22.儚い幸せ
それから一週間は天国と地獄を行き来するような日々だった。
朝、登校して扉を開けると水を浴びせられ、机には滅茶苦茶な落書きがしてあった。
魔法ですぐに消してなるべく見ないようにしていたけど、とてもノエル様の耳に入れることなど出来ない言葉の数々がどうしても目に入ってしまった。
(「旅芸人」はわかるわ。事実だもの。
「売女」って何よ。私が売女ならノエル様にも失礼よ。)
心の中ではブツブツと文句を垂れていたけど、現実の瑠璃は何も言えずに項垂れるだけだった。
目を離すと教科書や文房具がなくなるので、瑠璃は肌身離さず鞄を持ち歩くようになった。
「瑠璃、どうして鞄を持っているの?」
「忘れ物が多いので、持ち歩くようにしたんです。」
「何も食堂にまで持って来なくても…」
ノエル様が訝しむように瑠璃を見た。
瑠璃はノエル様と昼食を共にするという束の間の天国のような時間のために、生き地獄のような日常を耐えていたのだ。
この幸せな時間を、つまらないいじめのせいで奪われたくはなかった。
「それに、この鞄にはお守りが入っているんです。」
「お守り?」
「はい。私の心の支えなので、側にあると安心するんです。」
「そう…。それならいいけど。」
お守り代わりの母の形見のペンダントトップが入っていることは事実だし、鞄を持ち歩くのは勝手に中身を漁られて瑠璃の唯一の宝物を奪われないようにするためでもあった。
ノエル様はまだ眉を寄せて瑠璃をじっと見つめていたけど、瑠璃は安心して欲しくて翡翠色の瞳を見つめ返して微笑んだ。
今日もノエル様の隣に座るウィリアムは瑠璃がどんな目に遭っているのか知っているのかもしれない。
瑠璃と目を合わせずに何か考え込むような表情を浮かべていたけど、余計なことをノエル様に言う気はなさそうで安心した。
そして食堂から戻ると、再びバケツから水を浴びせられた。
最初は汚水を汲む係を押し付け合う声が聞こえていたけど、誰もやりたくなかったらしい。
ついに蛇口から出たばかりの冷水を浴びせられるようになったので体が冷えて辛かった。
瑠璃は一旦はびしょ濡れで水を受け止めて、いつもの空き教室に戻って黙って乾かした。
そうこうしているうちに昼休みは終わり、画鋲や謎のべたつきがついた椅子を座る前に綺麗にしてから午後の授業に臨むのが日課になっていた。
「ルリ、ちょっといいかな。」
「はい。」
午後の授業が終わって、瑠璃は担任のシュヴァルツ先生に呼ばれた。
クラスメイトの女子生徒達の顔が青ざめたのを見て、瑠璃へのいじめが先生の知るところとなったのかもしれないと思った。
シュヴァルツ先生が瑠璃を連れてきたのはあの空き教室だった。
シュヴァルツ先生は扉を閉めると教室に乱雑に積み上げられていた椅子を二つ持ってきて真ん中に置き、瑠璃にも座るように促した。
「一週間、大変だったな。」
「いえ…。私を受け入れていただきありがとうございます。」
いじめのことなのかご寵姫様になってしまったことなのかわからなかったけど、恐らく両方の意味だろうと思った。
「殿下の件は、君も望んでいることなのかな?」
優しく聞かれたけど、瑠璃は思わぬ質問にビクッと体を震わせた。
シュヴァルツ先生は悪い人ではなさそうだけど、この高貴な学院の教師なのだから瑠璃とは明確に身分が違う。
リベルには素直な気持ちを言えるけど、瑠璃の気持ちを尊い身分の方に打ち明けていいのかわからなかった。
「私は君の味方だ。君は私の生徒だからね。」
「…っ、ありがとうございます。殿下のお気持ちは、有り難く思っています…。」
また優しい声で言われて、瑠璃は顔を上げて消え入りそうな声で伝えた。
シュヴァルツ先生は瑠璃の答えを聞いても嘲笑うことなく、変わらず穏やかな笑みを向けてくれていた。
「それならよかった。ここでは身分や立場は関係ないから、私は君にも他の生徒と同じように接するけどいいかな?」
「も、勿論です!」
むしろ敬われても困るので瑠璃は今度はこくこくと頷いた。
頷く瑠璃を見てシュヴァルツ先生はまた笑みを浮かべたが、すぐに表情を険しくした。
