『笑ってるってよ』前編
夜の二時を過ぎると、世界から「自分以外の人間」が減っていく感じがする。
画面の向こうには、まだ何万人も視聴者がいるはずなのに、ワンルームのこの六畳だけ、時間から取り残されているみたいだ。
和也は、ベッドにもたれた姿勢でノートパソコンを開き、深夜アニメの配信をぼんやり眺めていた。
笑い声の入るタイプの作品ではない。
戦って泣いて、たまに告白して、以上。そういうやつだ。
画面の下には、「テスト前に何してんだ」「寝ろ」というコメントが流れている。
その文字列を目で追いながら、和也は自分のことを言われているような気になりつつ、再生を止める気はまったくなかった。
(テスト前になんか始めたくなる脳、誰かパッチ当ててくれないかな)
机代わりにしているローテーブルの上には、空になったカップ麺の容器が二つと、コンビニのからあげの袋、それから半分飲みかけの緑茶ペットボトル。
ミニキッチンのほうには未洗浄のフライパンとマグカップ。
散らかっているが、「大学生男子の部屋」としては割と標準だと本人は思っている。
アパートは、学生向けの安い1K。
六畳の部屋と、小さなキッチン、ユニットバス。
壁は薄く、上の階の足音も、通路を走る誰かの音も、だいたい筒抜けだ。
(上のヤツ、今日静かだな。徹夜組仲間だと思ってたのに)
そんなことを考えながら、ふと画面右下の時計を見る。
「2:03」。
ちょうどそのとき――
笑い声が聞こえた。
和也は、画面から目を離した。
イヤホンはしていない。
パソコンからも、スマホからも、音は出ていない。
笑い声は、部屋の中からではなかった。
どこか外――もっと具体的に言うと、右側の壁の向こうから聞こえてきた。
(……隣?)
最初に頭に浮かんだのはそれだった。
隣の部屋には、まだ会ったことのない誰かが住んでいる。
深夜二時に笑っていても、おかしい時間ではない。
同じような生活リズムの学生がいても、不思議ではない。
そう思おうとした。
けれど、その笑い声は、ドラマやバラエティのそれとは、どこか違っていた。
「ははっ……ははっ……」
乾いた笑い。
けれど、楽しそうではない。
むしろ、笑うという行為だけを切り出してループ再生しているような、感情の乗っていない笑い方だった。
(録音……?いや、さすがにこんな時間に笑い声だけ流さないよな)
テレビにツッコミでも入れているのなら、言葉が混ざるだろう。
「マジかよ」とか、「いやそれはない」とか。
でも、隣から聞こえてくるのは、笑い声だけだった。
「ははっ……ははっ……ははっ……」
リズムが、一定だ。
息継ぎも、感情の揺れも、ほとんどない。
(なんだこれ……)
和也は、パソコンの音量をゼロにして、完全に消音にした。
部屋の中は静かになる。
時計の秒針の音さえ聞こえそうなほどの静けさだ。
それでも、笑い声は続いていた。
壁一枚挟んだ向こう側で、小さく、しかしはっきりと。
「ははっ……ははっ……ははっ……」
和也は、ベッドからそっと降り、スリッパを履いた。
ローテーブルの横をすり抜け、壁際まで歩く。
右側の壁――隣の部屋との境界線に、ゆっくりと近づく。
(これ、注意したほうがいいのかな……いや、初対面の挨拶が“笑い声うるさいです”はさすがにハードモードすぎるだろ……)
困惑しながらも、耳は壁に近づいていく。
距離が縮まるにつれ、笑い声はすこしだけ輪郭を増した。
笑っているのは、おそらく男だ。
年齢は分からない。
若者にも、中年にも聞こえる。
高くもなく、低くもない。
特徴がなさすぎる。
(……でも、ここ、男の笑い声が似合う部屋でもないんだよな)
引っ越してきた日に、アパートの掲示板で、全戸の名前をぼんやり眺めたことがある。
和也の右隣の部屋は、紙が少し剥がれていて、表面にボールペンの跡が残っていた。
「 〇〇 」
名前の部分だけ、黒く塗りつぶされているように見えた。
(いや、あれはたぶん、前の住人の名前消しただけだ。そういうの、管理の雑なアパートあるし)
自分の中で説明をつける。
それで納得しかける。
でも、笑い声はその説明を無視するように、一定のリズムを刻み続けた。
「ははっ……ははっ……ははっ……」
やがて、それは唐突に止まった。
スイッチを切ったみたいに。
途中で息継ぎをして切れたのではなく、「ここまで」というところでぴたりと。
和也は、自分の心臓の音だけが急に大きくなった気がした。
(……終わり?)
