『笑ってるってよ』後編
壁の向こうから返ってきた、「コン……」という音。
和也は、その瞬間、体の芯がきゅっと縮むような感覚に襲われた。
ノックではない。
誰かが壁を叩いた音とも違う。
しかし、「反応した」ことだけは、確信できた。
(返事……したってこと?
いや、でも……いや……)
頭の中で言葉がまとまらない。
息をするタイミングさえわからなくなる。
笑い声は止まったままだ。
和也は、壁からゆっくり離れようとしたが、足が床に貼り付いたみたいに動かなかった。
(逃げる、ってほどじゃないけど……後退……できない)
固まっている時間が長くなるほど、自分が何を怖がっているのか分からなくなっていく。
しかし、「何かが返した」という事実だけは、頭に焼きついていた。
次の一歩を踏む勇気が出ないまま、和也はその場で呼吸を整えた。
――そして。
「ははっ……」
ひとつだけ、笑い声がした。
前より、近くなっていた。
(……近づいてる……?
やめろやめろやめろ……)
心の中は叫んでいるのに、口は完全に閉じていた。
手のひらが汗で湿っていく。
その瞬間を境に、笑い声はふたたび再開した。
「ははっ……ははっ……ははっ……」
昨日と同じ。
だが、最初のひと笑いだけが異様に近く、明らかに“こちらに寄った”感覚があった。
和也は、壁から一歩だけ離れた。
背中が冷たく、指先が震える。
(寝よう。寝たら忘れる。寝たら今日になる……)
そう思いながら、電気を消す勇気はなかった。
部屋の灯りはそのままに、布団へ潜り込む。
笑い声は、今も続いている。
消えない。
音量もリズムも変わらない。
ただ和也は、目を閉じ、耳を塞ぎ、
意図的に自分を眠りに落とした。
◇ ◇ ◇
朝。
部屋の空気が薄い。
窓を少し開けると、朝焼けが蒸気のように差し込んできた。
和也は、眠りが浅かった。
体が重く、頭も重い。
(夢、だと思いたい……)
布団をめくり、冷えた床に足をつける。
昨日の笑い声の残響は、まだどこかにこびりついていた。
朝のニュースを流そうとパソコンを開いた時――
ドアの向こうで、足音がした。
誰かが廊下を歩いている。
学生アパートなので珍しいことではない。
だが、その足音が和也の部屋の前でピタリと止まった。
(宅配?いや……この時間に?)
和也は、気配を殺し、ゆっくりとドアへ近づく。
覗き穴に目を当てようとした瞬間――
足音は、そのまま階段のほうへ遠ざかっていった。
(……なんだよ)
大きめに息を吐く。
覗き穴を見る勇気は、なかった。
◇ ◇ ◇
日中の大学は、昨日よりは賑やかだった。
笑い声も、雑談も、アホみたいな会話も、全部が“普通の音”に感じられる。
(夜って……音の重さが違うんだよな)
そう思いながら、友人とコンビニ前でおにぎりを食べていると、
画面の隅に“あの時間”がふとよぎる。
深夜2時。
笑い声。
壁。
音の返し。
そのすべてが、ぼんやりと重なっていく。
「おい、和也。死んだ魚みたいな目してるけど大丈夫か?」
「寝てないだけだよ」
「アニメ?」
「……隣」
「隣?」
昨日と同じ会話だ。
もう話すのはやめようと、和也は無言でおにぎりをかじった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
アパートの外観は、風のせいなのかいつもより暗く見えた。
外廊下を歩くと、砂利のような音が靴の下で鳴る。
部屋の前に着くと、隣の部屋のドアがわずかに開いていた。
(……開いてた?)
和也は足を止めた。
隣の部屋は、住人表では名前が塗りつぶされていた。
郵便受けも半分ガムテープで塞がれている。
つまり、誰が住んでいるのかよく分からない部屋だった。
そのドアが、3センチほど開いている。
(いやいやいや……これ、閉め忘れ?
いや、そんな丁寧に“3センチ”で止まる?)
覗き込む勇気もなく、和也は自室へ入る。
今日はアニメを見る気力もない。
部屋の灯りをつけて、ローテーブルに座り込む。
(今日は……聞こえないといいけど)
時計を見ると、23時。
寝ようと思えば寝られる時間だ。
だが、ベッドに横になっても眠気はこない。
部屋の空気が落ち着かない。
隣の部屋の、あの3センチの隙間が、脳裏に張りついて離れない。
◇ ◇ ◇
2:00。
和也は、電気を点けたままベッドにいた。
目は開けたまま、動かない。
耳だけが、右側の壁に向いている。
(……こいよ……いや、こないで……)
両方の願いが混ざる。
秒針の音も聞こえない。
電気の蛍光灯が、わずかにジジ……と鳴っているだけだ。
そして。
「ははっ……」
また、きた。
昨日と同じ。
深夜2時3分。
隣の部屋。
同じ高さ、同じ音量、同じリズム。
「ははっ……ははっ……ははっ……」
和也は、反射的に布団を掴んだ。
布団が少し湿っているのは、単純に汗のせいだ。
(……これ……毎日やるつもりかよ……)
声に出さないツッコミが、頭の中で弾ける。
昨夜は、叩いたら止まった。
今日はどうだろう。
叩くべきか。
やめておくべきか。
(……いや、叩かないほうがいい。絶対に)
直感がそう告げる。
和也は、耳を壁から離し、布団を頭までかぶった。
笑い声はその間も続く。
「ははっ……ははっ……ははっ……」
笑っているのに、楽しさがひとつもない。
感情が薄い。
音だけが、そこにある。
そして。
笑い声が、“音量ゼロ”みたいに唐突に止まった。
ぴたり。
(……また?)
和也は、布団から顔を少しだけ出す。
静寂。
隣の気配が不気味に消えている。
(……終わった……?)
安心した、その瞬間。
……コン……
昨日より、はっきりと聞こえた。
和也は、布団ごと硬直した。
(なんで……返すの……)
返ってくる音はひとつだけ。
意味を持たないようでいて、まったく意味がないとも言い切れない。
暗闇の中で、和也は、壁の向こうを想像した。
――笑っている誰かが、壁に耳を当てている姿。
(いやいやいや……考えるな考えるな……)
心の中のツッコミも、震えていた。
◇ ◇ ◇
その数分後。
和也は、どうしようもなくなって、ゆっくりベッドから起き上がった。
足が震えている。
スリッパを履く余裕もなく、裸足で床を歩く。
ドアのほうへ向かう。
覗き穴。
視界の先。
和也は、深呼吸をひとつして、
覗き穴に、目を近づけた。
視界には、外廊下が映る。
暗い。
誰もいない。
何もない。
和也は、安堵の息を漏らそうとした。
そのとき――
隣の部屋のドアが、ゆっくり閉まり始めた。
開いていた3センチの隙間が、
音もなく、少しずつ消えていく。
誰が閉めているのかは、見えない。
閉まりきった瞬間。
視界の端に、**笑っている“顔”**が映った。
距離は、覗き穴のすぐ向こう。
目が合った。
笑っていた。
音はしないのに、
口だけが、
笑っていた。




