10.翡翠の瞳
「殿下…、申し訳ございません。」
「どうして謝るの?おいで、瑠璃と話したいんだ。」
「それは…」
瑠璃は王室魔法使いにならないかという誘いに対して返事をしていないから非人のままだ。
ノエル王子は大丈夫だと言っていたけど、また剣を突きつけられるのではないかと思って顔を伏せて震える体を必死に抑えた。
膝に置かれていたリベルの手にぐっと力が入ったのがわかって、一人じゃないのだと勇気が出た。
「殿下、申し訳ございません。私には殿下とお話する資格がございません。」
瑠璃は座ったまま深く頭を下げた。
「瑠璃、そんなことを言わないで。先程の話を聞いてほしい。」
ノエル王子は瑠璃の返事を待たずに瑠璃の手を引いて立ち上がらせた。
女子生徒から悲鳴に近い声が上がって、瑠璃はこの後に待ち受けるいじめを想像して俯いた。
ノエル王子は瑠璃の手を引いたまま食堂を出て、出てすぐのところにある扉を従者の茶髪の青年が開いた。
応接間のようになっている部屋に入って茶髪の青年が扉を閉めると、部屋には瑠璃とノエル王子だけになった。
「瑠璃、昨日から驚かせてばかりですまない。」
再び謝られて瑠璃は顔を上げた。
翡翠色の瞳はなぜか泣きそうな表情に見えて、あの時の少年の涙と重なって瑠璃の胸がずきりと痛んだ。
「瑠璃をずっと探していたんだ。あれからずっと君に会いたかった。もう離れたくないんだ。」
瑠璃はずっとあの夜を忘れられなかったけど、ノエル王子も同じだったのだと知って堪えていた涙が目から溢れた。
でも、婚約者がいるノエル王子がどうしてそこまで瑠璃に執着するのかわからなくて、涙と一緒に言葉も口から溢れた。
「どうして、私を……っ申し訳、ございません…」
口を利いてはいけない相手なのに、恐れ多くも質問してしまったことに恐ろしくなって顔を伏せた。
「あの夜と同じだ。二人きりだよ。」
伏せた頬に手を当てられて耳元で囁かれて、瑠璃は反射的に体が震えた。
二人ならばいいのだろうか、と顔を上げると、あの日と同じ美しい翡翠色の瞳が瑠璃を捉えた。
「あの日、世界が変わったんだ。うんざりするほど汚いと思っていたこの世界の美しさを知って、人の優しさを知った。」
目の前で話す高貴な王子様から、「この世界は汚れきっている」と吐き出した少年の面影を感じて、瑠璃は目を逸らすことができなくなった。
「瑠璃の瞳を見た時に、その美しさに驚いた。絶対に瑠璃を手に入れると決めた。」
それは瑠璃も一緒だ。目を開けた少年の翡翠色の瞳の美しさに驚いて、八年間も夢に見ていた。
「わ、たしも…」
思わず声が出てしまって、瑠璃は勇気を出して言葉を続けた。
「恐れながら…私も、あなた様の瞳の美しさが忘れられませんでした。あれからずっと、あなた様を夢に見てはいつかお会いできたらと……、っ?!」
突然、唇を熱く柔らかい物で覆われて固まった。
整った顔が視界を埋め尽くして、閉じられた目元の美しさに見惚れた。
体がそっと離れされたとき、翡翠色の瞳がゆっくりと開かれて、瑠璃を至近距離でじっと見つめた。
「瑠璃、君が好きだ。八年間ずっと、君だけを想っていた。」
聞きたくなかった言葉をはっきり告げられて、瑠璃は頭が真っ白になった。
そんなことを言われたら、好きなんて言われたら嫌でも期待をしてしまう。
「私と結婚してほしい。君とずっと一緒にいたいんだ。」
思考が停止した頭では理解できなくて、瑠璃はただその瞳を見つめることしかできなかった。
「あの夜の願いは今も変わっていない。私の願いは君と結婚することだ。
君が叶えてくれるんだろう?」
ノエル王子はあの夜と同じ、決意を秘めたような瞳をしていた。
「…叶えて差し上げたいです。」
自分の中にあった願いが思わず口をついて出てしまった。
