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変なのいるってよ  作者: 9どう?亜依


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2/12

『見てたってよ』後編

玄関を閉めると、外の空気が切り離されるような音がした。

 さっき窓ガラスに映った“誰かの姿勢”は、もう頭の端に押し込めたつもりだった。


「ただいまー」


「おかえりー。手洗いなさーい。うがいもしなさーい。ついでに風呂も入りなさーい」


 台所から、母の声が三連コンボで飛んできた。

 返事を挟む隙がない。


「はいはい。多い多い指示が多い」


 みさきはカバンをソファに置き、洗面所に直行する。

 鏡に映る自分は、想像以上に疲れた顔をしていた。

 頬にうっすらクマ。目尻にうっすら諦め。


(ベンチの男の顔より、まず自分の顔なんとかしなきゃだな……)


 ハンドソープの泡を流しながら、さっきの視線の感覚がじわりと蘇る。

 完璧に静止していたベンチの男。

 “見ている”と断言できないのに、どうしたって「見られている側」にしか思えなかったあの感じ。


(うーん……やっぱ変だったよな。座り方に人権なかったもんあれ)


 タオルで手を拭きながら、頭を左右に振る。

 忘れよう、と思えば思うほど、脳みそが「じゃあ今から復習ね?」とばかりに映像を繰り返し流してくる。


 リビングに戻ると、テレビがついていた。

 ローカル番組が、どこかのスーパーの特売情報を元気よく伝えている。


「おかえり。はい、味見係」


 母が煮物の鍋から大根をひとつ、皿に移して差し出してきた。

 みさきは「あざす」と言いながら、箸で熱々のそれをつまみ上げる。


「……うま。やっぱ実家メシつよいわ」


「そうでしょう。実家は“出汁で殴る”タイプだからね」


「物騒なキャッチコピーやめて?」


 そんなやり取りをしながら、食卓の準備を手伝う。

 父は今日も夜勤でいない。

 ここ数年、みさきと母の二人暮らしの夜が続いている。


「そういえばさ」


 ご飯をよそいながら、母が不意に切り出した。

 嫌な予感がして、みさきは箸を持った手を止める。


「何その“前置きなく爆弾来ます”みたいな入り方」


「あんたが通る公園あるでしょ。中央第二公園だっけ?」


「……あるけど。なんでフルネームで言えんの?」


「回覧板で見たんだよ。あそこ、最近ね」


 母は、わざとらしく一拍置いた。


「変な人いるってよ。」


 ……

 その言葉は、テレビの音よりも、食器のぶつかる音よりも、はっきり耳に飛び込んできた。


「……は?」


 間抜けな声が勝手に出た。

 母はお茶を注ぎながら、軽い口調で続ける。


「なんかね、夕方になると、ずーっと同じベンチに座ってる人がいるんだって。ずっと、じーっとしてんだって。誰にも話しかけないし、動かないんだってさ。気持ち悪いねぇって近所の人が」


(いやそれ、さっき私が見たやつじゃん。

 公式情報出てんの?あの不気味ベンチマン)


「……えっと。それってさ」


 みさきは、平静を装いながら口を開く。


「見たこと、あるかも」


「マジ?ちょっと詳細教えてよ。髪型は?服は?芸能人で例えると誰?」


「急に犯人の似顔絵取るテンションやめて?」


 笑いながらも、背中に冷たい汗がじわりと浮かぶ。

 “変な人いるってよ”――噂はもう、みさきの知らないところで流通しているらしい。


「危ない人じゃないといいけどね。なんか、見てるだけらしいから」


「何を?」


「さぁ?公園らへんを」


「ざっくりしてるな情報」


 母の語り口は完全に他人事だ。

 怖がっている様子はない。

 むしろ「町内ニュースひとつ増えたわ」くらいのテンション。


(こっちは当事者なんですけど……)


 けれど、「怖い」と口に出したくはなかった。

 さっき、自分で自分に「ただの人」と言い聞かせたばかりなのだ。


「ま、あんたもあんまり近く通らないようにしなよ。別に遠回りしてもいいでしょ」


「いやそこで“遠回りルート推奨”出す?社会人の足に対する理解が浅いよお母さん」


「命より安いよ足は」


「雑な名言やめて?」


 二人で笑う。

 笑いながらも、みさきの頭からは、あの不自然な“直角の視線”が離れなかった。


 ◇ ◇ ◇


 食事を終え、自室に戻ると、スマホにはグループLINEの通知がいくつも入っていた。

 高校時代の友人たちのチャットだ。


〈そういえばさ〉

〈○○町の公園で変な人いるって回覧きたんだけど〉

〈絶対みさきんちの近くじゃんw〉


 みさきは思わずスマホをベッドに投げた。


「どのルートからも噂回ってくんのやめて?」


 天井を見上げる。

 電気の白い光が、さっきの公園のぬるい暗さを逆に思い出させた。


(……ほんとに変な人、なんだよね?)


