『好きだってよ』前編
遥(はるか・29)は、休日以外ほとんど同じ動きで生きている。
朝7時に起き、8時の電車に乗り、会社に着くのは8時40分。
昼休みは一人でパンを食べ、仕事が終わればまっすぐ家に帰る。
飲み会にもほとんど参加しない。
人から「寂しくないの?」と言われたこともあるが、遥にはその方が楽だった。
その日も変わらず仕事を終え、マンションに帰りついた。
郵便受けを開けたとき、小さな紙片が落ちてきた。
細く折り畳まれた、名刺より少し大きい白い紙。
「……広告かな?」
拾い上げて広げる。
一行だけ書かれていた。
『あなたを見ると、胸がきゅっとなる。』
読み終わる前に、遥は苦笑した。
(誰宛てでもないよね。落書きみたいなものか。)
紙は質の良いメモ用紙で、文字は細いボールペン。
震えておらず、落ち着いた筆跡だった。
部屋に持ち帰るのも気持ち悪く、
遥はポスト横のゴミ箱に紙を捨てた。
それで終わったと思った。
――はずだった。
翌日の昼休み。
休憩スペースで同僚たちが話している声が聞こえた。
「昨日、遥ちゃんのこと褒めてた男性いたよ〜」
「好きだってよ、ってさ」
遥は思わず振り返った。
「誰が言ってたん?」
「さあ?営業の人かな?声かけづらかったから聞かなかったけど」
ふたりは何でもない話題のように笑っている。
遥は曖昧に笑って席へ戻った。
(……そんな人、おらんけど。)
そう思ったが、心の奥が少しざわついた。
夕方、パソコンの電源を落とそうとしたとき。
キーボードとモニターの隙間に、小さく折りたたまれた紙が挟まっていた。
昨日の紙と同じ折り方だ。
遥は息をのみながら紙を開いた。
『声が近くにあると、落ち着かなくなる。
もっと近くで聞きたい。』
昨日より文が長い。
文章の雰囲気が変わっている。
書き手は遥の声を知っているかのようだった。
(……気味悪。)
紙を捨てようと立ち上がったとき、
誰かの視線を感じて振り返る。
背の高い男性がフロアの奥でこちらを見ていた気がした。
だが、次の瞬間には目線を逸らし、別の席の人と話していた。
気のせいかもしれない。
見知らぬ誰かの視線は、職場では珍しいことじゃない。
そう自分に言い聞かせ、
紙をゴミ箱に捨てた。
その日の帰宅時。
マンションのエントランスに入った瞬間、また紙が落ちた。
今度は折られていない。
開いたまま床のタイルに張りついている。
「……うそやろ。」
拾い上げ、読む。
『今日は、少しだけ早く帰ってきたね。
歩き方、前より静かになってる。』
遥は手を震わせながら周囲を見渡した。
マンションの入り口付近は静まり返っている。
夕方の光が階段を鈍く照らすだけだ。
(帰宅時間、ばれてる?
歩き方……?)
背中をぞわりと冷たいものが走り抜けた。
誰かが遥の生活を“毎日見ている”ということになる。
恐怖を押し殺しながらエレベーターへ向かった。
ボタンを押した指先が汗ばんでいる。
遠くの廊下に、誰かが立っていた。
ほんの一瞬。
黒い服の、背の高い影。
気配はするのに、輪郭がぼやけて見えない。
目が合った。
――ような気がしたが、すぐに影は角を曲がり消えた。
(……誰?
何で追ってくるの……?)
エレベーターの扉が閉まるまで、遥はずっと廊下を見つめていた。
その視線の先に、もう誰もいなかった。