ノエル王子が息を呑むのがわかった。
でも、瑠璃が叶えたくとも出来ないのだ。
「でも……」
「身分のことは気にしなくていい。私が何も言わせない。」
瑠璃が王室魔法使いになるという話だろうか。
瑠璃は自分が王室魔法使いになることなんて考えたことがなかったから、その答えを出せずにいた。
でも、王室魔法使いになったところで身分の壁は越えられないほど高い。
それに身分を得たところで、高貴なご婚約者様を押し退けてノエル王子と結婚することなんてとてもできない。
「殿下…」
「名前を呼んでほしい。」
今度は瑠璃が息を呑んだ。
身分のない瑠璃が王子様の名前を口にするなんて許されるわけがないのに、翡翠色の瞳が瑠璃を甘く捉えるからまた口が勝手に動いた。
「ノエル…様……」
「瑠璃。」
体を抱き寄せられて再び唇が重なり合った。
翡翠色の瞳は美しいまま変わらないのに、瑠璃を包み込む大きく力強い手と見上げるほど高くなった身長に、あの少年が大人になったのだと感じて頬が紅潮した。
心臓の高鳴りに体が支配されて頭が動かない。
「生きていてよかった。瑠璃のいる世界は美しいね。」
あの少年から、ノエル王子からそんな言葉を聞けるなんて、今までの散々な人生が報われた気がした。
瞳から溢れて止まらない涙をノエル王子が優しく拭ってくれた。
全てを忘れてこの幸せにいつまでも溺れていたい。
でも、外から聞こえたざわめきが瑠璃を現実に引き戻した。
「ここで殿下と話しているんだわ。」
「あの金髪の女、何なのかしら。」
「魔法で洗脳するなんて恐ろしい。近づきたくないわ。」
「殿下がお可哀想よ。王室魔法使いは治さないのかしら。」
瑠璃は急に自分の身分を思い出してノエル王子から飛び退いた。
「瑠璃。気にすることはない。私が黙らせる。」
「なりません!」
部屋を出ていこうとしたノエル王子の手を咄嗟に掴んだ。
ノエル王子が驚いた顔で瑠璃を見たので慌てて離した。
「っ、失礼しました。殿下、なりません。私は平気なので、どうか殿下もお気になさらないで下さい。」
瑠璃は深く頭を下げた。
これ以上、瑠璃のせいでノエル王子の名声を穢してはならない。
「…ウィル、ここへ参れ。」
「失礼いたします。」
ノエル王子が扉の外に呼びかけると、いつもノエル王子の隣にいる茶髪の青年が入ってきた。
学院の制服を纏った青年は顔を伏せたままだったので表情がわからないが、失せろとまで言われたので瑠璃が歓迎されていないことは想像がついた。
「瑠璃、私の側近のウィルだ。瑠璃とはクラスが違うが、同じ二年生だ。もし周りから何か言われることがあったらリアムに言ってくれ。」
「ウィリアム・バルテルと申します。よろしくお願いいたします。」
顔を上げたウィリアムは無表情ではあったが、その目は確実に瑠璃を睨みつけていた。
「ルリです。よろしくお願いします…。」
(何か言われることがあったらって…この人が一番酷いことを言ってたし、今も私を睨みつけているけど…)
瑠璃の存在に不満しかなさそうなウィリアムの目を見ることなど出来なくて、瑠璃は逃げるように顔を伏せた。
「ウィル、瑠璃を教室まで送ってくれ。」
「…承知しました、ノエル王子殿下。」
ウィリアムは胸に手を当てて恭しく頭を下げた。
ノエル王子の側近ということはきっとウィリアムも貴族なのだろう。
貴族であるウィリアムでさえもこれほど敬っているのだから、やはりノエル王子は瑠璃が口を利いていいような相手ではないのだとよくわかった。
貴族に送ってもらうなんてとんでもないが、ノエル王子の気遣いを無碍にするわけにはいかない。
ウィリアムが扉を開いたので、瑠璃はもう一度ノエル王子に深く頭を下げてから部屋を出た。




