8.泡沫の希望
ジョセフの返事がないのでどうしたのだろう、と顔を上げると、気づかぬうちに栗色のローブを着た王室魔法使いが三人に増えていて驚いて後ずさった。
「魔力、魔法技術、忠誠心、遵法意識…全て問題ありません。」
「物理攻撃への対処も落ち着いていました。」
新たに加わった二人の魔法使いがジョセフと呼ばれた魔法使いに敬礼しながら話した。
「そうか。…殿下、我々としては問題ありません。その者に覚悟があるのならば喜んで迎え入れましょう。」
「よかった。瑠璃なら大丈夫だと思っていたよ。」
何の話をしているのかさっぱりわからない。
瑠璃が首を傾げていると、ノエル王子が瑠璃の方に歩み寄ってきた。
「殿下、なりません。こちらは危険です。」
尖塔の扉は開かれていないけど、刺客に自ら近づくなど恐ろしい。
瑠璃が立ちはだかると、ノエル王子はクスっと笑った。
「もう大丈夫だよ。今のは試験だったんだ。」
「え?」
「瑠璃、王室魔法使いにならないか?」
突然の誘いに驚きを通り越して戦いた。
「な、何を……」
「瑠璃に、身分を与えたいんだ。王室魔法使いになれば、君は堂々と城に入れる。」
ノエル王子の提案は瑠璃の理解の範疇を超えていて、瑠璃は混乱の境地に陥っていた。
口をパクパクとさせたが、何の言葉も出てこない。
「驚かせてすまないね。でもどうしても瑠璃を城に連れて帰りたいんだ。」
まさかノエル王子は本当にあの願いを叶えようとしているのだろうか。
不敬なこともすっかり忘れて、瑠璃はノエル王子の翡翠色の瞳を見つめた。
あの頃の面影のある瞳は、あの日にはなかった確かな強さを湛えていた。
「私の願いを叶えてくれるんでしょう?」
目を細めてはにかむ顔があの少年と重なった。
思わず本当に王子様と結婚できるのではないかという馬鹿げた未来を信じてしまいそうになったけど、そんなわけはないと気づいて目を伏せた。
少年は立派な青年になっていて、本物の王子様だと知った。
王子様に相応しいのは生まれながらのお貴族様だ。それこそエミリアのような公爵令嬢がお似合いだろう。
王室魔法使いは貴族に準じる身分だと聞いたことがあるけど、例え瑠璃が王室魔法使いになったとしても王子様と結婚できるような生まれではないことに代わりはない。
(何よりも、ご婚約者様がいらっしゃるんでしょう。からかうのはもうやめにしてもらわないと。)
そもそもノエル王子には既に婚約者がいるらしい。
瑠璃をからかうためにどうしてここまで大掛かりなことをされているのかわからないけど、瑠璃にだって人の心はある。
瑠璃はその場に膝をつき、深く頭を下げて絨毯に顔をつけた。
「殿下、恐れながら申し上げます。どうか私のことはお忘れになって下さい。」
これ以上、無駄な期待を抱かされたら後戻りできなくなる。
婚約者がいなかったとしても、瑠璃は皆の言う通り非人の生まれだ。
この国の身分制度の頂点に立つ王族と、身分制度の枠にすら入っていない自分が結婚できるなんて、不相応な考えは今すぐ捨てるべきだ。
「なぜだ。願いを叶えると言ったのは瑠璃だろう。」
冷たい声が胸に響いて、申し訳なさで泣きそうになった。
あの日の瑠璃は何も知らなかったのだ。
あの少年の願いを――心の奥底では瑠璃も願っていた夢を、叶えたいのは山々だけど、瑠璃には叶えることが出来ない。
それに、こんな話が恐らく高貴な身分であろう婚約者の方の耳に入ったら瑠璃は抹殺されてもおかしくない。
どんなにあの日のことを忘れられなくても、命には変えられなかった。
瑠璃はこれ以上ないというほど絨毯に這いつくばって額をふかふかの絨毯に埋めた。
「申し訳ございません。私は本来は殿下とは決して交わることのない生まれなのです。どうかお忘れ下さい。」
「瑠璃、顔を上げて。八年間、君だけを想っていた。君のことが好…」
「ご無礼をお許し下さい。失礼します。」