耳を壁から離し、しばらくじっとしてみる。
音はしない。
上の階も、廊下も静かだ。
(……気にしすぎだな。隣もこっちのアニメの音とか聞こえてるだろうし、お互い様ってことで……)
そう決めつけて、ベッドに戻る。
ノートパソコンの再生ボタンにカーソルを合わせる。
クリックしようとした瞬間――
「ははっ」
短く、ひとつだけ笑い声がした。
びくっと肩が跳ねる。
今のは、さっきまでの連続した笑いとは違う。
音が、急に近くなったような気がした。
(……やめろってマジで)
心の中でだけ叫んで、パソコンを閉じる。
消灯もせず、和也は布団に潜り込んだ。
目を閉じると、余計に耳だけが敏感になる。
外の車の音。
冷蔵庫のモーター音。
自分の呼吸の音。
笑い声は――しない。
そのまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
◇ ◇ ◇
翌日、午後の講義は三コマ連続で、眠気との戦いだった。
和也は教室の後ろのほうの席で、ノートを開きながら、半分以上は落書きをしていた。
教授の声が、遠くで鳴っているBGMのように流れていく。
黒板に書かれる数式は、睡眠導入剤としか思えない。
(今日も夜更かしコースだな……)
教室がどよめいた。
前の席のやつが急に笑い出し、それにつられて数人が笑う。
教授が何か冗談を言ったらしい。
その笑い声の渦の中で、和也は、昨日の夜の笑い声を思い出した。
「ははっ……ははっ……ははっ……」
教室の笑い声は、バラバラで、ひとりひとり違っていて、それぞれの呼吸や感情が混ざっている。
昨日のそれは、一本の線のように、整いすぎていた。
(録音、かなぁ……でも深夜二時に毎日同じもの流してるって、それはそれで怖くないか)
講義が終わり、廊下に出ると、友人の一人に肩を叩かれた。
「おい和也、今日も死にかけてるな」
「うるさい。寝てないんだよ」
「昨日もアニメ?」
「アニメと……隣」
「隣?」
和也は、言ってから失敗したと思った。
妙な話を、軽く口に出してしまった。
「いや、なんでもない。隣がちょっとうるさいってだけ」
「うるさい隣人か。お前んとこ壁薄そうだもんな」
「薄いよ。半額のハムくらい薄い」
「例えが生活苦」
友人は笑いながら、自販機の前に小銭をジャラリと落とした。
和也は、隣の笑い声のことを話そうか迷ったが、やめた。
“毎晩二時に、同じリズムで笑ってる”なんて話をしても、笑い話か、オカルト話のネタにされるだけだろう。
(まずは様子見だな……管理会社とかに言うのも、なんか違う気がするし)
そう自分に言い聞かせ、和也はいつも通りの帰り道を歩いた。
◇ ◇ ◇
アパートの外観は、明るい時間帯に見ると、ただの「古い建物」だ。
外廊下には、洗濯物がいくつか干されている。
和也の部屋のドアの前にも、安物のスニーカーが一足置いてあるだけだ。
階段を上がる途中、誰かとすれ違った。
グレーのスーツ。
白いシャツ。
黒いネクタイ。
このアパートにしては、少しきちんとした格好だった。
営業マンか、学校関係者か、あるいはただの通りすがりか。
顔は、驚くほど印象に残らない。
見たらすぐに忘れそうなタイプの、「教科書に載っているサラリーマン」のような薄い顔立ち。
(こんな時間にスーツって、どこ帰りだ……)
和也は、軽く会釈してすれ違った。
相手も、ごくわずかに頭を下げただけで、階段を降りていった。
その背中が、アパートの外に消えるまで、なぜか目が離せなかった。
部屋の前まで来ると、隣のドアの前に、何も置かれていないのが目に入った。
