『消えたってよ』後編
目の前の後ろ姿がこちらを向きはじめた瞬間、
亮平の身体は勝手に後ずさった。
外灯の明かりの下、
白いブラウスがほんの少し揺れた。
髪が肩を滑る音が聞こえたような気がした。
でも、顔はまだ見えない。
ゆっくり、ゆっくりと向きが変わっていく。
亮平は息を詰めて固まった。
声を出す勇気もなかった。
ちょうど、完全にこちらを向こうとしたその瞬間――
外灯が「パチッ」と小さく鳴り、
光が一度だけ死んだ。
その一瞬の暗闇で、
後ろ姿は消えていた。
亮平はしばらく動けず、
やっとのことで鍵を開けて部屋に飛び込んだ。
ドアを閉め、鍵を2回まわし、
チェーンをかける。
部屋の電気を全部つけた。
蛍光灯の白い光が天井に広がる。
(なに今の……どういう……)
亮平はソファに腰を落とした。
膝が勝手に震えていた。
しばらくして、スマホが震えた。
通知でも着信でもない。
ただ、カメラアプリが勝手に開かれた。
(……は?)
スマホを持つ手が熱くなる。
通知欄には何もない。
シャッター音も聞こえていない。
でも、画面には「最近の写真」が追加されていた。
一枚だけ。
おそるおそる開いた。
アパートの入口の写真だった。
さっき亮平が立っていた場所。
外灯の下の、あの位置。
何も写っていない――
はずだった。
画面を明るくして、指で拡大する。
入口横の植え込みの影が、
妙に濃い。
(こんな影、あったか……?)
さらに拡大する。
影の中に、“輪郭”があった。
人影。
白いブラウスの肩のライン。
髪の束。
こちらを向いた――
“顔”の輪郭だけ。
目の位置が黒く滲んでいるように見えた。
亮平はスマホを落としそうになった。
(写って……る……?)
窓の外で、
音がした。
ヒールの音。
遠くでも近くでもない、
ちょうどアパートの前のアスファルトを踏む音。
カッ……カッ……
さっき聞いたリズムそのまま。
亮平は恐怖と混乱で、
それが“朝のOL”なのか“さっきの後ろ姿”なのかすら判断できなかった。
音はすぐに止んだ。
静寂が戻る。
冷蔵庫のモーター音だけが響く。
(見に行く……?いや無理だろ……)
でも、
なぜか窓のカーテンが気になった。
見なければいいのに、
見たら絶対良くないのに。
亮平は、
カーテンの端をほんの指一本分だけ開いた。
外灯の下。
アパートの入口の真ん前。
白いブラウスが立っていた。
さっきの後ろ姿。
ただ、今は――
真正面を向いていた。
顔の輪郭がわかるのに、
“表情”だけが霧のようにぼやけている。
目の部分だけ、光を吸い込んだように暗い。
亮平は息を殺し、
指でカーテンを閉じようとした。
その瞬間。
白いブラウスの“顔”が、
少しずつ近づいてきた。
カーテン越し。
視界の端にひたひたと迫る影。
亮平は慌ててカーテンを閉じた。
布が擦れて小さく音がした。
呼吸が乱れる。
喉が乾く。
鼓動が痛いほど響く。
(……帰った? いない?)
外は静かだ。
でも。
亮平のスマホが、
もう一度だけ震えた。
写真アプリのアルバムが勝手に開いた。
今度は、
さっきより鮮明な写真が一枚追加されていた。
窓の真下から、
こちらを見上げる白いブラウスの女の顔
が写っていた。
輪郭ははっきり。
ただ、目の部分だけ黒く塗りつぶしたように見えた。
その“黒”が、
画面越しにもじっと亮平を見ている。
亮平は手を震わせながら、
スマホを伏せた。
部屋の電気はついているのに、
視界が少しずつ暗くなっていくような気がした。
今夜は、
カーテンを開けることはできなかった。