聞いてしまったら二度と忘れられなくなるであろう言葉を言われかけたのがわかって、瑠璃は耐えられなくなった。
這いつくばったままぎゅっと目を瞑って、その言葉を最後まで聞かぬまま教室へと逃げ帰った。
◇◇◇
教室のすぐ外の廊下に身を移すと既に授業が始まっているようで、野次馬はいなくなっていて、教室の中も静まっていた。
なるべく音を立てずに扉を開けてそっと教室に体を滑り込ませたけどすぐに気づかれて、あっという間に教室をざわめきが満たした。
女子生徒は瑠璃を睨みつけて周りとこそこそと話し出したし、男子生徒はわいわいとどよめいている。
「ルリ、戻ったのか。殿下から事情は聞いているから安心して。」
教壇に立っていたシュヴァルツ先生が瑠璃に優しく微笑んでくれて救われた。
「恐れ入ります、シュヴァルツ先生。授業を遮ってしまい申し訳ございませんでした。」
土下座はしないまでも深く頭を下げて、瑠璃は自分の席へと戻った。
椅子を引いて座ろうとして、座面に数個の画鋲が上向きに置いてあるのに気づいた。
ついに始まったかと思いながら魔法でまとめて回収して、何事もなかったかのように席に着いた。
「非人のくせに、何様?」
授業を終えてシュヴァルツ先生が退出していくと、クラスメイトの名前のわからない女子生徒が瑠璃の元にやってきて言い放った。
「殿下と結婚の約束なんて、どんな魔法を使って洗脳したの?」
別の女子生徒もやってきて嘲笑うかのように言った。
「だめよ、アンネ。口を利いたら私達まで洗脳されてしまうわ。ケイルみたいに。」
エミリアが瑠璃の方は見ずに笑った。
瑠璃が言われる分にはいいが、ケイルまで巻き込んでしまって申し訳なくなって顔を伏せた。
「やめろ、エミリア。」
ケイルが瑠璃とエミリアの間に立つのがわかった。
「ルリ、大丈夫か?」
あんなことがあったのに優しくしてくれるケイルの気持ちが嬉しかった。
初めての友人にお礼を言いたかったけど、瑠璃と話せば話すほどケイルが悪く言われてしまう。
瑠璃はただ顔を伏せて黙り込むことしかできなかった。
「口がついているのならなんとか言ったら?」
ガン、と椅子の背もたれを蹴られて、反射的に体がビクッと震えた。
最初に話しかけた女子生徒だろうが、顔を伏せている瑠璃には姿が見えない。
教室は静まり返っているから皆この光景を見ているのだろう。
やっぱり王子様と絡んでもろくなことはない。
せっかく出来た友達に迷惑をかけて、こうしていじめられて晒し者にされて、惨めなことこの上なかった。
「旅芸人の分際で殿下の寵を狙うなんてどこまで浅ましいの?」
「その金髪が珍しいから殿下の目に止まったのかしら。どちらの血なの?あ、孤児だからわからないんだったわね。」
また女子生徒達が瑠璃を罵倒する声が聞こえてきたけど、瑠璃は心を閉ざしてやり過ごした。
「やめろ!君達に品性はないのか。」
最初はケイルが庇ってくれていたけど、罵詈雑言に耐えかねたのか、何も言わない瑠璃に愛想を尽かしたのか、やがて自分の席に戻っていった。
でも、それでいいと思った。
こんな辛い思いをするのは自分だけで十分だ。
「シャーロット様がお可哀想だわ。殿下とご婚約されて長いのに、こんな非人ごときが殿下を惑わせて。」
エミリアの声が耳に入って、せっかく閉ざしていた心が震えるのがわかった。
瑠璃の背後に立っていた女子生徒が続けた。
「シャーロット様はお美しくていらっしゃるし、正真正銘ワーグナー家の血を引く殿下に相応しいお方よ。こんな偽の瑠璃色と違ってね。」
またワーグナーだ。
会ったことも会うこともないであろう見知らぬ高貴な家を恨みたくなった。
そして女子生徒の言葉で、ワーグナー家の血を引いていらっしゃるご婚約者様は、恐らく瑠璃のような色の瞳をしているのだろうことに気づいてしまった。
ノエル王子の横に瑠璃色の瞳をした女性が並ぶのを想像すると胸が張り裂けそうに痛くなって、瑠璃は瞳を閉じて必死に涙を耐えた。




