第十八話
妹、コライユ視点の話です。
私が異変に気付いたのは、翌朝の朝食の席だった。
「あら、お姉様は?」
いつもの席に座り、私は義父様とお母様が来るのを待っていた。
私の一日は、二人を笑顔で出迎え事から始まる。今日が一番幸せだ、という顔で笑えば、二人は私の向かいに座るお姉様の、貼り付けた笑顔を咎めない。けれど、いつもなら私と同じ時間に席についているお姉様の姿が見えず、私はキョロキョロと辺りを見回して、メイドに尋ねた。
「エカラット様は……まだ自室です」
「そうなの? 珍しいわね」
朝が早いお姉様なのに、今日は寝坊か。
その程度にしか考えていなかった。
「今日は仕事が立て込んでいるから、帰りは遅くなる。先に寝ててくれ」
「お夕食はいかがなさいます?」
「王宮で食べてくる。我が家の料理に比べればだいぶ質素だが……まあ、仕方ない」
私の横で、義父様が少し疲れた様子でそう言った。義父様の向かい側には、気怠げなお母様が座っている。
三人での朝食は初めてだ。けれど、二人は何もなかったかのように振舞っている。
おかしい。何かがあった。お姉様をその場に居ないかのように扱うのは今に始まった事ではないけれど、今日は本当にお姉様は居ない。まだ朝だというのに疲れた様子の二人に、姿を見せないお姉様。何かあったと勘繰るのが自然だ。
「あの……お姉様は?」
耐え切れず私が尋ねると、二人の間に一瞬、冷たい空気が流れた。
「……エカラットは体調を崩して、自室で休んでいる」
「そうでしたの。なら、後でお見舞いに行かなくては」
「いえ、駄目よコライユ」
フォークを持ったまま固まっているお母様が、冷たい声で言い放つ。私がびくりと身体を強張らせると、義父様は宥めるように口を開いた。
「エカラットの病気は感染するようだ。暫く部屋には近付かない方が良い」
「病気? 大丈夫なのですか?」
「心配いらない。後程……医師を呼ぶ」
ぎこちない笑みで、義父様はそう言った。
……この時点で、強烈な違和感はあった。
だけど私は、これ以上食卓を暗い空気にしたくなかった。だから、何でもない風を装い、いつもの聞き分けの良い私で「分かりました」と返すしかなかったのだ。
三日後。
私の違和感はもう無視できないほど、大きく膨れ上がっていた。
「エベンの姿も見えない……」
裏庭を見下ろせる、邸内唯一の場所。普段は物置に使われている小さな部屋で、私は一人焦っていた。
お姉様が体調を崩した事は過去に何度かある。そんな時、彼女の唯一の従者であるエベンは一人で裏庭の手入れをしていた。逆もまた然り。
常に誰かが居るはずの裏庭に、三日連続で誰の姿も見えない。今までこんな事、一度もなかった。
もう一度庭を見下ろす。隅には、もうすぐ開花のアイリスが風に揺れていた。あの花は四年ほど前に、お姉様に頼んで植えてもらった花だ。義父様が好きだから、ただそれだけの理由で育ててもらったのだが、お姉様は毎年、見事な花を咲かせてくれた。
だけど、今年のアイリスはどことなく元気がないように見える。嫌な予感が拭い去れず、私は堪らず裏庭へと向かった。
「……何、これ」
そこにあったのは、荒らされた畑。土は捲れ植物は踏み潰されていた。
お姉様とエベンが、この裏庭で何をしていたのか、はっきりとは知らない。だけど、邸内から見えた二人はいつもこの場所で笑顔を浮かべていた。
……私はそれをこっそり見て、勝手に仲間に入った気になっていた。
お姉様と私は、この家に来てから距離が出来てしまった。仲が悪いわけではない。ただ、私のやり方とお姉様の心が合わなかっただけ。
義父様は、お父様の意思を継ぐお姉様の在りようを良しとしなかった。私はそれを見て、義父様に見限られないよう努力した。
私が見限られないように、ではない。私達が見限られないように、だ。お母様とお姉様、二人のためにトゥフォン家に馴染もうと励んだ。まだ幼い私が出来るのはそのくらいで、当時はそれが最善手だと思っていた。
結果、私はトゥフォン家の人間として認められた。幼い頃からお姉様と比べ劣っていた私が、唯一勝ち得たもの。その驕りはお姉様を孤独にさせる原因となったけれど、気付いた頃にはすでに手遅れだった。
お姉様は頑なだ。お父様譲りの頭と頑固さを、この家で貫こうとした。私のした事は許されるものではないけど、今のお姉様の境遇は彼女自身にも原因がある。
