第五話
コライユは貴族の淑女としては満点だ。
……だけど、勉学となると話は別。
「経済学? トゥフォン家は領主じゃないのに、こんなの学ぶ必要があるの?」
「それだけじゃないわ。地理に歴史、他にも色々。時間は限られているの。学べることは全てやっておかないと」
机に山のように積まれた本に、コライユは溜息を吐いた。
義父様の言いつけ通り、私達は翌日から入試対策のため、勉学に励むことになった。……正確には、コライユが合格するための勉学、だが。
しかし当の本人は、目の前の書物の山から目を逸らしやる気を失っている。昨晩、義父様の前で見せた勢いはどこに行ってしまったのだろう。喉元まで出かかった言葉はゆっくり飲み込む。
この六年間ですっかり義父様好みに育ったコライユだけど、私の前では少しだけワガママだ。変わったようでいて変わらない妹に、私は安堵と共に苦笑いを浮かべる。
「……お姉様、これがブルーロワ学園の入試試験に本当に必要なのですか?」
「はっきりとは分からないけど、試験内容は厳しいと聞いたわ。私、あなたを絶対合格させなきゃならないの」
これらの勉強が本当に必要なのか、私にも分からない。
けれど、宰相様が関わっている、という話がどうにも引っかかる。あの方は義父様の言う通り、徹底した実力主義者だ。
もしかしたら、ということも十分考えられる。
「でも、お姉様。ブルーロワ学園よ? 貴族のために創られた、貴族だけの学園。そんな場所に、庶民の知識など……」
「……」
コライユとの距離を感じるのはこういう時だ。根本は変わらないけど、物の見方や価値観に大きなズレがある。
彼女は優しい。優しいけれど、それは貴族の世界の中だけの話。平民を見下す、とまでは言わないけれど、違う世界の人間として見ている。
「……油断は禁物よ。調べてみたら、過去の試験制度で、ブルーロワ学園の門をくぐったのは貴族の子供でも一握りだったの。くぐれなかった者の中には伯爵家も居たそうよ」
「そんな……」
「爵位は関係ない、とまでは言わないけど。学べることは全てやっておくべきだと思うの。大丈夫、コライユなら出来るわ。私の自慢の妹だもの」
私が諭すように言うと、コライユはようやく笑顔を浮かべて頷いた。
入学試験まで一年近くある。
今日は初日ということで勉強は昼前で終了にした。主にコライユの学力レベルを見るだけで終わったのだが、その結果は少々不安の残るものだった。
「それはそうでしょうよ。エカラット様の知識量に勝てる令嬢がこの国に居ます?」
すっかり二人だけの場所となった裏庭を歩きながら、エベンが呆れたように言った。
この六年でめっきり男性らしくなった彼の隣に並ぶと、私はその顔を見上げなければならない。
……私、そこまで身長小さくないはずなんだけど。縦に伸びすぎよ。
短く切り揃えた金髪の下は、青年らしい骨ばったラインが見える。
この前十八歳になった彼は、私と三歳しか違わないのに随分と大人びて見えた。
「元々エカラット様は頭が良かったですからね。九歳で独り立ちを決意して、五年後には実現寸前まで持ってきたんですから」
「まあ、それもブルーロワ学園入学のせいでおじゃんになったんだけどね」
「家からは離れられるし、エカラット様的には良いんじゃないでしょうか」
「……正直、その点は嬉しいわ。屋敷の中だと義父様の目を気にしなければならないし」
「でも、三年間かぁ……エカラット様、長期休暇中はなるべく帰ってきてくださいね」
「? どうしてよ」
「そりゃ、俺が寂しいからですよ。この六年間で使用人の中では古参になりましたけど、待遇は相変わらずなんで。エカラット様で息抜きしないとやってられません」
「……? ああ、言ってなかったわね」
話が噛み合わないなと思っていたら、そういうことか。
私がブルーロワ学園に通っている最中、彼はこの屋敷に置いて行かれると思っていたらしい。
「あの学園のいいところはね、使用人を連れて行けるってところよ。エベンは試験を受ける必要はないけど、一年後には学園で私付きの使用人になるから」
「……え、俺も一緒に行っていいんですか?」
「いいも何も、あなたは私だけの従者でしょう? 何で残して行くと思ったのよ」
「とっても嬉しいお言葉ですけど、この庭はどうするんですか?」
「維持だけなら他の使用人でもできるでしょ。でも、有効活用はできないから、三年間は庭弄りも中止ね。この一年で成果を出さなきゃ……ああもう、時間がない」
私たちの造園は、六年間で随分と立派なものになった。
サンルームは温室にリフォームして、年間を通して一定温度を保てるようにしてある。
ここで育てている『とある植物』は、私の自立を助けてくれる重要なものだ。
温室内のキッチンも整備したので、ここで簡単な料理なら作れる。実際に、収穫物を使った料理をしたことは何度もある。
……そのほとんどが、成長期のエベンの胃袋に消えていったけど。
畑も順調に育っている。
作物の育成だけでなく、育成による土の疲労度も観測中だ。連作障害は民にとって頭の痛い問題だから、どの作物が障害を起こしやすいかを観測し、同時に改善方法を模索中。
こちらの研究もかなり進んでいたから途中で放り出すのはもったいないけれど、まあ仕方ない。
元サンルーム、現温室の扉を開くと、外気温より少しだけ暖かい空気に包まれる。
今日は春先にしては寒い日になった。厚手のコートはまだ置いてあったはずだ、あれを着て行こう。
五年間で伸ばした髪の毛を手早くハーフアップにする。ざっくりまとめたこの黒髪はオシャレではない。『これからする事』の邪魔にならないように、キツめに結い上げる。
「それで、今日は街に降りるんですね」
「ええ。商会に行って、ヴェルドさんに伝えなきゃ」
六年で立派になったのは私たちの庭だけじゃない。
私とエベンの『お忍び』も、随分上手くなったと思う。