 スマホを拾い上げると、指が勝手に動いていた。


〈さっきその公園通った〉

〈なんか座ってたかも〉


 と打ちかけて、やめる。


(これ打った瞬間に、“じゃあ写真撮ってきて!”って返ってくる未来が見える……)


 既読はついているが、あえて何も返さず、通知だけオフにした。


(忘れよ。寝よ。明日は朝から伝票地獄だし)


 パジャマに着替え、布団に潜り込む。

 電気を消した瞬間、部屋が音を吸い込んだように静かになった。


 ――しん。


 耳が、やけに敏感になる。

 外の車の音。

 隣家のテレビの笑い声。

 床板がわずかにきしむ音。


 その中に、砂利道を踏むような、シャリ……シャリ……という微かな音が混じった気がした。


(……やだやだやだ。今日はもう音拾わない脳にして)


 耳を塞ごうとしたところで、スマホの画面が一瞬光った。

 通知ではない。時間表示が、00:02を示しているだけだ。


「……もう日付変わってんじゃん。寝なきゃ」


 目を閉じる。

 まぶたの裏に、ベンチの男の輪郭が浮かぶ。


 頭の中の男は、何度見ても動かない。

 座ったまま、同じ角度で前を向き続けている。


(人、人、人。霊じゃない。人間。人間のほうがタチ悪い。うん)


 自分で自分にそう言い聞かせているうちに、意識が少しずつ沈んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 そのころ、公園には、ひとりの中年男性がいた。


 犬の散歩。

 時間はいつもより少し遅くなってしまったが、この町で夜の公園を歩くことに抵抗はない。

 街灯の下を、柴犬がカツカツと軽い足取りで歩く。


「ほら、もう一周したら帰るぞー」


 男がリードを軽く引くと、犬は素直に方向を変え――そこで、ピタリと止まった。


 毛が、逆立つ。


「ん?どうした、お前」


 犬は、公園の奥のほうをじっと見つめている。

 砂場の向こう、ブランコの横。

 昼間も夕方も、そこにあるはずのベンチの場所。


 街灯の光がそこだけ届きにくく、半分だけ影になっていた。

 そこに――誰かが座っていた。


 黒いジャケット。

 足を揃え、背筋を伸ばしている。

 顔は正面を向いている。


(あぁ、噂の……)


 男は、その存在にすぐ気づいた。

 町内会の回覧で知っている。「変な人いるってよ」の張本人。


 危ない目に遭った人はいないらしい。

 見ているだけ。

 じっと座っているだけ。

 だから通報もされず、ただ“気持ち悪い”というラベルを貼られたまま存在している。


(ほんとに、ずっと座ってんのか……?)


 犬が、低く唸った。

 尻尾が下がっている。


「こら。吠えんな。見ちゃいけません」


 そう言いながら、男は好奇心に負けて、ベンチのほうに数歩近づいた。

 ベンチとの距離が十メートルを切ったところで、足が止まる。


 男は、動いていない。

 しかし、その「動かなさ」が、どう考えても人間の自然な休憩姿勢ではなかった。


 まるで、これからスケッチのモデルをする人間のような、無駄のない硬さ。


 顔は、正面――のはずだ。

 なのに、見ているうちに、

 “視線がこちらに向いているように”変わっていく。


(……気のせい、だよな?)


 男は自分にそう言い聞かせながら、もう少し近づいてみる。

 五メートル。

 四メートル。

 犬のリードを握る手に、少し汗が滲む。


「こんばん――」


 声をかけようとした瞬間、犬が急に吠えた。


 ワンッ、と短く。

 それだけなのに、心臓が跳ね上がった。


 ベンチの男は、反応しない。

 まばたきもしない。

 胸も上下していないように見える。


(いや、してる。さすがにしてる。死体だったら俺今わりと事件ど真ん中だし)


 そう思い直し、男はさりげなく視線をずらした。

 そのとき、自分たちの後ろに、誰かが立っているのが視界の端に映った。


 振り返ると、そこにスーツの男がいた。


 グレーのスーツ。

 白いシャツ。

 黒いネクタイ。

 夜目にも分かるくらい、輪郭の薄い顔。


(あれ……この人、さっきも……いや、いたか?)


 記憶に引っかからない顔なのに、「前からいた気がする」という妙な既視感。

 スーツの男は、公園の全体を見渡すように、微妙な角度で立っている。

 ベンチも、犬の散歩の男も、その視界の中に入っているはずだ。


「あ、どうも……」


 中年男性が軽く会釈すると、スーツの男も、ごくわずかに頭を下げた。

 次に目を向けたときには、もうベンチのほうに視線を移している。


 散歩の男は、急に心細くなった。

 犬のリードを握り直し、「帰るか」とつぶやく。


 帰り際、もう一度だけベンチを見た。

 男は、座ったままだった。

 さっきと、何ひとつ変わっていないように見える。


(……だから、動けよ、ちょっとは)


 心の中でそんなツッコミをして、散歩の男は公園を出て行った。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 みさきは、いつもより五分早く目が覚めた。

