『見てたってよ』後編
玄関を閉めると、外の空気が切り離されるような音がした。
さっき窓ガラスに映った“誰かの姿勢”は、もう頭の端に押し込めたつもりだった。
「ただいまー」
「おかえりー。手洗いなさーい。うがいもしなさーい。ついでに風呂も入りなさーい」
台所から、母の声が三連コンボで飛んできた。
返事を挟む隙がない。
「はいはい。多い多い指示が多い」
みさきはカバンをソファに置き、洗面所に直行する。
鏡に映る自分は、想像以上に疲れた顔をしていた。
頬にうっすらクマ。目尻にうっすら諦め。
(ベンチの男の顔より、まず自分の顔なんとかしなきゃだな……)
ハンドソープの泡を流しながら、さっきの視線の感覚がじわりと蘇る。
完璧に静止していたベンチの男。
“見ている”と断言できないのに、どうしたって「見られている側」にしか思えなかったあの感じ。
(うーん……やっぱ変だったよな。座り方に人権なかったもんあれ)
タオルで手を拭きながら、頭を左右に振る。
忘れよう、と思えば思うほど、脳みそが「じゃあ今から復習ね?」とばかりに映像を繰り返し流してくる。
リビングに戻ると、テレビがついていた。
ローカル番組が、どこかのスーパーの特売情報を元気よく伝えている。
「おかえり。はい、味見係」
母が煮物の鍋から大根をひとつ、皿に移して差し出してきた。
みさきは「あざす」と言いながら、箸で熱々のそれをつまみ上げる。
「……うま。やっぱ実家メシつよいわ」
「そうでしょう。実家は“出汁で殴る”タイプだからね」
「物騒なキャッチコピーやめて?」
そんなやり取りをしながら、食卓の準備を手伝う。
父は今日も夜勤でいない。
ここ数年、みさきと母の二人暮らしの夜が続いている。
「そういえばさ」
ご飯をよそいながら、母が不意に切り出した。
嫌な予感がして、みさきは箸を持った手を止める。
「何その“前置きなく爆弾来ます”みたいな入り方」
「あんたが通る公園あるでしょ。中央第二公園だっけ?」
「……あるけど。なんでフルネームで言えんの?」
「回覧板で見たんだよ。あそこ、最近ね」
母は、わざとらしく一拍置いた。
「変な人いるってよ。」
……
その言葉は、テレビの音よりも、食器のぶつかる音よりも、はっきり耳に飛び込んできた。
「……は?」
間抜けな声が勝手に出た。
母はお茶を注ぎながら、軽い口調で続ける。
「なんかね、夕方になると、ずーっと同じベンチに座ってる人がいるんだって。ずっと、じーっとしてんだって。誰にも話しかけないし、動かないんだってさ。気持ち悪いねぇって近所の人が」
(いやそれ、さっき私が見たやつじゃん。
公式情報出てんの?あの不気味ベンチマン)
「……えっと。それってさ」
みさきは、平静を装いながら口を開く。
「見たこと、あるかも」
「マジ?ちょっと詳細教えてよ。髪型は?服は?芸能人で例えると誰?」
「急に犯人の似顔絵取るテンションやめて?」
笑いながらも、背中に冷たい汗がじわりと浮かぶ。
“変な人いるってよ”――噂はもう、みさきの知らないところで流通しているらしい。
「危ない人じゃないといいけどね。なんか、見てるだけらしいから」
「何を?」
「さぁ?公園らへんを」
「ざっくりしてるな情報」
母の語り口は完全に他人事だ。
怖がっている様子はない。
むしろ「町内ニュースひとつ増えたわ」くらいのテンション。
(こっちは当事者なんですけど……)
けれど、「怖い」と口に出したくはなかった。
さっき、自分で自分に「ただの人」と言い聞かせたばかりなのだ。
「ま、あんたもあんまり近く通らないようにしなよ。別に遠回りしてもいいでしょ」
「いやそこで“遠回りルート推奨”出す?社会人の足に対する理解が浅いよお母さん」
「命より安いよ足は」
「雑な名言やめて?」
二人で笑う。
笑いながらも、みさきの頭からは、あの不自然な“直角の視線”が離れなかった。
◇ ◇ ◇
食事を終え、自室に戻ると、スマホにはグループLINEの通知がいくつも入っていた。
高校時代の友人たちのチャットだ。
〈そういえばさ〉
〈○○町の公園で変な人いるって回覧きたんだけど〉
〈絶対みさきんちの近くじゃんw〉
みさきは思わずスマホをベッドに投げた。
「どのルートからも噂回ってくんのやめて?」
天井を見上げる。
電気の白い光が、さっきの公園のぬるい暗さを逆に思い出させた。
(……ほんとに変な人、なんだよね?)
