3.束の間の邂逅
そのまま一時間目の数学の授業を終えた。
瑠璃は自分の机で存在感を消すように深く顔を伏せながら、内心は冷や汗がダラダラだった。
(この学校、どうなってるの?!もう三年生まで終わりそうよ…)
転校経験が豊富な瑠璃はどこに行っても大丈夫なように、少し早めに勉強を進めていて、二年生の教科書は終わらせていた。
今まで勉強で遅れをとったことはなかったけど、ノルベルト記念学院の二年生は既に三年生の内容を終えようとしていたのだ。
先生の言っていることが何一つわからなくて、瑠璃はリベルに土下座して教えを請う覚悟を決めていた。
「こんにちは。君、名字は?」
突然声をかけられてビクッと震えた。
そんな聞き方をするということは瑠璃をからかおうとしているのだろうか。
瑠璃はそっと顔を上げて、声をかけてきた男子生徒を見上げた。
黒髪に茶色い瞳の男子生徒は瑠璃と目が合うと目を真ん丸に見開いた。
「…ワーグナー家のご令嬢?」
知らない名前を出されて瑠璃は首を傾げた。
そんな家を聞いたことはないが、ご令嬢だなんてとんでもないのでまた顔を伏せた。
「はじめまして。名字はないんです。ルリと呼んでください。」
瑠璃が消え入るような声で呟くと、男子生徒はしゃがみ込んで瑠璃の目線に合わせてくれた。
そんなことをされたのは初めてだったので驚いてまた顔を上げた。
「そうなのか。僕はケイル・フォルスターだ。ケイルと呼んで。ルリ、よろしくね。」
「ケイル…ありがとう。こちらこそ、よろしくね。」
ケイルに手を差し出されたので瑠璃はその手をそっと握った。
まさかこの学院はいじめなどないのだろうか。
…と思っていたら、そんなあり得ない希望は即座に打ち砕かれた。
「ケイル、触れない方がいいわ。非人よ。」
隣の席の女子生徒が冷たい声を浴びせて、瑠璃はすぐにケイルの手を解いた。
「エミリア、失礼だ。この瞳を見ろ。きっと高貴な血を引いているんだよ。」
ケイルの言葉に驚いて否定しようと顔を上げると、瑠璃を見ていたのであろうエミリアと目が合った。
エミリアも瑠璃と目が合うと何故か驚いたように目を見開いた。
「…ケイル、あの、申し訳ないけど私は孤児院の出だから…。本当に名字がないの。ごめんなさい。」
「やっぱりそうよ。瞳を真似るなんて姑息な芸当ができるなんて、あなたもしかして魔法使い?」
今度は瑠璃が目を丸くする番だった。
名字が無いということは異能持ちか相当な訳ありだが、魔法が使えることをこんなにもすぐに見抜かれたのは初めてだ。
瑠璃の瞳は魔法で色を変えたものではないけど、王都には王室魔法使いがいるから魔法にも馴染みがあるのだろうか、と少しだけ嬉しくなった。
「そうなの。私は瑠璃色の瞳で瑠璃だからこの瞳は魔法ではないけど、私は魔女よ。」
瑠璃の言葉を聞いてクラス中がどよめいた。
魔法使いや魔女は異能者の中でも特に恐れられる。魔法で人を殺したり街を壊滅させることができると思われているからだ。
王室魔法使いともなればそんなこともできるのかもしれないが、小心者の瑠璃は掟破りなどできないので人を攻撃するのに魔法を使うことはない。
これでもう友達などできそうもないけど、どうせいつかバレることだから隠すだけ無駄なのだ。
「ケイル、話しかけてくれてありがとう。嬉しかった。」
これ以上ケイルと話してはケイルまで卑しいと思われてしまいそうだ。
瑠璃は再び顔を伏せて皆の視線から逃れた。
どこかから鐘の音が聞こえて、ケイルは何も言わずに自分の席に戻っていった。
◇◇◇
案の定その後は誰にも話しかけられないまま午前中の授業を終えて、瑠璃は皆の後をそろそろとついて食堂へと向かった。
他のクラスの生徒も合流すると皆の視線がより痛い。
不相応に豪華な校舎が心細さを助長させて、瑠璃はこれほどリベルを求めたことはないというくらいリベルが恋しかった。
「ルリー!」
視線に耐えながら食堂に到着するとリベルの声がして顔を上げた。
瑠璃に手を振るリベルの周りを数人の男子生徒が囲んでいた。
これもいつものことだ。リベルは持ち前の明るさですぐに友達ができるのだ。