 夢を見ていた気がするが、内容は覚えていない。

 ただ、“見られていた気がする”という感覚だけが、体の内側に残っていた。


「よし。今日は国道ルートで行こう。公園ルート、おやすみ回」


 顔を洗いながら、鏡に向かって宣言する。

 昨夜、あれだけ噂を聞かされ、実際にあの男を見てしまったあとに、またあの公園を通る勇気はない。


 朝食を食べながら、母にそれを告げると、意外にもあっさりした返事が返ってきた。


「別にどの道でもいいけどさ。あんた、昨日から妙に“見られてる”とか言いそうな顔してるよ」


「顔に出てんの?“視線に怯えてますフェイス”になってる?」


「なってるなってる。ほら、納豆混ぜて落ち着きなさい」


「新手のメンタルケア出たな」


 そんな会話を交わしながらも、胸のざわつきは消えない。

 通勤服に着替え、家を出る前に、靴ひもを結び直す。


「じゃ、行ってきます」


「行ってらっしゃい。変な人いたらすぐ帰ってきなさい」


「ザックリすぎん?治安ギリギリの町みたいに言わないで?」


 冗談を言い合って玄関を出る。

 朝の空は高く、昨日よりはすこし明るく見えた。


 国道ルートへ向かうために、いつもと逆方向に歩き出す。

 交差点の信号待ちの列に並ぼうとして――ふと足が止まった。


 信号の向こう、遠くに公園の入り口が見える。

 その入り口のところに、誰かが立っていた。


 グレーのスーツ。

 白いシャツ。

 黒いネクタイ。

 輪郭の薄い、あの男だ。


(え、昨日の……?)


 距離があるせいで、表情までは分からない。

 ただ、体の向きが、公園ではなく道路のほう――みさきたちの生活圏に向いているように見えた。


 信号が青に変わり、人の流れが動き出す。

 視線を外したのは一秒にも満たなかったはずなのに、もう一度公園の入り口を見たとき、スーツの男の姿はどこにもなかった。


(……背景、移動しないでくれる?)


 自分で自分にツッコミを入れながら、みさきは会社へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕方。

 中央第二公園には、またベンチの男が座っていた。


 昼間は子どもの声がしていたはずの公園に、今は風の音と、遠くの車の走行音だけが流れている。

 ブランコは止まったまま。

 砂場には小さな足跡だけが残っている。

 トイレの奥の個室のランプは、やはり赤い。


 ベンチの男は、足を揃え、背筋を伸ばし、手を膝の上に置いている。

 まるで昨日から、一度もその姿勢を変えていないかのように。


 公園の入り口には、グレーのスーツの男が立っていた。

 昨日散歩の男が見たのと、同じ位置。

 彼は、ベンチの男と、公園の出入り口と、トイレのほうと――すべてを視界に収めるような絶妙な角度で立っている。


 やがて、住宅街のほうから、足音が近づいてきた。

 部活帰りと思しき高校生二人と、その後ろを歩く女性。

 女性は犬の散歩のときとは別人だが、似たような時間帯にここを通る“いつもの住民”だ。


「あ、まだいるよ、ベンチの人」


「マジで?昨日もいたよな」


 高校生たちがひそひそ話す。

 女性は、なるべく見ないようにして視線を逸らす。


 ベンチの男は、動かない。

 誰にも話しかけない。

 ただ、座っている。


 高校生たちが通り過ぎ、女性も小走りで公園を抜けたあと――公園の中には、二人の男だけが残った。


 ベンチの男と、入り口のスーツの男。


 しばらくの静寂。


 その沈黙を破ったのは、ベンチの男だった。


 首が、ゆっくりと、動いた。


 ギギギ……と音がしそうなくらい、ぎこちなく。

 まず顎がわずかに上がり、次に顔全体が、入口の方向へ向かっていく。

 まるで、“そこにいる誰か”を確かめるように。


 スーツの男は、動かない。

 ただ、視線だけが、ベンチの男ではなく、もっと先――公園の外の、住宅街のほうを向いていた。


 そして、もう一度。

 ベンチの男の首が、今度はゆっくりと、公園のど真ん中へ。


 もし、そこに第三者が立っていたとしたら――

 その視線は、まっすぐに、そいつの目を捉えただろう。


 しかし、そこには誰もいない。

 いるのは、暗がりと、遊具と、閉じたトイレの扉だけだ。


 それでも、ベンチの男の顔は、確かに“誰か”を見ていた。


 焦点の合っていないはずの目が、闇の奥の一点を、じっと、じっと見つめる。


 スーツの男は、その様子を見届けると、ふっと視線を下ろした。

 そして、何事もなかったかのように、公園の外へ歩き出す。


 誰もいない方向に向かって。


 残されたベンチの男は、しばらくのあいだ、顔を動かさなかった。

 やがて、その視線が、ごくわずかにずれる。


 ――公園の、入口でも、出口でも、トイレでもない。


 どこにも存在しないはずの、“誰か”のほうへ。


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