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変なのいるってよ  作者: 9どう?亜依


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3/12

『笑ってるってよ』前編

夜の二時を過ぎると、世界から「自分以外の人間」が減っていく感じがする。

 画面の向こうには、まだ何万人も視聴者がいるはずなのに、ワンルームのこの六畳だけ、時間から取り残されているみたいだ。


 和也は、ベッドにもたれた姿勢でノートパソコンを開き、深夜アニメの配信をぼんやり眺めていた。

 笑い声の入るタイプの作品ではない。

 戦って泣いて、たまに告白して、以上。そういうやつだ。


 画面の下には、「テスト前に何してんだ」「寝ろ」というコメントが流れている。

 その文字列を目で追いながら、和也は自分のことを言われているような気になりつつ、再生を止める気はまったくなかった。


(テスト前になんか始めたくなる脳、誰かパッチ当ててくれないかな)


 机代わりにしているローテーブルの上には、空になったカップ麺の容器が二つと、コンビニのからあげの袋、それから半分飲みかけの緑茶ペットボトル。

 ミニキッチンのほうには未洗浄のフライパンとマグカップ。

 散らかっているが、「大学生男子の部屋」としては割と標準だと本人は思っている。


 アパートは、学生向けの安い1K。

 六畳の部屋と、小さなキッチン、ユニットバス。

 壁は薄く、上の階の足音も、通路を走る誰かの音も、だいたい筒抜けだ。


(上のヤツ、今日静かだな。徹夜組仲間だと思ってたのに)


 そんなことを考えながら、ふと画面右下の時計を見る。

 「2:03」。


 ちょうどそのとき――


 笑い声が聞こえた。


 和也は、画面から目を離した。

 イヤホンはしていない。

 パソコンからも、スマホからも、音は出ていない。


 笑い声は、部屋の中からではなかった。

 どこか外――もっと具体的に言うと、右側の壁の向こうから聞こえてきた。


(……隣?)


 最初に頭に浮かんだのはそれだった。

 隣の部屋には、まだ会ったことのない誰かが住んでいる。

 深夜二時に笑っていても、おかしい時間ではない。

 同じような生活リズムの学生がいても、不思議ではない。


 そう思おうとした。


 けれど、その笑い声は、ドラマやバラエティのそれとは、どこか違っていた。


 「ははっ……ははっ……」


 乾いた笑い。

 けれど、楽しそうではない。

 むしろ、笑うという行為だけを切り出してループ再生しているような、感情の乗っていない笑い方だった。


(録音……?いや、さすがにこんな時間に笑い声だけ流さないよな)


 テレビにツッコミでも入れているのなら、言葉が混ざるだろう。

 「マジかよ」とか、「いやそれはない」とか。

 でも、隣から聞こえてくるのは、笑い声だけだった。


 「ははっ……ははっ……ははっ……」


 リズムが、一定だ。

 息継ぎも、感情の揺れも、ほとんどない。


(なんだこれ……)


 和也は、パソコンの音量をゼロにして、完全に消音にした。

 部屋の中は静かになる。

 時計の秒針の音さえ聞こえそうなほどの静けさだ。


 それでも、笑い声は続いていた。

 壁一枚挟んだ向こう側で、小さく、しかしはっきりと。


 「ははっ……ははっ……ははっ……」


 和也は、ベッドからそっと降り、スリッパを履いた。

 ローテーブルの横をすり抜け、壁際まで歩く。

 右側の壁――隣の部屋との境界線に、ゆっくりと近づく。


(これ、注意したほうがいいのかな……いや、初対面の挨拶が“笑い声うるさいです”はさすがにハードモードすぎるだろ……)


 困惑しながらも、耳は壁に近づいていく。

 距離が縮まるにつれ、笑い声はすこしだけ輪郭を増した。


 笑っているのは、おそらく男だ。

 年齢は分からない。

 若者にも、中年にも聞こえる。

 高くもなく、低くもない。


 特徴がなさすぎる。


(……でも、ここ、男の笑い声が似合う部屋でもないんだよな)


 引っ越してきた日に、アパートの掲示板で、全戸の名前をぼんやり眺めたことがある。

 和也の右隣の部屋は、紙が少し剥がれていて、表面にボールペンの跡が残っていた。


 「 〇〇 」


 名前の部分だけ、黒く塗りつぶされているように見えた。


(いや、あれはたぶん、前の住人の名前消しただけだ。そういうの、管理の雑なアパートあるし)


