『消えたってよ』前編
亮平は、朝の通勤ルートを変えない。
理由は単純で、道を覚えるのが面倒だからだ。
同じ道を歩くと、
自然と“毎朝見かけるメンバー”が決まってくる。
犬を連れた老人。
スマホを凝視したまま歩く高校生。
やたら速いスピードで自転車をこぐおばちゃん。
それから――
亮平は最近、ひとりの“見慣れないのに見慣れた”存在に気づいていた。
黒いジャケット。
手をポケットに入れたまま、一定の速さで歩く男。
顔は見えない。
いつもうつむき加減で、表情が読めなかった。
足音も異様に小さかった。
気づくと前を歩いている日もあれば、
気づいたら後ろにいる日もあった。
(まあ……街には色んな人がいるよな)
亮平はそれ以上深く考えなかった。
ただ何となく、その男のことを“朝の風景の一部”として納得していた。
そして、そこにもうひとり。
毎朝“決まって前を歩く”人物がいる。
白いブラウスに紺のタイトスカート。
肩までの結び髪。
歩くのが少し速いOL。
亮平は顔を知らないが、
ヒールのリズムだけは毎朝耳に残っている。
カツ、カツ、カツ。
何故か、その音を聞くと安心して会社に行ける気がした。
---
その晩。
残業帰りの亮平は、気晴らしに少し遠回りして帰ることにした。
夜風が冷たい。
路地にはほとんど人影がない。
コンビニを抜けて細い道へ入った瞬間、
亮平は足を止めた。
前を歩く――
白いブラウスの後ろ姿。
(……あれ?)
朝のOLだ。
別に夜にいるのが変なわけじゃない。
ただ、亮平の中で“朝用の存在”になっていたため、
妙な違和感が生まれた。
歩き方は昼と同じ。
速い。
迷いがない。
距離は一定で、
追いつけそうで追いつけない。
(方向同じなんだな……)
OLが右の角をスッと曲がった。
靴音が一瞬反響して、
暗い路地へ吸い込まれていく。
カツ、カツ……カ……
亮平は3秒遅れて角を曲がった。
……いない。
道は短い。
左右に脇道なし。
どこへも逃げ込めない。
街灯の下、
ぽつんと空気が冷えているだけ。
(そんなバカな……)
亮平は奥へ数歩歩いてみる。
人影はどこにもない。
角に戻りかけたとき、
脳裏で最後の靴音が蘇る。
カツ……カ……
途切れ方が変だった。
まるで音が途中で別の場所に吸われたような――そんな感じ。
(気のせいだよ……)
自分に言い聞かせるように呟いた。
その直後だった。
亮平のすぐ後ろで、
コッ……
とヒールの音がひとつだけ鳴った。
(……え?)
理由もなく、
振り返ることができなかった。
冷たい空気が背面を撫でる。
誰かの視線のような気配がする。
意を決して振り向く。
誰もいない。
角のあたりだけ、
薄く影が立っているような感覚が残っていた。
(もう帰ろ……)
亮平は小走りでその場を離れた。
---
アパートの前に着いたとき。
外灯の下に――
後ろ姿が立っていた。
白いブラウス。
紺のスカート。
肩までの結び髪。
亮平は息を呑んだ。
さっきのOLと同じ後ろ姿。
動かない。
外灯の下で影だけが濃い。
(……なんで……?)
喉が鳴る。
呼吸の音がやけに大きい。
亮平が一歩踏み出した瞬間。
その後ろ姿が――
ゆっくりと、こちらへ向き始めた。




