第三話
その日の夜の夕食は砂を噛んでいるみたいだった。
義父様がお母様に今日の仕事の話をして、お母様は笑顔で返す。コライユは、それを楽しそうに見ながら、時折会話に参加する。
私は一言も発することが出来なかった。同じテーブルを囲んでいるはずなのに、二人が遠い場所に居るような気がする。
義父様の手は二つ。繋いだ手は、右手にお母様、左手にコライユ。私に差し出す手はない。
私だけ、置いてきぼりだ。
いつから、私は一人残されてしまったのだろう。
途方に暮れる私に追い討ちをかけたのは、味がなかった夕食後。
お母様が、自室に私を呼び出した。見慣れた扉をノックすると、聞き慣れない厳しい声で入室を促された。
扉を開けて、お母様と目が合う。エベンと似ている青い瞳は、私を一瞥するとすぐに視線を逸らした。
お叱りを受けるだろうな、というのは部屋に漂う空気で分かっていた。けれど、お母様のその態度はいつもとは違うものだ。
私の身体が私の意思に反して強張っていく。はあ、と息を吐くお母様が、まるで知らない人のように思えた。
「……エカラット、旦那様に聞きましたよ。汚れたドレスで邸宅に入ったのですって? それも裏口から、コソコソと。まるで物盗りのように」
お母様からのお叱りは初めてじゃない。昔はよくコライユと一緒に悪さをして、並んで叱られてた。
今、私の隣には誰も居ない。
「……はい。申し訳ございません、お母様」
「謝るだけなら誰でも出来ます。淑女としての自覚はおあり? 今、あなたに求められていることは何か、分かるかしら?」
お母様の瞳には、落胆の色が浮かんでいた。そして僅かに侮蔑の感情も。美しいブルーの瞳が、私を睨め付ける。
物盗り、とお母様は言った。何か盗んだ覚えはないけれど、今のお母様の中では私は物盗りと同じような扱いなのだろう。どんなお叱りの言葉より、その事実が私を傷付ける。
「……造園は暫く止めます。勉学に励み、貴族の淑女としての自覚を学びます」
「暫く? いえ、あの庭もどきは今日限りでお止めなさい」
「そんな、お母様!」
私の叫びに、お母様は苛立ちを隠さず荒い仕草で首を横に振った。私とコライユと同じ、黒い髪がゆらりと揺れる。
「あなたのその態度が、旦那様を怒らせているのですよ。コライユを見習いなさい。あなたとは違い、あの子は日々立派な淑女として成長しているわ」
「ええ、コライユはとても立派です。私にはコライユのような自覚が足りなかったと、今まさに痛感しています。けれど、どうかお願いします。あの庭だけは……私から取り上げないでください」
あの庭がなくなったら、私の居場所は本当になくなってしまう。
私付きの使用人であるエベンだけど、所詮はただの使用人だ。本邸であるこの屋敷には入れない。今は使用人宅で夕食中だろう。
……叶わない望みだけれど、今、誰よりもエベンに隣に居て欲しかった。
あの場所は私が学ぶ場というだけではない。
私が貴族の上っ面を脱ぎ捨てて、ありのままの私でエベンと話が出来る場所なのだ。
「お願いします。どうか、どうか……」
「……その懇願も、淑女としてはしたないことだと知りなさい。はあ、いいでしょう。今回は許します。けれど、次はありませんよ」
「……はい、ありがとうございます」
はしたない、なんて。初めて言われた。願いを口にするのも、今の私には許されないのか。
零れ落ちそうになる涙を必死で堪える。お母様と私の間に、埋まりようがない深い溝があるのを感じた。
「部屋に戻りなさい。明日からは、コライユと同じように学ぶように」
「分かりました。……おやすみなさいませ、お母様」
返事は、なかった。
自室に戻り、女中が全員下がった時になって、私は漸く涙を流すことが出来た。
義父様の言葉や態度で私は傷付かない。この半年で、私とは根本的に合わない方だと諦めがついたから。
でも、コライユとお母様は違う。産まれてから今まで共に過ごしてきた、私の大切な家族だ。
お父様が亡くなった日の夜、お母様は静かに涙を流しながらも、私とコライユの背中を優しく撫でてくれた。コライユと私は、お互い抱きしめ合い、どうしようもない喪失感を埋め合った。
あの日から二年半。まだ二年半だ。
なのに、もう思い出せないくらいにあの日の夜は色褪せてしまった。
誰かが悪いわけではない。
お母様は再婚を成功させようと、義父様の顔色を伺っている。コライユもそうだ。新しい生活を手放さないよう、彼女なりに努力しているのだろう。
悪いのは私だ。この家に馴染む努力を怠った。お父様から譲り受けた信念だけは曲げないと必死に過ごしてきた。それが間違いだと認めたくなかったけど、この家ではそれが許されない。