「君の身にもう一つ起きていることを聞いた。クラスで何か嫌なことをされていないか?」
体が勝手にまたビクッと震えたので慌てて姿勢を正した。
「嫌なことなどありません、シュヴァルツ先生。」
本来なら助けを請うべきなのだろうが、瑠璃がいじめられているうちはノエル様に負の感情が向けられることはないのだ。
ノエル様にあの感情を向けられるよりもいじめに慣れている瑠璃が耐えていた方がよっぽどよかったから、嫌なことなどないのは事実だった。
「信じられないような行為をたくさん耳にした。それでも嫌ではないというのか?」
瑠璃はシュヴァルツ先生に自分が抱いているこの気持ちを全て正直に打ち明けたかった。
でも瑠璃が嫌じゃないと言っても行為を認めてしまえば、この素晴らしい教師は瑠璃へのいじめをやめさせようと動いてくれるだろう。
今までなら縋っていたことだろうが、今の瑠璃は違う。
「先生、何かの間違いです。皆、身分のない私にもとても良くしてくれます。」
瑠璃はケイルやエデン達の顔を思い浮かべて感情を込めて言った。
今となってはケイルも瑠璃を庇うことはなかったけど、最初に庇ってくれたときの喜びと感謝を忘れたことはなかった。
「…そうか。ルリ、無理はするな。辛かったら別の教室で授業を受けることも出来る。いつでも言ってくれ。」
「シュヴァルツ先生、お気遣いいただきありがとうございます。」
シュヴァルツ先生は納得のいかないような顔をしていたけど、それ以上は追求しないでくれた。
瑠璃は何かあっても先生を頼るつもりはなかったから、感謝と謝罪の気持ちを込めて深く頭を下げた。
シュヴァルツ先生と一緒に教室を出ると、クラスメイトの女子生徒の一人が慌てたように廊下を教室の方に駆けていった。
「…別の場所で話せばよかったな。すまない。」
シュヴァルツ先生が瑠璃に頭を下げたので瑠璃は慌てふためいた。
「せ、先生、顔を上げて下さい。いいんです。本当に私は平気です。」
「平気ということはやはり何かされているんだな。」
「あっ…」
慌てていたせいでつい口が滑ってしまった。
青ざめる瑠璃を見てシュヴァルツ先生は何かを察したのか、ぽんぽんと瑠璃の肩を叩いた。
「君が話したくないのなら詳しくは聞かない。だが、君は私の大事な生徒だ。私は君を守りたいと思っている。それを忘れないで。」
「…ありがとうございます。シュヴァルツ先生。お話できる時が来たら、ぜひ話を聞いていただけると嬉しいです。」
「ああ。いつでも声をかけてくれ。」
シュヴァルツ先生は今まで出会った数々の教師の中で一番の人格者だと確信した。
先生の気遣いが本当に嬉しくて、瑠璃は今度は純粋な感謝の気持ちを込めて深く頭を下げた。
空き教室の前で先生を見送ると、瑠璃は教室には戻らずに階段へと向かった。
週末の夜は王城で過ごすことになっているから、恐れ多くもノエル様と一緒に王城に行かせていただくのだ。
階段を上って三年生の教室が並ぶ廊下に出ると、瑠璃の目立つ金髪を目に留めたのであろう三年生にざわめきが走った。
教室の前にウィリアムが立っていたから、ノエル様の教室の場所はすぐにわかった。
ウィリアムの睨みを受けながら教室の入口に立って中を覗き込むと、窓際の席で本を読むノエル様の姿が見えた。
声をかけていいものか迷っているとウィリアムが瑠璃を小突いた。
「殿下をお待たせしています。お急ぎ下さい。」
「す、すみません。」
瑠璃は勇気を出して三年生の教室に足を踏み入れて、なるべく周りを見ないようにしながらノエル様の元へと駆け寄った。
教室に残っていた生徒のざわめきに気づいたのかノエル様が顔を上げて、瑠璃を見てさっと立ち上がった。
「殿下、お待たせして大変申し訳ございませんでした。」
「瑠璃、気にしないで。気づかなくてごめん。」
「で、殿下…っ」
跪いて頭を下げようとしたら手を取られて、バランスを崩してノエル様に抱きつくような形になってしまって慌てふためいた。
「も、申し訳ございません…!」
「どうして謝るの?じゃあ帰ろうか。」
当のノエル様は全く気にする様子もなく、むしろ瑠璃の肩を抱き寄せたので恥ずかしすぎて顔が赤くなるのがわかった。




