4.手の届かない人
もし自分の前に立っているのが王子様なら、恐れ多すぎて顔を上げられるわけがない。
瑠璃は目の前に立つ人物の磨き上げられた革靴を見ながら恐怖に震えていた。
先ほど目が合ってしまったから処罰されるのだろうか。
震えながらリベルを見ると、リベルは目で床を示した。
ひれ伏すなら今だと言いたいのだろう。
瑠璃達は地面に這いつくばることには慣れている。
息を吸うよりも早く、瑠璃はひれ伏して頭を床につけた。
「非常な無礼を働き、大変申し訳ございませんでした。」
震える声で謝って、惨めに顔を床に擦りつけた。
慣れているとは言っても瑠璃にだって心はある。
転校初日からこんな大人数の前で土下座することになるなんて、つくづく人生が嫌になる。
王子様があの男の子なわけはないけど、もしこの過ちを許してもらえるのならあの一夜の思い出は忘れようと思った。
王子様じゃないにしてもあの男の子もきっと高貴な身分だろうから、幻のような思い出のせいでこんな惨めな思いをするのはもうごめんだ。
視界を床が埋め尽くしていたから、瑠璃には食堂のざわめきが聞こえるだけだった。
まさか鞭打ちの鞭でも持ってきたのかと一層震えが止まらなくなった瑠璃の体を、温かい何かが包みこんだ。
「顔を上げて、瑠璃。」
耳元で名前を呼ばれて再びビクッと大きく震えた。
なぜこの人が瑠璃の名前を知っているのだろう、という疑問は、ずっと胸の中にあった答えと一致した。
瑠璃がガタガタと震えながらぎこちなく顔を上げると、翡翠色の瞳が目に飛び込んできた。
黒髪に翡翠色の瞳を持った見目麗しい青年の顔には、たしかにあの少年の面影があった。
ずっと会いたかったあの子が目の前にいる。
恐怖と歓喜で感情がぐちゃぐちゃになって勝手に涙が零れ落ちた。
「会いたかった、瑠璃。」
青年の口から紡がれる言葉を聞いて、信じられない気持ちでその瞳を見つめ返した。
翡翠色の瞳が細められて、瑠璃の頬を伝っていた涙が綺麗な指でそっと拭われた。
「私を覚えてる?」
「は、浜辺の町で…星を…」
「っ、瑠璃。」
瑠璃が震える声で答えたら体をぎゅっと抱き寄せられた。
騎士のような男性達が瑠璃を取り囲み、心臓の裏側から剣を突きつけられたのがわかってより一層震えた。
食堂のざわめきは半ば悲鳴のようになっている。
「控えよ。私の大切な者だ。」
「…はっ。」
青年が冷たく言い放つと背中に当てられていた剣は仕舞われたけど、大きなざわめきがぐわんぐわんと食堂に響いた。
わけもわからないままに手を取って立ち上がらせてもらうと、青年はそこそこ背の高い瑠璃よりも更に頭一つ背が高かった。
瑠璃は自分と同じくらいの背丈だった少年がこんなに大きくなったことに感動しながらも、恐らくこの青年が王子様なのであろうことに気づいてどうすればいいのかわからなくなっていた。
罰されることはなさそうだけど目を合わせてはいけないだろう、と顔を伏せると、青年の指が瑠璃の顎をくいっと持ち上げた。
「瑠璃の瞳だ。ずっと君を探していた。」
「私を…?…っ、失礼しました。」
驚きすぎて反射的に聞き返してしまったが、青年が王子様なら瑠璃ごときが口を利いていい相手ではないだろう。
慌てて口を噤んだけど、今度は指で唇をなぞられてビクッと震えた。
「…殿下、人目があります。」
青年の後ろから茶髪の青年が声を掛けた。
青年が殿下と呼ばれたことで、やはりあの子は本物の王子様だったのだと確信してまた体がガタガタと震えてきた。
「瑠璃、どうしたの?」
「も、も、申し訳ございません…。私は貴方様とお話しできるような身分ではございません。どうかお手をお離し下さい…。ひゃっ」
地面にひれ伏したくてたまらない気持ちを押し殺して言ったら今度は抱きしめられた。
食堂を悲鳴が包みこんで瑠璃もパニックになった。
「もう離さない。城に連れて帰るから。」
「っ?!」
何がなんだかわからないが、城というのは王城のことだろうとわかって目眩がしてきた。
茶髪の青年が王子様…ノエル王子に厳しい口調で詰め寄った。
