を上げながら暗闇へ落ちていく。天井からは無数の瓦礫が降り注ぎ、逃げ惑う者たちを容赦なく飲み込んでいた。
その惨状にシャングリラの視線が僅かに向く。
ほんの刹那。
しかし彼らの領域では、その一瞬こそが致命的だった。
「s・トリガー発動」
エアフトスが指を鳴らす。
《♪君は煌銀河の正義を見たか?》
《【今すぐ】うわっ…相手の攻撃止めすぎ…?【クリック】》
《ドレミ団の光魂Go!》
《調和と暴動の混乱》
無数の能力が空間を埋め尽くした。
光が溢れる。
音が響く。
法則そのものが歪められる。
ありとあらゆる妨害がシャングリラへ襲い掛かる。
「チッ」
シャングリラが舌打ちする。
能力そのものは脅威ではない。
だが人々を巻き込まないよう戦う彼女にとって、その僅かな足止めは十分すぎるほど厄介だった。
エアフトスはそれを理解している。
理解した上で利用している。
「この程度ですか、姉様?」
狂気を孕んだ笑み。
「俺をあまり失望させないでください」
「それはこちらの台詞だよ」
シャングリラの瞳が鋭く細まる。
「まさかこの程度でボクに勝てると思っているのかい?」
次の瞬間、二人は再び激突した。
拳と拳がぶつかり合い、爆発にも似た衝撃波が吹き荒れる。発生した風圧だけで周囲の瓦礫が巻き上がり、建物の窓ガラスが次々と砕け散った。
シャングリラが蹴りを放つ。
エアフトスが受け流す。
エアフトスが能力を起動する。
シャングリラが強引に突破する。
互いに互いの手札を知り尽くしている。
だからこそ単純な力押しでは決着がつかない。
一手先。
二手先。
十手先。
相手の思考を読み、行動を読み、その先を潰し続ける。
まるで盤上で駒をぶつけ合うような超高速の読み合いだった。
「消し飛べ――《王道弾》」
黄金の光が放たれる。
眩い奔流は一直線にエアフトスへ迫り、その進路上にあった瓦礫を跡形もなく消し飛ばしていく。
しかし。
「残念」
エアフトスは嗤う。
「《♪立ち上がる 悪魔に天使 堕ちるかな》」
世界が僅かに軋む。
黄金の光がねじ曲がる。
必中だったはずの一撃は軌道を変え、エアフトスの脇を掠めて彼方へ逸れていった。
だがエアフトスは知っていた。
これでは足りない。
こんな戦いではシャングリラは本気にならない。
「駄目だよ、姉様」
笑みが消える。
「いや――シャングリラ」
その声は真剣だった。
「戦いは殺す気でしなきゃ」
瞳が燃える。
狂気の炎で。
「願いを掴むなら、それ以外を切り捨てるべきだ。仲間も、理想も、未来も、全部だ」
叫ぶ。
「さあ――『俺』を貫き通せ! シャングリラァァッ!!」
しかし。
シャングリラは笑った。
静かに、優しく。
どこか悲しげに。
「悪いけど、その挑発には乗らないよ」
瓦礫の中で立ち上がる。
その背後では今も人々が逃げ惑っている。
泣いている子供がいる。
助けを求める者がいる。
それら全てを見つめながら、彼女は言った。
「ボクはね、どうしようもなく欲張りなんだ」
その瞳に無数の星が宿る。
「だから全部欲しい」
「誰も捨てない」
「何も諦めない」
「全部守る」
そして胸を張る。
「それがボクだ」
エアフトスは沈黙した。
そして。
心底失望したように笑う。
「駄目だ。ダメダメだよ。そんな甘ったれた理想で俺に勝てると思うな」
その瞬間、遠方から無数の戦闘音が響いた。
爆発音。
咆哮。
悲鳴。
街の各地で戦いが始まっている。
エアフトスは満足そうに目を細めた。
「……引き際か」
「逃がすと思うかい?」
シャングリラが殺気を放つ。
だがエアフトスは笑うだけだった。
「逃げられないとでも?」
そして背を向ける。
「そうだ」
振り返らずに言う。
「他のみんなにも伝えておいてくれ」
その声は静かだった。
静かだからこそ恐ろしかった。
「これからは容赦しない」
「もう遊びは終わりだ」
ゆっくりと振り返る。
その瞳には狂信者の光が宿っていた。
「全てを制するのは――俺たちだ」
シャングリラは一歩も引かなかった。
「言わずもがな」
その言葉と共に、二つの信念は完全に決裂した。
◇
建物が悲鳴を上げるように軋んだ。
天井は次々と崩れ落ち、折れた柱が石畳を砕く。先程まで人々の熱気で満ちていた奴隷市は、今や地獄絵図と呼ぶに相応しい有様だった。
あちこちから悲鳴が聞こえる。
助けを求める声が聞こえる。
