7.守りたい人
「瑠璃。」
教室の扉が勢いよく開かれて、自分の名前を呼ばれた。
昨日以来の声が胸に響いて、瑠璃の決意が早速揺らいだ。
今からでも消えようか、と考えているうちに、ノエル王子はあっという間に瑠璃を見つけて席へと向かってきた。
昨日従者の青年から失せろと言われた以上、図々しく姿を見せるわけにはいかない。
ノエル王子が到着するよりも素早く、瑠璃は教室の床に這いつくばって顔をつけた。
「顔を上げて。」
そんなことを言われても、卑しい瑠璃の姿をその目に映すわけにはいかない。
ノエル王子が酷いことを言うことはなさそうだけど、周りから昨日のようなことを言われるのではないかと身構えて体が勝手に震えてきた。
「昨日は大変申し訳ございませんでした。もう御目を汚さないようにしますので、どうかこの学院の片隅で生きることをお許し下さい。」
また惨めに泣き出す前に伝えて、顔を床に擦り付けた。
「やめてくれ、瑠璃。顔を上げて。」
ノエル王子の手が肩に優しく置かれたのがわかって体がビクッと震えた。
もうどうにでもなれという気持ちで顔を上げると、ノエル王子の翡翠色の瞳は痛ましいものでも見るかのように歪められていた。
「瑠璃、昨日は申し訳ないことをした。」
王子様が謝ることなんてあるんだろうか。
しかも瑠璃のように身分すらない者に謝るなんて、ありえないのではないか。
そもそも、こうして床に膝をつかせているなんて大罪ではなかろうか。
恐ろしくて息を飲む瑠璃の頬に、ノエル王子の手が優しく添えられた。
「瑠璃、君と話したい。一緒に来てくれないか。」
忘れようと決めたばかりなのに、これ以上深く関わったらまたあらぬ期待を抱いてしまう。
瑠璃はまだ忘れられるうちに、ノエル王子の気まぐれだったと思えるうちに王子様のことを忘れてしまいたかった。
ノエル王子の口調は優しかったけど、瑠璃に抗う権利などない。
どうすればよいかわからなくて、助けを求めるように横に立っていたケイルを見上げた。
「…殿下、この者は殿下とお話できる身分ではございません。」
瑠璃を見て申し訳なさそうな顔をしたから、ケイルがそう思っているわけではなく、瑠璃を守ろうとして言ってくれているのだとわかった。
「そなたはフォルスター伯爵の令息だな。何の権利があってそのようなことを申すのだ。」
急に凍りついた声に再び息を飲み、ケイルが貴族だったことに驚いて、視界に入るのが申し訳なくなって顔を伏せた。
「私はルリの…友人です。友人があなた様とお話することが叶わないため、私が代弁しております。」
友人、の言葉に胸が高鳴って再び顔を上げた。
顔を伏せたケイルと目が合うと瑠璃に僅かに微笑みかけてくれた。
泣きそうなほど嬉しくて瑠璃もケイルに微笑み返すと、顎をぐいっと掴まれた。
「ならば私の方が瑠璃と話す権利がある。私は瑠璃と結婚の約束をしているんだ。」
翡翠色の瞳が瑠璃をまっすぐ射貫いた。
教室は大きくどよめき、廊下から見ていたのであろう野次馬から悲鳴が上がった。
瑠璃は驚きすぎて言葉が出てこなくて、ノエル王子の目から逃れることもできず固まった。
「殿下、お戯れが過ぎますわ。その者は非人ですのよ。」
エミリアが横から取り繕ったような笑みを浮かべて言った。
言い方は酷いが、エミリアの言いたいことは瑠璃と同じだ。
身分のない瑠璃とあの日の願いを叶えようとしているなんて信じられなかった。
「瑠璃に対してそのような言葉を使う者は私への不敬と捉える。そなたでも容赦しない、シュミット公爵令嬢。」
エミリアまでも貴族だったと知って瑠璃はまた息を飲み、なぜ瑠璃への悪口が王子様への不敬になるのかわからなくてついに口が出た。
「で、殿下…。私ごときにそのような…」
「瑠璃、行くよ。」
卑しい瑠璃の言葉は届かなかったのだろうか。
ノエル王子は瑠璃の手を取って教室を出た。
廊下の野次馬が慌てた様子で頭を下げて道を開けると、ノエル王子は瑠璃の手を引いたままズンズンと廊下の真ん中を進んでいった。
瑠璃は透視ができないから学院のどこに何があるのかさっぱりわかっていない。