スマホを拾い上げると、指が勝手に動いていた。
〈さっきその公園通った〉
〈なんか座ってたかも〉
と打ちかけて、やめる。
(これ打った瞬間に、“じゃあ写真撮ってきて!”って返ってくる未来が見える……)
既読はついているが、あえて何も返さず、通知だけオフにした。
(忘れよ。寝よ。明日は朝から伝票地獄だし)
パジャマに着替え、布団に潜り込む。
電気を消した瞬間、部屋が音を吸い込んだように静かになった。
――しん。
耳が、やけに敏感になる。
外の車の音。
隣家のテレビの笑い声。
床板がわずかにきしむ音。
その中に、砂利道を踏むような、シャリ……シャリ……という微かな音が混じった気がした。
(……やだやだやだ。今日はもう音拾わない脳にして)
耳を塞ごうとしたところで、スマホの画面が一瞬光った。
通知ではない。時間表示が、00:02を示しているだけだ。
「……もう日付変わってんじゃん。寝なきゃ」
目を閉じる。
まぶたの裏に、ベンチの男の輪郭が浮かぶ。
頭の中の男は、何度見ても動かない。
座ったまま、同じ角度で前を向き続けている。
(人、人、人。霊じゃない。人間。人間のほうがタチ悪い。うん)
自分で自分にそう言い聞かせているうちに、意識が少しずつ沈んでいった。
◇ ◇ ◇
そのころ、公園には、ひとりの中年男性がいた。
犬の散歩。
時間はいつもより少し遅くなってしまったが、この町で夜の公園を歩くことに抵抗はない。
街灯の下を、柴犬がカツカツと軽い足取りで歩く。
「ほら、もう一周したら帰るぞー」
男がリードを軽く引くと、犬は素直に方向を変え――そこで、ピタリと止まった。
毛が、逆立つ。
「ん?どうした、お前」
犬は、公園の奥のほうをじっと見つめている。
砂場の向こう、ブランコの横。
昼間も夕方も、そこにあるはずのベンチの場所。
街灯の光がそこだけ届きにくく、半分だけ影になっていた。
そこに――誰かが座っていた。
黒いジャケット。
足を揃え、背筋を伸ばしている。
顔は正面を向いている。
(あぁ、噂の……)
男は、その存在にすぐ気づいた。
町内会の回覧で知っている。「変な人いるってよ」の張本人。
危ない目に遭った人はいないらしい。
見ているだけ。
じっと座っているだけ。
だから通報もされず、ただ“気持ち悪い”というラベルを貼られたまま存在している。
(ほんとに、ずっと座ってんのか……?)
犬が、低く唸った。
尻尾が下がっている。
「こら。吠えんな。見ちゃいけません」
そう言いながら、男は好奇心に負けて、ベンチのほうに数歩近づいた。
ベンチとの距離が十メートルを切ったところで、足が止まる。
男は、動いていない。
しかし、その「動かなさ」が、どう考えても人間の自然な休憩姿勢ではなかった。
まるで、これからスケッチのモデルをする人間のような、無駄のない硬さ。
顔は、正面――のはずだ。
なのに、見ているうちに、
“視線がこちらに向いているように”変わっていく。
(……気のせい、だよな?)
男は自分にそう言い聞かせながら、もう少し近づいてみる。
五メートル。
四メートル。
犬のリードを握る手に、少し汗が滲む。
「こんばん――」
声をかけようとした瞬間、犬が急に吠えた。
ワンッ、と短く。
それだけなのに、心臓が跳ね上がった。
ベンチの男は、反応しない。
まばたきもしない。
胸も上下していないように見える。
(いや、してる。さすがにしてる。死体だったら俺今わりと事件ど真ん中だし)
そう思い直し、男はさりげなく視線をずらした。
そのとき、自分たちの後ろに、誰かが立っているのが視界の端に映った。
振り返ると、そこにスーツの男がいた。
グレーのスーツ。
白いシャツ。
黒いネクタイ。
夜目にも分かるくらい、輪郭の薄い顔。
(あれ……この人、さっきも……いや、いたか?)
