『好きだってよ』後編
翌朝、遥は少し早めに家を出た。
まだポストは開けない。
エントランスの前を通り過ぎるとき、視界の端で金属の箱がこちらを見ているような気がしたが、あえて無視した。
(今日は普通の一日で終わってくれ)
それだけを願いながら、いつもより一本早い電車に乗る。
午前中の業務は意外と忙しく、
メールの返信や資料づくりに追われているあいだは、昨夜の紙のことを忘れていられた。
昼前、トイレから戻ると、
自分のデスクの前に加奈が立っていた。
「あ、遥ちゃん。さっきさ」
「ん?」
「営業フロアの方でさ、また誰か言うてたよ。
“あの子、真面目やし、よく頑張ってるし”って。
“けっこう好きやねんけどな”って。
ほら、またやで。好きだってよ〜」
冗談めかして肘で小突いてくる。
遥は笑おうとしたが、喉がうまく動かなかった。
「……誰なん?」
「だから、それがさ。
こっち見たときにはもう別の話してたし、
なんか聞きづらくて」
「ふーん……」
(“またやで”って。
いつからそんなに、私の話聞いてるん……?)
加奈が去ったあと、遥は椅子に座って深呼吸した。
パソコンの電源を入れようとして、
キーボードの脇に何かが挟まっているのに気づく。
紙だった。
昨日と同じ厚み。同じ折り方。
小さく、細く、丁寧にたたまれている。
(……また?)
嫌な予感を押し殺し、広げる。
> 「昨日は、少し早く帰ったね。
駅から家までの道、はじめて小走りしてた。
靴の音、前より軽くなってた。」
椅子の背もたれに背中が吸いつく。
(小走りしたの、誰にも見られてないはずやろ……
信号、ギリギリで渡りたくて……
あれ、そんなに目立つ動きやった?)
文末の「。」の位置が妙に揃っている。几帳面だ。
遥は紙をくしゃりと握りつぶしそうになって――
途中でやめた。
(指紋とか……ついてるかもしれへんし……)
そう思った自分にゾッとする。
こんな紙切れを“証拠”として扱うことを、本気で考えている。
昼休み、遥はスマホで「ストーカー 相談」「警察 相談窓口」と検索した。
が、画面をスクロールする指は途中で止まる。
(まだ、そこまでじゃない。
ただの悪質ないたずらかもしれない)
そう思い直し、ブラウザを閉じた。
午後の外回りから戻ると、フロアは少し静かになっていた。
会議に行っている人が多い時間帯だ。
デスクに荷物を置こうとして、遥は足をとめた。
自分のイスの背もたれに、また紙がひとつ、そっと乗っていた。
誰かがそこに座って、立ち上がる前に置いたような位置。
遥の心臓が低く鳴った。
今度は折られていない。
開いたまま、真ん中に文字が並んでいる。
> 「今日のジャケット、似合ってた。
少しだけ肩が落ちてるのがかわいかった。
雨、降りそうやったから、心配してた。」
着ている服のことまで書かれている。
今日が少し肌寒くて、いつもより厚手のジャケットを羽織ってきたこと。
朝、天気予報で“帰りは雨になるかも”と言っていたこと。
駅から会社までのあいだ、空を見上げたこと。
全部、この紙の向こう側の誰かが見ていた。
遥はたまらず紙をひっくり返した。
裏には何も書かれていない。
ただ、端の方に微かなインク滲みがある。
誰かがペンを止めた跡のように。
「……やめてよ」
誰にともなく、声が漏れた。
その瞬間、背後で椅子がかすかにきしむ音がした。
振り返る。
同じ列の、二つ隣の席。
いつからいたのか、背の高い男性社員がパソコンに向かっていた。
こちらを見ているわけではない。
ただ、モニターの明かりが顔を半分だけ照らしている。
目が合った気がして、遥は慌てて紙を鞄の中に押し込んだ。
夕方。
仕事を終え、フロアを出る前に、遥は自席を振り返った。
自分の椅子の背もたれは、さっきの紙が置かれていた形のまま、ほんの少し前に出ている。
誰かがそこに座っていたように。
何度も来ているはずの景色なのに、
そのときだけ、妙に“異物”に見えた。
会社を出ると、雨が降り始めていた。
傘を差しながら駅まで歩くあいだも、遥は何度も振り返った。
誰もいない。
ただ、遠くの電柱の下で、黒いジャケットの男が立っているように見えた。
信号が青に変わるタイミングで顔を上げると、
もういなかった。
(……見間違い)
改札を抜け、電車に揺られ、マンションの最寄り駅に着く。
エントランスに入る前、遥は意識的に深呼吸した。
(ポスト、今日は……見たくない)
そう思いながら通り過ぎようとして、
ふと足が止まる。
ポストの差し入口が、少しだけ開いていた。
誰かが中身を投函しきれず、そのままにしたような形。
金属の小さなフタが、微妙な角度で止まっている。
遥は喉を鳴らした。
逃げても、明日また同じことになる。
それなら今、確認してしまった方がいい。
指先でフタを押し上げる。
中に、封筒が一通だけ入っていた。