瑠璃を触ってもいいのだろうかと思いつつ、ノエル王子に手を引かれるがままついていった。
後ろからたくさんの護衛がついてきているが、昨日と違って瑠璃に剣を向けられることはなかった。
くねくねと長い回廊を進み、いよいよ自分の居場所がわからなくなったとき、ノエル王子が瑠璃を振り返った。
「瑠璃、昨日は本当に申し訳なかった。」
また謝られて瑠璃は慌てふためいた。
「いいんです。慣れているので平気です。お気になさらないで下さい。」
「…そうか。皆には瑠璃のことをきちんと話していなかったんだ。もうあんな目には合わせないから安心して。」
「いえ…。私なんかのためにすみません…。」
話さないのも当然だろうと思った。
あの夜あの子は――ノエル王子は自ら命を絶とうとしていたのだから。
王子様の命が失われることにならなくてよかった、と瑠璃は改めてあの日の奇跡に感謝した。
「瑠璃、君なら大丈夫だと思うけど、無理はしないで。」
「えっ?」
「じゃあ、行くよ。」
何が何だかわからないまま、ノエル王子は再び瑠璃の手を引いて目の前にある大きな尖塔へと向かった。
「っ、危ない!」
尖塔の扉が開かれると、突然ナイフが飛んできてノエル王子をまっすぐ狙った。
瑠璃はノエル王子の前に出て魔法でナイフを弾いた。
ノエル王子を狙った刺客だろうか。
でもノエル王子を狙うのならなぜこんなよくわからないところで待ち構えていたのだろうか。
わけがわからなかったけど、王子様の命を奪われるわけにはいかない。
瑠璃は魔力を手のひらに集めて警戒した。
「殿下、逃げて下さい。私がお守りしますので、早く外へ…」
瑠璃は魔法で人を攻撃することはできない。
魔法で捕らえることもできないからその場しのぎにしかならない。
この状況をどうにかするためには逃げてもらうしかない。
「瑠璃、私のことは気にしないで。」
ノエル王子はなぜか伏せることも逃げることもなく瑠璃の後ろに立っていた。
気にしないでと言われても気にしないわけがない。
吹いたら飛んでしまうような瑠璃の命はともかく、この国の王子様の命はどんな物より価値がある。
それにあの日救った命を、瑠璃が八年間想い続けてきた命を、目の前で失うなんて考えたくなかった。
不敬だろうけど扉から無理矢理追い出すしかないか、と考えていると、今度は凄まじい魔力を感じて瑠璃はノエル王子に飛びつくように抱きついた。
瞬時に魔力の玉で二人を包み込むと飛んできた魔力は霧散した。
そして次の瞬間、尖塔に銃声が響き渡った。
銃弾の防ぎ方なんてわからなかったから、瑠璃はノエル王子を抱えたまま咄嗟にぎゅっと目を瞑って部屋の外へと身を移した。
すぐ外の廊下に身を移した後、瑠璃はそのまま扉に力任せにあらゆる魔法をかけた。
鍵を閉めて、木製の扉を鉄のように硬くして、その上から絶対に開かないように鎖を張りめぐらせた。
「殿下、護衛の方を……え?」
先程まで後ろにたくさんいたノエル王子の護衛にどうにかしてもらおうと振り返ると、ノエル王子はまるで軍服のような装飾のついた栗色のローブを纏った魔法使いらしき男性と並んで立っていた。
「瑠璃、お疲れ様。」
にっこりと微笑むノエル王子の横で、栗色のローブを着た魔法使いが瑠璃をじっと見つめていた。
年の頃はわからないが、深く被った帽子から覗く銀髪と鋭い眼光から歴戦の騎士のようにも見えた。
「あなたは…」
「ジョセフ、瑠璃を知っているのか?」
「…いえ、何でもございません。」
瑠璃に魔法使いの知り合いはいない。
なぜ瑠璃を知っているような素振りを見せたのかはわからないが、少なくともノエル王子と魔法使いは知り合いのようで安心した。
そして、魔法使いのローブの胸に輝いている紋章を見て魔法使いの正体に気づいた。
「あの、この中に刺客がいます。私も魔女ですが、攻撃できないのでどうか対処をお願いします。」
恐らくこの人は王室魔法使いだ。
王子様の隣に並んで普通に話せて、王家の紋章が描かれたローブを身に纏えるなんて王室魔法使いしか考えられない。
王室魔法使いならばあの刺客をどうにかしてくれるだろうと瑠璃は頭を下げた。




