15.二人の世界
「瑠璃は泣いてくれるのか。優しいね。」
「私、何も知らなくて…っ、無礼を働き申し訳ございません…。」
少年が人生に絶望していた意味も知らずにのうのうと流れ星なんて見せて、そしてそんな自分を八年間も探してくれたことが申し訳なくてひれ伏したくなった。
「何も知らないのに、助けてくれたことが嬉しいんだ。」
ノエル様は今度は純粋に嬉しそうな瞳を瑠璃に向けた。
「私の身分も、母の出来事も何も知らずに、それでも助けてくれて、美しい魔法を見せてくれた。
私はそんな君に救われたんだよ。」
瑠璃はむしろそう言って下さるノエル様に救われた。
確かにあの時は命を救ったけど、その後八年間も誰にも名前を呼んでもらえずに、瑠璃のことを見つけられずに、寂しさや悲しみを誰にも曝け出せずにいたのであろうノエル様のお気持ちを思うと胸が苦しくなった。
それに瑠璃は今だって何も知らない。
ノエル様が王子様だということは知ってしまったけど、それ以外は何も知らない。
何も知らない瑠璃は、目の前で微笑む青年に――孤独なノエル王子に、束の間だけでも母親を失う前の、人に名前を呼んでもらえる幸せな少年に戻ってほしかった。
「…ノエル。」
瑠璃が名前を呼ぶと、ノエル様ははっとしたように顔を上げた。
「ノエル。今だけは全部忘れていい?あの時の私達に戻っていい?」
「瑠、璃……」
見開かれた翡翠色の瞳から瞬く間に涙が零れ落ちた。
それを見て瑠璃の瞳からも再び涙が溢れた。
瑠璃は涙を流すノエル様をそっと引き寄せて、美しい黒い髪を優しく撫でた。
「辛かったね。寂しかったね。大丈夫、あなたは一人じゃない。」
あの時、少年の身に起きた出来事を知っていたら言いたかった言葉を口にした。
ノエル様の背中がビクッと震えたのがわかって、瑠璃は今度はすっかり背中をぎゅっと抱いた。
同じような背丈だったあの夜と違って、瑠璃が抱えているのは青年の大きな背中だったけど、微かな震えが青年の――あの少年が歩んだ孤独な人生を物語っている気がした。
「っ、瑠璃。」
ノエル様が顔を上げたと思ったら、瑠璃の頭を抱え込んで性急に唇を奪った。
「瑠璃、好きだ。一生私の側にいて。離れたくない。」
唇を離して愛の言葉を囁かれては、また唇を奪われた。
ずっと側にいることなんて叶わない夢だけど、お互い今だけは夢を見てもいいだろう。
「ノエル。私も好き。ずっとあなたを想ってた。」
口づけの合間にずっと言えなかった言葉を口にすると、ノエル様の瞳から再び涙が溢れた。
涙で潤んだ瞳がまるできらめく翡翠のように美しくて、瑠璃は目が離せなくなった。
「幸せだ。瑠璃とこうして過ごせるなんて、夢みたいだ。」
「私も幸せ。今だけは、夢を見させて。」
今度は瑠璃から口づけをした。
ノエル様は一瞬固まったかと思ったら、瑠璃の頭を抱え込んで息継ぎも出来ないほど激しい口づけを浴びせた。
熱い口づけに溺れて、この世界で二人きりになったかのように蕩けていた時、扉をノックする音がしてはっと現実に戻ってきた。
「失礼いたします。入ってもよろしいでしょうか。」
聞きたくなかった声が聞こえて、瑠璃はノエル様の胸でビクッと震えた。
ノエル様は先程までの熱が嘘のように冷たい声で言った。
「ウィル、後にせよ。」
「殿下、なりません。」
ノエル様ははーっと深くため息をつくと、瑠璃の耳元で囁いた。
「瑠璃、何もしないから静かにしていて。」
「え?!ひゃっ……」
「入れ。」
ノエル様は飛び退こうとする瑠璃をぎゅっと抱え込んで、あっという間に瑠璃のドレスの背中の紐を解いてはだけさせたかと思うと、そのまま外に向かって呼びかけた。
すぐに扉が開かれて瑠璃はノエル様の腕の中で息を飲んだが、相手も――ウィリアムも息を飲んだのがわかった。
「殿下…」
「もう遅い。諦めよ。」
「……失礼いたしました。」
ウィリアムの目からはドレスがはだけて露わになった瑠璃の裸の背中と金髪が見えていたことだろう。
なぜ自分が城に連れて来られたのか、「手を出さない」とはどういう意味なのかをやっと理解して、瑠璃は耳まで赤くなって頭は真っ白になった。
扉が閉められると、ノエル様は瑠璃を抱き込んだまま背中の紐を元通りに戻してくれた。