「殿下、なりません。身元も分からぬ者を城になど…」
「身元が分かればよいのか。学院長を呼べ。」
「…承知しました。」
茶髪の青年が食堂を出ていくのを瑠璃は抱きしめられて固まったまま見つめていた。
「瑠璃、食事はまだだね?一緒に食べよう。」
「えっ?は、はい…。」
全く持って食事の気分ではなかったけど、王子様の誘いを断るほど馬鹿ではない。
体を離されたので横を見るといつの間にか周りも顔を上げていて、リベルが口をあんぐりと開けて瑠璃を見つめていた。
「エデン、この者は?」
「…リベルです。私のクラスに今日転入してきた者です。ルリの仲間です。」
ノエル王子がエデンに聞くと、エデンが落ち着いた声で答えた。
エデンは王子様と知り合いだったのだと知って驚いたけど、瑠璃を見つめるエデンの方が驚いた表情を浮かべていた。
「そうか。リベル、瑠璃を借りるよ。」
「は、はい…どうぞ…。」
リベルははっとしたように表情を取り戻して深く頭を下げた。
瑠璃はノエル王子に促されるがまま料理を頼み、食堂中の視線を身体中に浴びながら席に着いた。
周りの生徒たちが王子様と瑠璃の一挙手一投足に注目しているのがわかって気がおかしくなりそうだった。
「食べようか。」
「は、はい。いただきます…。」
瑠璃は王子様の前で食事をするようなマナーなど持ち合わせていない。
震える手でナイフとフォークを持って恐る恐る口に持っていく。
(…っ、おいしい…こんな美味しい料理、初めて食べたわ…)
口の中でとろける肉にうっとりしていると、前からクスクスと笑い声がしてはっと現実に戻ってきた。
「気に入ったんだ。」
「し、失礼しました…。」
翡翠の瞳がくしゃっと細められているのを見て、あの子が笑えるようになったんだと思うとなんだか嬉しかった。
「どうしたの?」
「い、いえ、失礼しました。」
恐れ多くも王子様の顔を見るなど無礼すぎた。
瑠璃はなるべく顔を伏せていたけど、それでも時々交わる視線が嬉しくて胸が高鳴った。
瑠璃がドキドキしながらも食事を終えた頃、再び食堂が静まり返った。
顔を上げると、茶髪の青年が学院長を連れて食堂に入ってきたのが見えたので瑠璃は慌てて立ち上がって深く頭を下げた。
「…殿下、これは一体……。」
「学院長、この者は誰の令嬢だ。」
瑠璃はノエル王子の言葉にまたビクッと体を震わせた。
魔法を見せているから身分も知っていると思ったのだけど、どこかのご令嬢だと思われていたのだと知って絶望した。
「……この者は名字を持っておりません。」
学院長の言葉で、瑠璃はあっという間に騎士のような護衛――恐らく本物の騎士に囲まれた。
「どういうことだ。この瞳は…」
「殿下、申し訳ございません。私は孤児です。この瞳は生まれついた色ですが、私に家族はおりません。」
ノエル王子まで瑠璃のことをワーグナー公爵だとかいう高貴な貴族の血縁だと思っていたのだろう。
やはり瑠璃が口を利いていい相手ではないのだ。
一瞬でも自惚れた自分を心から恥じて頭を下げた。
「非人の分際で殿下と口を利くとは何たる無礼だ。今すぐ失せろ。」
「ウィル、何を言うんだ。」
茶髪の青年が瑠璃に吐き捨てた。
王子様から近づいてきたのに失せろは酷いと思ったが、恐らくこの青年もさぞ身分が高いのだろうから文句を言えるわけもなかった。
瑠璃は今度は這いつくばって顔を床に押し付けた。
こんな思いは何度もしてきたはずなのに、胸が張り裂けそうなほどに悔しくて苦しかった。
「大変申し訳ございませんでした。殿下の尊き御目に映らないよう心がけますので、どうかご放念下さい。」
「瑠璃、やめてくれ。君を離したくない。」
「なりません。御手が穢れます。」
ノエル王子が再び膝をつこうとしたけど、今度は茶髪の青年が止めた。
自分だって心を持った一人の人間だ、と叫びたくなる気持ちをぐっと堪えて、瑠璃はそっと立ち上がった。
瑠璃は食べ終えた食器の載った盆を手に持ってぐっと目を閉じると、魔法で食器置き場に身を移した。
さっと盆を置いて再び目を閉じて、瑠璃は今度は誰もいない教室の自分の席へと身を移した。




