『早かったってよ』後編
フェンス越しに立つ“影だけの自分”を見たまま、
海斗は呼吸を忘れていた。
影は海斗をじっと見ているように思えた。
目なんてないはずなのに、
視線のような圧だけがまっすぐ刺さってくる。
(……なんで……)
海斗がそっと一歩だけ下がる。
砂がざりっと鳴る。
その音に合わせるように、
影もフェンスの向こうで一歩“前に”動いた。
海斗の身体はもう動けなかった。
風も吹いてない。
他の影は全部ゆっくり伸びているだけなのに、
自分の影だけが――
人間みたいな速さで、こちらへ。
海斗は、
勇気というより反射で走り出した。
校門から道路へ飛び出し、
家の方向へ一直線に駆ける。
走りながら、無意識に地面を見た。
(……なあ、うそやろ……)
街灯の光が当たるたび、
地面にはっきりと“自分の影”が映っている。
それ自体は普通だ。
ただ問題は――
海斗の影が、
海斗より先に歩いていた。
歩幅が大きい。
腕の振りも速い。
海斗がスピードを上げても、
影がそのさらに先へ滑っていく。
(なんなん……これ。
追いつかれへん……自分の影に……)
海斗は全力で走った。
陸上部の短距離の脚で。
何度もペースを上げる。
でも影は、
それより“半歩先”をずっと行く。
曲がり角を曲がる時、
影が先に角を曲がり、
壁に吸い込まれて消えていった。
海斗が追って角を曲がると、
影はもういなかった。
(帰ろ……帰ろ……もう知らん)
背筋がギチギチ鳴るような感覚のまま、
家のある方向へ向き直る。
その瞬間。
足元のアスファルトに――
スッと“影”が植え付けられたように現れた。
自分の足の真下、
確かに“自分の影”がある。
いつものようにぴったりくっついて。
一見、完全に普通。
海斗は息を吐いた。
ほんの少しだけ、安堵が戻った。
(……戻った……?)
だがその直後。
影が、海斗が動いてないのに
“先に首をかしげた”。
ほんの少し、
海斗を覗き込むような角度。
海斗の心臓が跳ねる。
「……やめて……やめてや……」
声が震える。
影は動きを止めない。
今度は、
海斗より早く、ゆっくりと“顔を上げるように”向いてきた。
影の“目の位置”。
黒い空洞が、
海斗の方へ真っ直ぐ向いた。
海斗は悲鳴も出せず、
後ずさりしながら尻もちをついた。
街灯の光が影を伸ばす。
影は伸びたまま、
海斗より早く、海斗を見つめ続けている。
動けない。
逃げられない。
影が、
海斗の動作の“先”を全部取っている。
海斗は震える唇で、
言葉にならない声を漏らした。
影は――
海斗より早く、海斗を向いていた。




