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変なのいるってよ  作者: 9どう?亜依


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12/12

『好きだってよ』後編

翌朝、遥は少し早めに家を出た。

まだポストは開けない。

エントランスの前を通り過ぎるとき、視界の端で金属の箱がこちらを見ているような気がしたが、あえて無視した。


(今日は普通の一日で終わってくれ)


それだけを願いながら、いつもより一本早い電車に乗る。


午前中の業務は意外と忙しく、

メールの返信や資料づくりに追われているあいだは、昨夜の紙のことを忘れていられた。


昼前、トイレから戻ると、

自分のデスクの前に加奈が立っていた。


「あ、遥ちゃん。さっきさ」


「ん?」


「営業フロアの方でさ、また誰か言うてたよ。

 “あの子、真面目やし、よく頑張ってるし”って。

 “けっこう好きやねんけどな”って。

 ほら、またやで。好きだってよ〜」


冗談めかして肘で小突いてくる。


遥は笑おうとしたが、喉がうまく動かなかった。


「……誰なん?」


「だから、それがさ。

 こっち見たときにはもう別の話してたし、

 なんか聞きづらくて」


「ふーん……」


(“またやで”って。

 いつからそんなに、私の話聞いてるん……?)


加奈が去ったあと、遥は椅子に座って深呼吸した。

パソコンの電源を入れようとして、

キーボードの脇に何かが挟まっているのに気づく。


紙だった。


昨日と同じ厚み。同じ折り方。

小さく、細く、丁寧にたたまれている。


(……また?)


嫌な予感を押し殺し、広げる。


> 「昨日は、少し早く帰ったね。

 駅から家までの道、はじめて小走りしてた。

 靴の音、前より軽くなってた。」



椅子の背もたれに背中が吸いつく。


(小走りしたの、誰にも見られてないはずやろ……

 信号、ギリギリで渡りたくて……

 あれ、そんなに目立つ動きやった?)


文末の「。」の位置が妙に揃っている。几帳面だ。

遥は紙をくしゃりと握りつぶしそうになって――

途中でやめた。


(指紋とか……ついてるかもしれへんし……)


そう思った自分にゾッとする。

こんな紙切れを“証拠”として扱うことを、本気で考えている。


昼休み、遥はスマホで「ストーカー 相談」「警察 相談窓口」と検索した。

が、画面をスクロールする指は途中で止まる。


(まだ、そこまでじゃない。

 ただの悪質ないたずらかもしれない)


そう思い直し、ブラウザを閉じた。



午後の外回りから戻ると、フロアは少し静かになっていた。

会議に行っている人が多い時間帯だ。


デスクに荷物を置こうとして、遥は足をとめた。


自分のイスの背もたれに、また紙がひとつ、そっと乗っていた。

誰かがそこに座って、立ち上がる前に置いたような位置。


遥の心臓が低く鳴った。


今度は折られていない。

開いたまま、真ん中に文字が並んでいる。


> 「今日のジャケット、似合ってた。

 少しだけ肩が落ちてるのがかわいかった。

 雨、降りそうやったから、心配してた。」



着ている服のことまで書かれている。

今日が少し肌寒くて、いつもより厚手のジャケットを羽織ってきたこと。

朝、天気予報で“帰りは雨になるかも”と言っていたこと。

駅から会社までのあいだ、空を見上げたこと。


全部、この紙の向こう側の誰かが見ていた。


遥はたまらず紙をひっくり返した。

裏には何も書かれていない。

ただ、端の方に微かなインク滲みがある。

誰かがペンを止めた跡のように。


「……やめてよ」


誰にともなく、声が漏れた。


その瞬間、背後で椅子がかすかにきしむ音がした。

振り返る。


同じ列の、二つ隣の席。

いつからいたのか、背の高い男性社員がパソコンに向かっていた。

こちらを見ているわけではない。

ただ、モニターの明かりが顔を半分だけ照らしている。


目が合った気がして、遥は慌てて紙を鞄の中に押し込んだ。


夕方。

仕事を終え、フロアを出る前に、遥は自席を振り返った。

自分の椅子の背もたれは、さっきの紙が置かれていた形のまま、ほんの少し前に出ている。


誰かがそこに座っていたように。


何度も来ているはずの景色なのに、

そのときだけ、妙に“異物”に見えた。



会社を出ると、雨が降り始めていた。


傘を差しながら駅まで歩くあいだも、遥は何度も振り返った。

誰もいない。

ただ、遠くの電柱の下で、黒いジャケットの男が立っているように見えた。


信号が青に変わるタイミングで顔を上げると、

もういなかった。


(……見間違い)


改札を抜け、電車に揺られ、マンションの最寄り駅に着く。

エントランスに入る前、遥は意識的に深呼吸した。


(ポスト、今日は……見たくない)


そう思いながら通り過ぎようとして、

ふと足が止まる。


ポストの差し入口が、少しだけ開いていた。


誰かが中身を投函しきれず、そのままにしたような形。

金属の小さなフタが、微妙な角度で止まっている。


遥は喉を鳴らした。


逃げても、明日また同じことになる。

それなら今、確認してしまった方がいい。


指先でフタを押し上げる。

中に、封筒が一通だけ入っていた。


白い、無地の封筒。

宛名も差出人も書かれていない。


エレベーターに乗り込んでから、

遥は封筒を裏返した。

表も裏も、真っ白だった。


部屋のドアを閉め、チェーンと鍵をかける。

靴を脱ぎ、封筒をテーブルに置いて、

しばらく手を付けられなかった。


(開けたら、もう戻れない気がする)