記憶に引っかからない顔なのに、「前からいた気がする」という妙な既視感。
スーツの男は、公園の全体を見渡すように、微妙な角度で立っている。
ベンチも、犬の散歩の男も、その視界の中に入っているはずだ。
「あ、どうも……」
中年男性が軽く会釈すると、スーツの男も、ごくわずかに頭を下げた。
次に目を向けたときには、もうベンチのほうに視線を移している。
散歩の男は、急に心細くなった。
犬のリードを握り直し、「帰るか」とつぶやく。
帰り際、もう一度だけベンチを見た。
男は、座ったままだった。
さっきと、何ひとつ変わっていないように見える。
(……だから、動けよ、ちょっとは)
心の中でそんなツッコミをして、散歩の男は公園を出て行った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
みさきは、いつもより五分早く目が覚めた。
夢を見ていた気がするが、内容は覚えていない。
ただ、“見られていた気がする”という感覚だけが、体の内側に残っていた。
「よし。今日は国道ルートで行こう。公園ルート、おやすみ回」
顔を洗いながら、鏡に向かって宣言する。
昨夜、あれだけ噂を聞かされ、実際にあの男を見てしまったあとに、またあの公園を通る勇気はない。
朝食を食べながら、母にそれを告げると、意外にもあっさりした返事が返ってきた。
「別にどの道でもいいけどさ。あんた、昨日から妙に“見られてる”とか言いそうな顔してるよ」
「顔に出てんの?“視線に怯えてますフェイス”になってる?」
「なってるなってる。ほら、納豆混ぜて落ち着きなさい」
「新手のメンタルケア出たな」
そんな会話を交わしながらも、胸のざわつきは消えない。
通勤服に着替え、家を出る前に、靴ひもを結び直す。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。変な人いたらすぐ帰ってきなさい」
「ザックリすぎん?治安ギリギリの町みたいに言わないで?」
冗談を言い合って玄関を出る。
朝の空は高く、昨日よりはすこし明るく見えた。
国道ルートへ向かうために、いつもと逆方向に歩き出す。
交差点の信号待ちの列に並ぼうとして――ふと足が止まった。
信号の向こう、遠くに公園の入り口が見える。
その入り口のところに、誰かが立っていた。
グレーのスーツ。
白いシャツ。
黒いネクタイ。
輪郭の薄い、あの男だ。
(え、昨日の……?)
距離があるせいで、表情までは分からない。
ただ、体の向きが、公園ではなく道路のほう――みさきたちの生活圏に向いているように見えた。
信号が青に変わり、人の流れが動き出す。
視線を外したのは一秒にも満たなかったはずなのに、もう一度公園の入り口を見たとき、スーツの男の姿はどこにもなかった。
(……背景、移動しないでくれる?)
自分で自分にツッコミを入れながら、みさきは会社へ向かった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
中央第二公園には、またベンチの男が座っていた。
昼間は子どもの声がしていたはずの公園に、今は風の音と、遠くの車の走行音だけが流れている。
ブランコは止まったまま。
砂場には小さな足跡だけが残っている。
トイレの奥の個室のランプは、やはり赤い。
ベンチの男は、足を揃え、背筋を伸ばし、手を膝の上に置いている。
まるで昨日から、一度もその姿勢を変えていないかのように。
公園の入り口には、グレーのスーツの男が立っていた。
昨日散歩の男が見たのと、同じ位置。
彼は、ベンチの男と、公園の出入り口と、トイレのほうと――すべてを視界に収めるような絶妙な角度で立っている。
やがて、住宅街のほうから、足音が近づいてきた。
部活帰りと思しき高校生二人と、その後ろを歩く女性。
女性は犬の散歩のときとは別人だが、似たような時間帯にここを通る“いつもの住民”だ。
「あ、まだいるよ、ベンチの人」
「マジで?昨日もいたよな」
高校生たちがひそひそ話す。
女性は、なるべく見ないようにして視線を逸らす。
ベンチの男は、動かない。
誰にも話しかけない。
ただ、座っている。
高校生たちが通り過ぎ、女性も小走りで公園を抜けたあと――公園の中には、二人の男だけが残った。
ベンチの男と、入り口のスーツの男。
しばらくの静寂。
その沈黙を破ったのは、ベンチの男だった。
首が、ゆっくりと、動いた。
ギギギ……と音がしそうなくらい、ぎこちなく。
まず顎がわずかに上がり、次に顔全体が、入口の方向へ向かっていく。
まるで、“そこにいる誰か”を確かめるように。
スーツの男は、動かない。
ただ、視線だけが、ベンチの男ではなく、もっと先――公園の外の、住宅街のほうを向いていた。
そして、もう一度。
ベンチの男の首が、今度はゆっくりと、公園のど真ん中へ。
もし、そこに第三者が立っていたとしたら――
その視線は、まっすぐに、そいつの目を捉えただろう。
しかし、そこには誰もいない。
いるのは、暗がりと、遊具と、閉じたトイレの扉だけだ。
それでも、ベンチの男の顔は、確かに“誰か”を見ていた。
焦点の合っていないはずの目が、闇の奥の一点を、じっと、じっと見つめる。
スーツの男は、その様子を見届けると、ふっと視線を下ろした。
そして、何事もなかったかのように、公園の外へ歩き出す。
誰もいない方向に向かって。
残されたベンチの男は、しばらくのあいだ、顔を動かさなかった。
やがて、その視線が、ごくわずかにずれる。
――公園の、入口でも、出口でも、トイレでもない。
どこにも存在しないはずの、“誰か”のほうへ。