早速皆に距離を置かれてしまった瑠璃とは大違いだし、せっかく友達ができたのに瑠璃のせいで台無しにしてしまっては申し訳ない。
瑠璃はぶんぶんと横に手を振って来なくていい、と伝えたが、伝わらなかったようでリベルが駆け寄ってきた。
「ルリ、どうだった?」
「えっと…優しい人もいたわ。」
「そうか、よかったな。」
まさか早速避けられたなんて言えないので誤魔化すと、リベルは瑠璃の肩を抱いて先ほどの男子生徒達の元へ連れて行った。
「紹介する。二年生のルリだ。俺の旅の仲間なんだ。」
「よ、よろしくお願いします…。」
瑠璃が男子生徒達の前でぺこりと頭を下げてから顔を上げると、また皆の目が真ん丸になった。
目が合う度に驚かれるけど、瑠璃の瞳はそんなにおかしいのだろうか。
「…ワーグナー家の方?」
「あの…残念ながら、私には名字がないんです。ただのルリです。」
「ワーグナーって誰だ?」
一人の男子生徒が首を傾げた。
先ほども聞かれたので落ち着いて否定すると、今度はリベルが首を傾げた。
「知らないのか?ワーグナー公爵家だよ。ちょうどルリみたいな、瑠璃色の瞳を持つ家系だ。」
「こ、公爵家……。」
リベルの疑問に別の男子生徒が答えて、瑠璃は朝から驚かれていた意味を知って戦いた。
「こいつとは十年一緒にいるけど、高貴さの欠片もないから何かの間違いだな。」
「そうなのか。ワーグナー家の血を引いているわけでもないのに瑠璃色とは珍しいな。」
この学院の男子生徒は心優しい人が多いのだろうか。
瑠璃がそんな高貴な家の出ではないと知っても、先ほどのケイルのように瑠璃の目を見て普通に接してくれた。
そのままリベルとリベルの友人たちに混ぜてもらって食事を注文しに行くことになった。
「ここでメインを注文するんだ。付け合わせにパンかライスが選べる。」
「エデンさん…ありがとうございます。」
食堂の仕組みがわからなくて瑠璃がまごついていると、リベルの友人の一人のエデンが教えてくれた。
「君は綺麗な髪をしているね。ご両親は異国の方なの?」
「孤児なのでわからないのですが、多分違うと思います。顔は普通なので。」
「君は可愛いよ。」
エデンにクスっと笑いながら言われて、柄にもなく頬が染まるのがわかった。
「エデン、こいつは色気の欠片もないぞ。手を出してもいいことはない。」
「うるさい、リベル。」
「今日の下着は…」
「黙って!」
「リベルとルリは仲が良いんだな。…殿下だ。」
「え?」
エデンに突然言われて意味がわからなくてリベルと顔を見合わせた。
食堂が一瞬静まり返ってなんだろう、と思ったら、入口から背の高い黒髪の青年とその後ろから顔を伏せた茶髪の青年が入ってくるのが見えた。
後ろには騎士のような格好をした屈強な男性が何人もついてきているので一体何事だろうか、と見つめていると、黒髪の青年の瞳が瑠璃を捉えた。
その瞳を、瑠璃は信じられない気持ちで見つめ返した。
(翡翠の…色……あの子と同じ…)
何度も夢に見た翡翠色の瞳が瑠璃に向かって見開かれていた。
「顔を伏せて。ノエル王子殿下だ。」
「えっ?」
エデンに囁かれてはっと周りを見回すと誰一人顔を上げている人はいなかったので、瑠璃も大慌てで顔を伏せた。
(王子ってまさか本当にこの国の王子様だっていうの?!)
横にいるリベルも顔を伏せながら驚愕の表情を浮かべている。
王族の名を冠する学院だから王族がいてもおかしくないのだろうけど、まさか本当にいるだなんて思いもしなかった。
(あの翡翠色の瞳…あの子の物だと思ったけどあり得ないわね。むしろ違っていてほしいわ。)
あの日以来八年ぶりに見た翡翠色に対する歓喜はとうに消え去っていた。
妄想するのは自由だけど、もしあの子が本物の王子様だったとしたら瑠璃はもう二度と話すことはないだろう。
口を利くことも触れることも厭われるような卑しい身分の瑠璃が、尊い王子様の目に入ってはいけないのだ。
頭をフル回転させて考えていたから、目の前に人が立っていることには気づかなかった。
「面を上げよ。」
自分のすぐ上から声がして、瑠璃はビクッと体を震わせた。
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