そう思いながらも、

結局、好奇心と恐怖の混ざった感情が勝った。


封を切るとき、紙のこすれる音がやけに大きく響いた。


中から出てきたのは一枚の紙。

いつものメモ用紙より少し大きい、大判のものだ。


文字がびっしり書かれている。

一行目に目を落とした瞬間、視界が狭くなった。


> 「毎日、同じ時間に出て行ってくれるから助かってる。

 だいたい七時過ぎに起きて、八時ちょっと前に玄関を出るでしょう。」



心臓が跳ねた。


> 「靴は三足持ってるよね。

 黒いパンプスの日は少し足取りが軽い。

 ベージュのときは、たいてい天気が良い日。

 スニーカーの日は、前日に残業して帰りが遅かった日。」



体温が引き剥がされるような感覚がした。


> 「朝、エレベーターの中で髪を結び直す癖、知ってるよ。

 鏡を見ながら、口元だけ少し緩めるところ、かわいい。」



遥は無意識に口元に手を当てた。


(なんで……なんで知ってるん)


> 「駅までの信号、いつも二つ目で走るよね。

 昨日みたいに。

 雨の日だけ、少し肩がすぼんでる。

 後ろから見てると、折れそうで心配になる。」



紙を持つ指先が震え、文字がにじんだ。


「後ろから……」


声がかすれた。


> 「昼休みは、たいてい一人で座ってる。

 誰かと一緒にいるところ、まだ見たことない。

 だから安心して見ていられる。」



(見てる?)


遥は思わず立ち上がった。

部屋の中を見渡す。

カーテンは閉まっている。

ドアは閉まっている。

誰もいない。


この紙を書いた“誰か”だけが、

ずっと遥の生活を見続けている。


> 「声もたくさん聞いた。

 電話のときの声と、同僚と話すときの声、少し違う。

 笑うとき、たまに息だけで笑うよね。

 本当におもしろいときは、ちゃんと声が出る。」



> 「その声をもっと近くで聞きたい。

 息がかかるくらいの距離で。」



文字を追うほどに、喉の奥がひりついていく。


> 「あなたの生活は静かで、きれいで、整ってる。

 壊したくない。

 だから、遠くから見てるだけで我慢してる。」



> 「でも、誰かがあなたに触ったらどうしようって考えると、

 胸がぎゅうっと痛くなる。」



> 「好きって、そういうことなんでしょ?」



最後の行だけ、

他の文より少し太い字で書かれていた。


遥は紙を落とし、その場にしゃがみ込んだ。


好きって、そういうこと――。


これは愛の告白なんかじゃない。


自分の都合と感情だけで、勝手に誰かの生活を覗き込み、

“壊したくないから見ているだけ”と言いながら、

紙切れという形で確実に踏み込んできている。


遥は震える手で紙を拾い上げた。

裏返した瞬間、心臓がひとつ跳ねる。


裏にも、一行だけ書かれていた。


「みんな言ってるよ。

 あなたのこと、好きだってよ。」


句点のあと、

小さく横に線が引かれている。

名前を書きかけて、やめたような痕。


突然、ドアの向こう側で気配がした。


チェーンの金具が、かすかに揺れる音。


“カチ……”と鳴って、

止まった。


遥は息をひそめた。

心臓の鼓動だけが耳の内側でうるさいほど響く。


玄関の方へ、そろりそろりと近づく。

ドアスコープを覗こうとして、手が止まった。


見たくない。

でも、見ずにはいられない。


覚悟を決めて覗き込む。


廊下の光が丸く切り取られ、その中央――

ドアのすぐ前に、誰かが立っていた。


顔は見えない。

スコープの角度的に、胸から下しか映らない。


暗いスラックス。

よくアイロンの効いたスーツ。

革靴の先が、遥の部屋の方を向いている。


動かない。

ノックもしない。

ただそこに、“いる”。


遥はスコープからそっと目を離した。

チェーンが、また“カチ……”と小さく鳴る。


その音とほぼ同時に、

廊下に足音が遠ざかっていった。


しばらく動けないまま、

やっとのことでドアから離れると、

テーブルの上の封筒が目に入った。


封筒の裏側。

さっきは気づかなかった角の部分に、

細い字で何かが書いてある。


遥は震える指で封筒を持ち上げた。


「好きだってよ。」


ただ、それだけ。


誰の名前もない。

送り主のサインもない。


けれど、“会社で聞いた言葉”と同じだった。


加奈の明るい声が脳裏で蘇る。


──「誰か言ってたよ。遥ちゃんのこと。好きだってよ〜」


あれは、

噂なんかじゃなかった。


本人が、自分で言っていただけだ。


「……やめて……」


遥は封筒を握りしめ、

小さく声を漏らした。


外からは何の音もしない。

ただ、廊下のどこかで、

誰かが立ち止まっているような気配だけが

薄く、長く、じわじわと残っていた。

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