私はこれから、どうやって生きていけば良いのだろう。
翌日。
泣き腫らした顔で庭に来た私に、エベンが驚きの表情を見せた。
「ど、どうしたんですかエカラット様!」
「あら、あなたは驚いてくれるのね。使用人も家族もスルーしてくれたから、てっきり鏡が嘘を吐いているかと思ったわ」
事のあらましを掻い摘んで説明する。
最初は主人の憔悴した様子に、困り果て垂れさがっていたエベンの眉が、徐々に吊り上がっていった。
「何ですかそれ。そんなの、あんまりじゃないですか」
「私が悪いの。この家に馴染む努力をしなかった私が……」
「エカラット様、それは違います。家族って慣れるものなんですか? 何で、九歳の女の子がそんな辛い想いをしなきゃならないんですか?」
「……貴族ってそんなものよ」
「俺の知ってる貴族はグロブルー様だけなので。あなたの義父様であるアルジャンドレ様は、最初の日の顔合わせ以来お会いしていない。……あなたの父上は、娘にそんな顔をさせる人じゃなかった」
エベンの青い瞳が、真っ直ぐ私を見据える。
「俺はトゥフォン家に仕えてるんじゃない。エカラット様に仕えている。俺を拾ってくれたグロブルー様の意思を継ぐ、あなたが唯一の主人だ」
「……義父様が聞いたら即クビよ、それ」
「知ったこっちゃないです。あなたを泣かせる輩は、侯爵だろうと王様だろうと許さない」
「……ありがと、エベン」
どうやって生きていけばいいのか。
途方に暮れていた私にとって、エベンの存在は今となっては唯一の拠り所だ。
その存在がありがたい。優しく背中をさする手のひらの暖かさが、私の心を溶かしてくれた。
「私は、私の信念を曲げなくていいのよね?」
「ええ。あなたはあなたらしく、あなただけの人生を歩んでいけばいい」
「そうね、そうだわ。……でも、もう少し賢く生きる方法を身に付けないとね」
この家で唯一与えられた私の庭、私の居場所を見る。
今はまだ何もない。何もないから、何でも作り出すことが出来る。
「造園に割く時間は少なくなるわ。エベン、あなたにこの庭を任せていいかしら?」
「分かりました。貴族様の好む庭はわかりませんが、畑作りなら俺にも知識はあります」
「頼んだわ。貴族好み、という点は私がこれから勉強するから。……庭だけじゃない。私がこの家を追い出されないよう、学べることを全て身に付ける」
幸い、勉強は嫌いじゃない。これからは、この家で私の信念を曲げないための勉強をしよう。
義父様に迎合する気はない。けれど、私が私らしく生きていくためには、九歳の小娘はあまりに非力だ。幸い、この国では十六歳で成人と認められ、労働権が与えられる。貴族の女性が働くのはかなり珍しいことだけど、前例が無いわけじゃない。
それまでに道を決める。学べることは全て学ぶ。十六歳で家を出られるのが一番だけど、そう上手くはいかないだろう。
けれど、いつかは自立する。
そのために出来ることを、今日から始めていこう。
「私、いつかこの家を出て行くわ。今すぐってわけにはいかないけど……この家は多分、私の帰るべき場所じゃない」
「どんな選択をしても、あなたは私の主人ですよ」
「……もしあなたに良い人が出来たら、好きに生きて良いのよ? そこまで束縛の強い女じゃないわよ、私」
「九歳の子供が何生意気な事言ってんですか。その予定はないのでご心配なく」
エベンが少し拗ねたような顔で言う。
その顔を見て、私は漸く心から笑うことが出来た。
一度作られた溝は年月を重ねるごとに深まる。
もう二度と、私は向こう岸に渡れなくなった。
私に与えられたトゥフォンの家名は、形だけとなった。義父様の望む貴族の在り方と、私の目指す貴族の在り方は、どうやったって交わらない。
それでも、諦めることはしなかった。表向きは淑女としての教育を受け、空いた時間は勉学に励んだ。一から始めた造園も、エベンのおかげで今では立派なものになっている。
私の作った庭には、一つだけ無駄なものがある。アイリスの花だ。
造園を許してもらえた代わりに、お母様が出した条件。コライユが、アイリスを育てて欲しいとせがんできたのだ。
「義父様が好きなお花なの。お姉様、是非育ててくださらない?」
アイリスの種を両手に差し出し、コライユは笑顔でそう言った。
「……ええ、いいわよ。可愛い妹の頼みを断れる姉が居るかしら? この国で一番の美しい花を咲かせてみせるわ。期待してて」
「ありがとう、お姉様!」
私の作り笑顔も、大分上手くなったと思う。
そうして六年の月日が過ぎた。
私とコライユは十五歳の誕生日を迎え、一度目の人生の岐路に立つ。