 自分の中で説明をつける。

 それで納得しかける。

 でも、笑い声はその説明を無視するように、一定のリズムを刻み続けた。


 「ははっ……ははっ……ははっ……」


 やがて、それは唐突に止まった。


 スイッチを切ったみたいに。

 途中で息継ぎをして切れたのではなく、「ここまで」というところでぴたりと。


 和也は、自分の心臓の音だけが急に大きくなった気がした。


(……終わり?)


 耳を壁から離し、しばらくじっとしてみる。

 音はしない。

 上の階も、廊下も静かだ。


(……気にしすぎだな。隣もこっちのアニメの音とか聞こえてるだろうし、お互い様ってことで……)


 そう決めつけて、ベッドに戻る。

 ノートパソコンの再生ボタンにカーソルを合わせる。

 クリックしようとした瞬間――


 「ははっ」


 短く、ひとつだけ笑い声がした。


 びくっと肩が跳ねる。

 今のは、さっきまでの連続した笑いとは違う。

 音が、急に近くなったような気がした。


(……やめろってマジで)


 心の中でだけ叫んで、パソコンを閉じる。

 消灯もせず、和也は布団に潜り込んだ。


 目を閉じると、余計に耳だけが敏感になる。

 外の車の音。

 冷蔵庫のモーター音。

 自分の呼吸の音。


 笑い声は――しない。


 そのまま、いつの間にか眠りに落ちていた。


 ◇ ◇ ◇


 翌日、午後の講義は三コマ連続で、眠気との戦いだった。


 和也は教室の後ろのほうの席で、ノートを開きながら、半分以上は落書きをしていた。

 教授の声が、遠くで鳴っているBGMのように流れていく。

 黒板に書かれる数式は、睡眠導入剤としか思えない。


(今日も夜更かしコースだな……)


 教室がどよめいた。

 前の席のやつが急に笑い出し、それにつられて数人が笑う。

 教授が何か冗談を言ったらしい。


 その笑い声の渦の中で、和也は、昨日の夜の笑い声を思い出した。


 「ははっ……ははっ……ははっ……」


 教室の笑い声は、バラバラで、ひとりひとり違っていて、それぞれの呼吸や感情が混ざっている。

 昨日のそれは、一本の線のように、整いすぎていた。


(録音、かなぁ……でも深夜二時に毎日同じもの流してるって、それはそれで怖くないか)


 講義が終わり、廊下に出ると、友人の一人に肩を叩かれた。


「おい和也、今日も死にかけてるな」


「うるさい。寝てないんだよ」


「昨日もアニメ?」


「アニメと……隣」


「隣?」


 和也は、言ってから失敗したと思った。

 妙な話を、軽く口に出してしまった。


「いや、なんでもない。隣がちょっとうるさいってだけ」


「うるさい隣人か。お前んとこ壁薄そうだもんな」


「薄いよ。半額のハムくらい薄い」


「例えが生活苦」


 友人は笑いながら、自販機の前に小銭をジャラリと落とした。

 和也は、隣の笑い声のことを話そうか迷ったが、やめた。


 “毎晩二時に、同じリズムで笑ってる”なんて話をしても、笑い話か、オカルト話のネタにされるだけだろう。


(まずは様子見だな……管理会社とかに言うのも、なんか違う気がするし)


 そう自分に言い聞かせ、和也はいつも通りの帰り道を歩いた。


 ◇ ◇ ◇


 アパートの外観は、明るい時間帯に見ると、ただの「古い建物」だ。

 外廊下には、洗濯物がいくつか干されている。

 和也の部屋のドアの前にも、安物のスニーカーが一足置いてあるだけだ。


 階段を上がる途中、誰かとすれ違った。


 グレーのスーツ。

 白いシャツ。

 黒いネクタイ。


 このアパートにしては、少しきちんとした格好だった。

 営業マンか、学校関係者か、あるいはただの通りすがりか。


 顔は、驚くほど印象に残らない。

 見たらすぐに忘れそうなタイプの、「教科書に載っているサラリーマン」のような薄い顔立ち。


(こんな時間にスーツって、どこ帰りだ……)