白い、無地の封筒。
宛名も差出人も書かれていない。
エレベーターに乗り込んでから、
遥は封筒を裏返した。
表も裏も、真っ白だった。
部屋のドアを閉め、チェーンと鍵をかける。
靴を脱ぎ、封筒をテーブルに置いて、
しばらく手を付けられなかった。
(開けたら、もう戻れない気がする)
そう思いながらも、
結局、好奇心と恐怖の混ざった感情が勝った。
封を切るとき、紙のこすれる音がやけに大きく響いた。
中から出てきたのは一枚の紙。
いつものメモ用紙より少し大きい、大判のものだ。
文字がびっしり書かれている。
一行目に目を落とした瞬間、視界が狭くなった。
> 「毎日、同じ時間に出て行ってくれるから助かってる。
だいたい七時過ぎに起きて、八時ちょっと前に玄関を出るでしょう。」
心臓が跳ねた。
> 「靴は三足持ってるよね。
黒いパンプスの日は少し足取りが軽い。
ベージュのときは、たいてい天気が良い日。
スニーカーの日は、前日に残業して帰りが遅かった日。」
体温が引き剥がされるような感覚がした。
> 「朝、エレベーターの中で髪を結び直す癖、知ってるよ。
鏡を見ながら、口元だけ少し緩めるところ、かわいい。」
遥は無意識に口元に手を当てた。
(なんで……なんで知ってるん)
> 「駅までの信号、いつも二つ目で走るよね。
昨日みたいに。
雨の日だけ、少し肩がすぼんでる。
後ろから見てると、折れそうで心配になる。」
紙を持つ指先が震え、文字がにじんだ。
「後ろから……」
声がかすれた。
> 「昼休みは、たいてい一人で座ってる。
誰かと一緒にいるところ、まだ見たことない。
だから安心して見ていられる。」
(見てる?)
遥は思わず立ち上がった。
部屋の中を見渡す。
カーテンは閉まっている。
ドアは閉まっている。
誰もいない。
この紙を書いた“誰か”だけが、
ずっと遥の生活を見続けている。
> 「声もたくさん聞いた。
電話のときの声と、同僚と話すときの声、少し違う。
笑うとき、たまに息だけで笑うよね。
本当におもしろいときは、ちゃんと声が出る。」
> 「その声をもっと近くで聞きたい。
息がかかるくらいの距離で。」
文字を追うほどに、喉の奥がひりついていく。
> 「あなたの生活は静かで、きれいで、整ってる。
壊したくない。
だから、遠くから見てるだけで我慢してる。」
> 「でも、誰かがあなたに触ったらどうしようって考えると、
胸がぎゅうっと痛くなる。」
> 「好きって、そういうことなんでしょ?」
最後の行だけ、
他の文より少し太い字で書かれていた。
遥は紙を落とし、その場にしゃがみ込んだ。
好きって、そういうこと――。
これは愛の告白なんかじゃない。
自分の都合と感情だけで、勝手に誰かの生活を覗き込み、
“壊したくないから見ているだけ”と言いながら、
紙切れという形で確実に踏み込んできている。
遥は震える手で紙を拾い上げた。
裏返した瞬間、心臓がひとつ跳ねる。
裏にも、一行だけ書かれていた。
「みんな言ってるよ。
あなたのこと、好きだってよ。」
句点のあと、
小さく横に線が引かれている。
名前を書きかけて、やめたような痕。
突然、ドアの向こう側で気配がした。
チェーンの金具が、かすかに揺れる音。
“カチ……”と鳴って、
止まった。
遥は息をひそめた。
心臓の鼓動だけが耳の内側でうるさいほど響く。
玄関の方へ、そろりそろりと近づく。
ドアスコープを覗こうとして、手が止まった。
見たくない。
でも、見ずにはいられない。
覚悟を決めて覗き込む。
廊下の光が丸く切り取られ、その中央――
ドアのすぐ前に、誰かが立っていた。
顔は見えない。
スコープの角度的に、胸から下しか映らない。
暗いスラックス。
よくアイロンの効いたスーツ。
革靴の先が、遥の部屋の方を向いている。
動かない。
ノックもしない。
ただそこに、“いる”。
遥はスコープからそっと目を離した。
チェーンが、また“カチ……”と小さく鳴る。
その音とほぼ同時に、
廊下に足音が遠ざかっていった。
しばらく動けないまま、
やっとのことでドアから離れると、
テーブルの上の封筒が目に入った。
封筒の裏側。
さっきは気づかなかった角の部分に、
細い字で何かが書いてある。
遥は震える指で封筒を持ち上げた。
「好きだってよ。」
ただ、それだけ。
誰の名前もない。
送り主のサインもない。
けれど、“会社で聞いた言葉”と同じだった。
加奈の明るい声が脳裏で蘇る。
──「誰か言ってたよ。遥ちゃんのこと。好きだってよ〜」
あれは、
噂なんかじゃなかった。
本人が、自分で言っていただけだ。
「……やめて……」
遥は封筒を握りしめ、
小さく声を漏らした。
外からは何の音もしない。
ただ、廊下のどこかで、
誰かが立ち止まっているような気配だけが
薄く、長く、じわじわと残っていた。