泣き叫ぶ子供の声も聞こえる。
その全てが混ざり合い、耳を塞ぎたくなるような混沌を作り出していた。
「『おいおいおいおい! やばいぞ! 本気でやばいぞ!!』」
モルトの声が頭の中で響く。
普段はどこか余裕を崩さないこいつがここまで焦るのは珍しい。
それだけ今の状況が異常なのだろう。
「『巻き込まれたら死ぬ! マジで死ぬ! 今すぐ逃げるぞ!』」
そんなことは俺だって分かっている。
理性はずっと警鐘を鳴らしていた。
今すぐここを離れろ。
余計なことは考えるな。
生き残りたければ逃げろ、と。
実際その通りだ。
それでも足は動かなかった。
視界の端には瓦礫の下敷きになった人がいる。
泣きながら親を呼ぶ子供がいる。
助けを求めて手を伸ばす人がいる。
全部を救えないことは分かっている。
最初から分かっている。
それでも、だからといって見捨てられるほど器用にはなれなかった。
「『そんな場合じゃねえって言ってんだろ!!』」
モルトが半ば悲鳴のような声を上げる。
「『やばいやばいやばい! 本当に死ぬぞ!? 俺まで死ぬんだぞ!?』」
思わず苦笑が漏れた。
ごめんな、モルト。
俺がもっと強ければ。
俺がもっと賢ければ。
こんな状況でも全員助けられたのかもしれない。
だけど今の俺にはそんな力はない。
だからこそ、せめて目の前にいる人だけは見捨てたくなかった。
そんな時だった。
瓦礫の隙間に、不自然なほど原型を保った檻が見えた。
頑丈な鉄格子。
崩れた柱に守られるように残ったそれは、奇跡的に直撃を免れていたらしい。
その中にいたのは数人の子供達だった。
震えている。
泣いている。
怯えている。
けれど生きている。
それを見た瞬間には、もう身体が動いていた。
「おい!」
崩れた石材を飛び越えながら駆け寄る。
「大丈夫か!?」
檻の前に膝をつく。
子供達は怯えたように身を寄せ合っていた。
「早く逃げるぞ!」
その声に反応した一人の少女が顔を上げる。
年齢は五歳か六歳ほど。
大きな瞳で俺を見つめると、不思議そうに首を傾げた。
「おじちゃんだーれ?」
「……」
俺は固まった。
「……おじちゃん?」
追撃だった、しかも急所への。
「『ぶはははははは!!』」
モルトが腹を抱えて笑い始める。
「『おじちゃんだってよ! おじちゃん!』」
(うるさいな)
「『老け顔!』」
(うるさい!)
こんな状況で何を言っているんだ俺達は。
だが少しだけ緊張がほぐれたのも事実だった。
「……まあいい」
気を取り直して檻の中を見る。
そこで違和感に気付いた。
耳や目、肌。
一見すると人間に見える。
だが細かい部分が違う。
何かが混ざっている。
そんな不自然さがあった。
脳裏に先程聞いた噂がよぎる。
人間の姿をしたクリーチャー。
混血。
(まさか……)
嫌な予感がした。
だが今は考えている場合ではない。
俺は鉄格子を掴む。
「大丈夫だ」
できるだけ優しい声で言った。
「危ないから一緒に逃げような?」
子供達は顔を見合わせた。
しかし何故か、その表情は安心ではなく戸惑いに近かった。
いや、違う。
怯えている。
まるで俺の後ろに何か恐ろしいものでもいるかのように。
その視線に違和感を覚えた瞬間だった。
「『右だ!!』」
モルトの怒鳴り声が響く。
反射的に身体を捻る。
次の瞬間。
耳元を何かが通り過ぎた。
ギィンッ!!
凄まじい金属音。
さっきまで首があった場所を、鋭い刃が通過していた。
冷や汗が流れる。
あと数センチ反応が遅れていたら終わっていた。
「ありゃ」
聞き覚えのある声だった。
妙に軽い。
緊張感の欠片もない。
まるで世間話でもしているような口調。
「今のを避けられるとは」
ゆっくり振り返る。
舞い上がる砂煙。
崩れた瓦礫。
その上に、一人の男が立っていた。
見覚えがある。
忘れるはずがない。
つい先日助けたばかりの奴隷商だった。
男はいつもの営業用の笑みを浮かべている。
だが今は分かる。
その笑みの奥にあるものが。
そこにあったのは感謝でも親しみでもない。
人を人とも思わない冷たい悪意だった。
「へえ」
男は楽しそうに目を細める。
「イェネロスさんですか」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
男は笑う。
心の底から愉快そうに。
「あなた、意外と強かったんですねぇ」