やけに手慣れた手付きで、やはり少年は大人になったのだとわかってこれ以上ないほど赤くなった。
「瑠璃、驚かせてごめん。」
瑠璃は混乱した頭で必死に考えた。
城のきらびやかな雰囲気とは違ってどこか落ち着いた雰囲気の漂うこの部屋は、薄々気づいてはいたけどノエル様の私室なのだと確信した。
私室で服をはだけさせてすることなど一つしかない。
恐らく瑠璃はノエル様と寝所を共にするために連れてこられたのだ。
ウィリアムが今になってやってきたということは事前に知らされていなかったのだろう。
ここまで連れてきた騎士のディートでさえも目的を知らされておらず、瑠璃を様付けで呼んで恭しく接する侍女を見て一足先に目的に気づいたのだとわかった。
そこまで内密に瑠璃を連れてきて、でも手を出さないと言われて、その証にはだけたドレスは直されたのでわけがわからなかった。
「瑠璃を手放したくなかったんだ。瑠璃が王室魔法使いになっても、ここに住むことはできないから。」
ノエル様が説明してくれるけど、動きの鈍った瑠璃の頭ではその意味が理解できない。
「こうしておけば、瑠璃を安全に囲っておける。後は私がどうにかするから、とりあえず一緒に暮らそう。」
「えっ?!」
どんなに鈍った頭でも一緒に暮らす、の意味はわかる。
まさか瑠璃も王城で暮らせと言うのだろうか。
「ど、ど、どういうことでしょうか…暮らすって…」
「本当は部屋を授けたいんだけど、君を城で一人にしては危険がある。とりあえずここで一緒に暮らそう。」
「へ?!」
ここで、とは、この部屋でということだろうか。
この部屋でノエル様――ノエル王子と一緒に暮らすなんて、そんなことが許されるわけがないしあり得ない。
それに、ノエル王子は大事なことを忘れているのではないか。
「そんなことはできません。私には身分がありませんし、何よりもご婚約者様が悲しまれます。」
瑠璃の言葉にノエル王子は目を丸くした後、困ったように眉を下げて瑠璃の頭を撫でた。
「知っていたのか。シャーロットとはお互い相手がいないから穴埋めのために婚約したんだ。相手が見つかれば破棄する契約だから大丈夫だよ。」
「そ、そんな…」
高貴な方の考えていることはわからない。
でも、ノエル王子にその気がなくてもシャーロット様の方には気があるかもしれない。
第一、高貴なワーグナー家の血を引くお嬢様との婚約を破棄して身分のない瑠璃が名乗り出たら、ノエル王子のお立場が悪くなるであろうことは政治のわからない瑠璃にも容易に想像できた。
「あ、あの、今すぐ帰ります。私、何も知らずにとんでもないことを…」
「何も知らなくていいよ。瑠璃はここで私と暮らそう。」
「とんでもございませ…んっ?!」
立ち上がろうとしたら手を引かれて、再び唇を奪われた。
「瑠璃、全てを忘れて私と一緒にいてくれるんでしょう?」
先程自分が口走った言葉を改めて言われて、瑠璃はまた頬が赤くなるのがわかった。
「今日だけ…です…」
「じゃあとりあえず今日は忘れて。」
「はい…、んっ……」
また甘い口づけを落とされたら、瑠璃の思考は簡単に溶けてしまった。
「手を出さないと言ったけど、瑠璃が可愛すぎるな。」
「っ……なり、ません……」
つーっと首筋をなぞられて、耳まで真っ赤になった。
「約束は守るから安心して。今日は、ね。」
「や、ぁ……っ」
首筋に唇を落としながら瑠璃を見上げるノエル王子――ノエル様から滲み出る大人の色気で瑠璃は目を見ていられなくなって身を捩った。
抱きしめ合って口づけを交わしていたらいつの間にかすっかり日が暮れていた。
瑠璃はいよいよ帰ろうと思って、ノエル様の体からそっと離れて立ち上がった。
「瑠璃、どうしたの?」
「私、帰ります。真っ暗になったらリベルが心配するので…」
ノエル様はムスッとしたように眉を寄せて少し冷たい声で言った。
「一緒に暮らそうと言ったでしょう?」
「お戯れを。私ごときが…」
「そんなことを言わないで。瑠璃にはここで暮らす資格がある。」
「滅相もございません。今日はありがとうございました…っ、ひゃっ!」
もう夢はおしまいだ。
けじめとして膝をつこうとしたら、急に手を引かれてノエル様の膝に収まった。