表札も、名前もない。
郵便受けも、ガムテープで半分ほど塞がれている。
(……ほんとに、住んでるんだよな、誰か)
鍵を開け、自分の部屋に入る。
カーテンを閉め、部屋の灯りをつける。
ローテーブルの上のカップ麺とからあげの袋が、朝のままの姿でそこにある。
「ただいま」
誰にともなくそう言い、リュックを床に置く。
部屋の空気は、朝よりわずかに冷えていた。
(今日は……どうかな)
和也は、壁の時計を見た。
まだ二十一時過ぎ。
笑い声が聞こえてきたのは、二時を回ってからだった。
(意識すればするほど、出るものも出なくなるんだよな、こういうのって)
そう思いながらも、頭のどこかで、二時という数字だけがじわじわと大きくなっていった。
◇ ◇ ◇
その夜も、深夜アニメを一本見終わった頃、時計の針は「2:01」を指していた。
和也は、パソコンの画面を閉じた。
わざと、何も再生しない状態にする。
部屋の電気だけがついた六畳が、やけに広く感じられた。
(聞こえなきゃ、それでいい。聞こえたら……うん、そのとき考えよう)
そう自分に言い聞かせ、ベッドの端に腰を下ろす。
耳は、自然に右側の壁のほうを向いていた。
「……」
秒針の音は聞こえない。
冷蔵庫が、ぶうん、と短く唸って、すぐに黙る。
2:03。
その瞬間――
「ははっ……」
笑い声がした。
昨日と、まったく同じ高さ、同じ大きさ。
同じ場所。
右側の壁の向こうから。
「ははっ……ははっ……ははっ……」
笑い声は、昨日と同じリズムで続いた。
和也は、ベッドから立ち上がる。
床に寝かせてあったスリッパを、とっさに素足のまま踏んづける。
(……時間まで揃えてくるの、やめてくれないかな)
心の中でだけ毒を吐きながら、壁の近くまで歩く。
昨日よりも、一歩ぶんだけ距離を詰める。
耳を壁に押し当てると、笑い声の細部が少しだけ聞こえるようになった。
やはり、男の声だ。
若くもなく、老いてもいない。
教科書に載せる「笑い声」というものがあって、それを何度も再生しているような、均質な笑い。
楽しさも、嬉しさも、馬鹿馬鹿しさも、そこにはなかった。
ただ、「笑う」という行為そのものだけがあった。
「ははっ……ははっ……ははっ……」
和也は、無意識のうちに、自分の口元を押さえていた。
頬が少し引きつっているのを、自分で感じる。
(これ、いつまで続くんだろ……)
しばらく耳を当てていたが、終わる気配はなかった。
笑い声は、機械のようにリズムを刻み続ける。
(……試してみるか)
和也は、壁から耳を離し、軽く咳払いをした。
そして、拳を握り、コンコンと、壁を二回だけ叩いた。
その瞬間――笑い声が、ぴたりと止まった。
和也は、呼吸を止めてしまった。
(……気づいた?)
隣人なら、壁を叩かれたことに気づくだろう。
「うるさいですよ」の意味だと解釈するかもしれない。
このあとドアをノックされるかもしれないし、「すみません」と謝られるかもしれない。
それなら、それでいい。
話をして、「夜中の笑い声ちょっと控えてもらえますか」と言えばいい。
しかし、ドアも、足音も、しなかった。
静寂だけが、増えた。
(……止めるなら、そのまま止めてくれ)
そう願いながら、数秒――いや、体感では数十秒――待ったとき。
壁の向こうから、コン…… と、何かが返ってきた。
ノックなのか、物音なのか、判別できない。
ただ、何かが、壁のこちら側の存在に反応したような音だけが、確かにした。
和也は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。