だから、謝る事はしなかった。今更意味がないし……変わる事のないお姉様が羨ましかったのもある。
エベンとこの庭で笑顔を見せるようになって、安心していた。お姉様は居場所を見つけたんだと。私がこの場所に足を運ぶ事はなかったけど、あの二人がどれだけこの場所を大事にしていたかは、ずっと見ていたから分かる。
だから、荒れた庭を見て最初に浮かんだのは怒り。誰がこんな事をしたのだと考え、義父様の部屋に向かった。
「義父様、コライユです」
扉をノックする音はいつもより大きくなってしまった。それに気付いて、大きく息を吸う。平静を装うのは慣れた。義父様の前では特に気を付けなければならないから。
「入りなさい」
部屋の中から聞こえてきた声は、平坦なもの。私に向ける声ではない。だけど今はそれに構っている余裕もなく、扉を開けた。
「お聞きしたい事があります」
挨拶もそこそこに言い放つ。表情はいつもの笑顔を浮かべているつもりだけど、上手くいっているかどうかは分からない。
「……エカラットの事か」
しかし、義父様から出た言葉に、私はつい目を見開いてしまった。
まさかこの人から本題に入ってくれるとは思っていなかったのだ。いつものようにはぐらかされるか、何でもないと一刀両断されるかと思っていた。
「……そうです。お姉様の事です」
「何が聞きたい」
「全てです。ご病気、というは本当ですか?」
「……病気ではない。エカラットは、この家を出て行った」
――出て、行った?
「……な、何故……ですか」
「……」
「どうして……一体、何が」
告げられた真実は、私の頭を真っ白にした。
お姉様が、この家を出て行った。いつ? そんなの決まっている。三日前のあの朝、その前の夜だ。
何があったのだ。お姉様の身に一体何が。
……嫌な予感がする。背筋がぞわぞわする。目の前の義父様が。
この、男が。
お姉様に、何かしたのでは。
「何を……何が、起こったのですか!」
この六年間、終ぞ剥がれなかった私の仮面が外された。声を荒げ、義父様に怒りを向ける。
そんな私を、義父様は少し困った様子で見遣る。まるで聞き分けのない子供を見るように。その目が、私の怒りを増長させた。
「義父様!」
「落ち着きなさいコライユ。エカラットは自ら、この家を出て行くと決めたのだ」
「え……?」
怒りが削がれ、私の頭は再び真っ白に染まる。
お姉様が自分で?
確かに、彼女はこの家から浮いていた。だけど、突然出て行くなんて短絡的な事はしない。しないはずだ。
だってお姉様は、エベンとこの家で居場所を見つけて、冷遇はされていたけど何不自由ない環境でそれなりに幸せに暮らしていたはずだ。
だから、自ら出て行くなんて、そんな選択するはずもない。
「コライユ……エカラットと私が、あまりいい親子関係を築けていなかったのは理解しているね?」
小さな子供に言い聞かせるような、優しい声音。
義父様の中の私は、世間知らずのただの令嬢。だけど私はもう子供じゃない。認識のズレに、私は先程とは別の意味で、ぞわりとした悪寒を感じた。
「昨夜、エカラットから私に話があると言っていた。この家で暮らすのはもう耐えられないと、そう言ったのだよ。……私は止めたのだがね、どうにも聞き分けが悪く……そこで、軽い口論になった」
義父様から語られるお姉様は、私の知っているお姉様じゃない。
お姉様は頑固だけど、頭は良い。いきなりそんな事を言い出すなんて、これっぽっちも信じられなかった。
「エカラットは段々冷静さを失っていき……私が止める間もなく、この家を後にした」
「……」
どう考えても、有り得ない話だ。
仮にも貴族の令嬢が勢いに任せて出奔など、聞いたことがない。義父様が止めたというのも信ぴょう性に欠ける。この人が、お姉様に対してそのような積極的な態度を取るはずがない。
「信じられないかね?」
言葉を失い固まった私に、義父様が優しく問いかける。私はこくりと、小さく頷いた。
「なら、エカラットの部屋に行くといい。鍵は開けてある。……賢いお前なら、あの部屋を見て全てを察するだろう」
義父様の言葉を待たず、私は踵を返した。
お姉様の部屋に入ったの何年ぶりだろう。
だけど、これは本当にお姉様の部屋なのか?