 和也は、軽く会釈してすれ違った。

 相手も、ごくわずかに頭を下げただけで、階段を降りていった。


 その背中が、アパートの外に消えるまで、なぜか目が離せなかった。


 部屋の前まで来ると、隣のドアの前に、何も置かれていないのが目に入った。

 表札も、名前もない。

 郵便受けも、ガムテープで半分ほど塞がれている。


(……ほんとに、住んでるんだよな、誰か)


 鍵を開け、自分の部屋に入る。

 カーテンを閉め、部屋の灯りをつける。

 ローテーブルの上のカップ麺とからあげの袋が、朝のままの姿でそこにある。


「ただいま」


 誰にともなくそう言い、リュックを床に置く。

 部屋の空気は、朝よりわずかに冷えていた。


(今日は……どうかな)


 和也は、壁の時計を見た。

 まだ二十一時過ぎ。

 笑い声が聞こえてきたのは、二時を回ってからだった。


(意識すればするほど、出るものも出なくなるんだよな、こういうのって)


 そう思いながらも、頭のどこかで、二時という数字だけがじわじわと大きくなっていった。


 ◇ ◇ ◇


 その夜も、深夜アニメを一本見終わった頃、時計の針は「2:01」を指していた。


 和也は、パソコンの画面を閉じた。

 わざと、何も再生しない状態にする。

 部屋の電気だけがついた六畳が、やけに広く感じられた。


(聞こえなきゃ、それでいい。聞こえたら……うん、そのとき考えよう)


 そう自分に言い聞かせ、ベッドの端に腰を下ろす。

 耳は、自然に右側の壁のほうを向いていた。


 「……」


 秒針の音は聞こえない。

 冷蔵庫が、ぶうん、と短く唸って、すぐに黙る。


 2:03。


 その瞬間――


 「ははっ……」


 笑い声がした。


 昨日と、まったく同じ高さ、同じ大きさ。

 同じ場所。

 右側の壁の向こうから。


 「ははっ……ははっ……ははっ……」


 笑い声は、昨日と同じリズムで続いた。


 和也は、ベッドから立ち上がる。

 床に寝かせてあったスリッパを、とっさに素足のまま踏んづける。


(……時間まで揃えてくるの、やめてくれないかな)


 心の中でだけ毒を吐きながら、壁の近くまで歩く。

 昨日よりも、一歩ぶんだけ距離を詰める。


 耳を壁に押し当てると、笑い声の細部が少しだけ聞こえるようになった。


 やはり、男の声だ。

 若くもなく、老いてもいない。

 教科書に載せる「笑い声」というものがあって、それを何度も再生しているような、均質な笑い。


 楽しさも、嬉しさも、馬鹿馬鹿しさも、そこにはなかった。


 ただ、「笑う」という行為そのものだけがあった。


 「ははっ……ははっ……ははっ……」


 和也は、無意識のうちに、自分の口元を押さえていた。

 頬が少し引きつっているのを、自分で感じる。


(これ、いつまで続くんだろ……)


 しばらく耳を当てていたが、終わる気配はなかった。

 笑い声は、機械のようにリズムを刻み続ける。


(……試してみるか)


 和也は、壁から耳を離し、軽く咳払いをした。

 そして、拳を握り、コンコンと、壁を二回だけ叩いた。


 その瞬間――笑い声が、ぴたりと止まった。


 和也は、呼吸を止めてしまった。


(……気づいた?)


 隣人なら、壁を叩かれたことに気づくだろう。

 「うるさいですよ」の意味だと解釈するかもしれない。

 このあとドアをノックされるかもしれないし、「すみません」と謝られるかもしれない。


 それなら、それでいい。

 話をして、「夜中の笑い声ちょっと控えてもらえますか」と言えばいい。


 しかし、ドアも、足音も、しなかった。


 静寂だけが、増えた。


(……止めるなら、そのまま止めてくれ)


 そう願いながら、数秒――いや、体感では数十秒――待ったとき。


 壁の向こうから、コン…… と、何かが返ってきた。


 ノックなのか、物音なのか、判別できない。

 ただ、何かが、壁のこちら側の存在に反応したような音だけが、確かにした。


 和也は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


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