カーテンで閉ざされた部屋は昼間なのに薄暗く、静寂に包まれている。部屋の形は私と同じだけど、あまりにも違いすぎて本当に同じ部屋なのかと疑ってしまった。
お姉様の部屋には、物が一つもなかった。最低限の家具は置いてあるけれど、それだけだ。この部屋は住人の色が薄すぎる。
少しだけ埃を被ったテーブルに、手を置く。その上には何もない。お姉様の形跡が、一つとして見つからなかった。
「どうして……」
「エカラット様の部屋は、六年間ほぼこのような状態でした」
突然後ろからかけられた声に、びくりと身体を揺らす。振り返ると、お姉様付きのメイドが感情を伺わせない顔で扉の前に立っていた。
「あなたは……」
「エカラット様のお世話をさせて頂いておりました。あの方は、この部屋に帰るのは寝る時くらいで、私の仕事はあまりありませんでした」
メイドは無表情のまま、しかし瞳の奥に暗い色を潜ませて言い募る。
「コライユ様、アルジャンドレ様から事情はお聞きになりましたか?」
「……ええ。到底信じられないけれど」
「真実です。エカラット様は、あなたのお姉様は……トゥフォン家に対する執着がなかったのですよ。だから、簡単に出て行かれた」
メイドの不遜な物言いに、私の頭に血が昇る。
「あなたがお姉様の何を知っているの!」
「六年間、お世話をさせて頂いておりました。エカラット様から粗雑な対応をされたことはありませんでしたが、それは私に対して無関心だったからです。……私は終ぞ、あの方に名前を呼んで頂けませんでした」
告げられた事実に、私は愕然とする。
この邸内は使用人の数が多い。名前を知らない人も沢山居るけど、部屋付きのメイドの名前くらいなら私でも知っている。たまに、雑談を交わすくらいは良好な関係を築けている。
お姉様は人見知りというわけではない。一度自分の懐に入れたら、そこまでするかというくらい甘やかす。
部屋付きのメイドは使用人の中で、最も近い存在だ。そんな人を、六年間も無関心のままだったなんて。
私の知っているお姉様と、私の知らないお姉様。
どちらが本当のお姉様なの?
「……不敬を承知で申し上げますと、あの方はこの家だけでなく、ご家族にも執着がなかったと思います」
メイドの言葉に、言い返す言葉が見つからない。力が抜けきった私は、視線だけで何故? と問い掛けた。
「いきなりの出奔とは言え、ご家族にお手紙を残すくらいは出来るでしょう。しかし、あの方は何一つ残して行かなかった」
「……そんな、そんなはずは」
「アルジャンドレ様はともかく、血の繋がった妹君と母君には何か残していくのが普通でしょう。……この空の部屋に、あなたのお姉様は何か一つでも残して行かれましたか?」
問われて、改めてお姉様の部屋を見渡す。
何もない。この部屋には、お姉様の痕跡どころか、家族の思い出の品も、私一人を置いて出て行く後ろめたさも、何一つ残されていない。
唐突に理解した。
お姉様は、私の事なんてどうでも良かったんだ、と。
瞬間、悲しみは怒りに変わった。
自由気ままに振る舞うお姉様の代わりに、私がどれだけ自分を殺してきたか。この六年間は何だったのだ。
どうして私を置いて出て行ってしまったのか。
どうして、どうして、どうして……!
「あなた、名前は?」
「は……?」
「名前よ。お姉様付きのメイドの名前は知らないの」
怒りを表に出さないよう、極めて冷静に振る舞う。この家に来てから身に付いた特技だ。
「は、はい。ガリアナ、と申します」
「そう、ガリアナ。今日から私の専属になりなさい」
「え……?」
「もう仕事は無いのでしょう? 仕事のないメイドは追い出されるわ。大丈夫、義父様には私から話しておくから」
「あ、ありがとうございます!」
深くお辞儀をするガリアナに、私は笑顔を浮かべる。
「とりあえず、使用人宅にお帰りなさい。あなたにはいくつか聞きたい事があるから……そうね、夕食前に私の部屋に来てくれるかしら?」
「はい、承知しました」
「私は義父様にお話があるから、また後でね」
もうこの部屋に用はない。
ガリアナの横をするりと通り抜けて、私は再び義父様の部屋に向かった。
「義父様、私が間違っていました」
扉を開けて開口一番、私は深く謝罪をする。
義父様はそれに満足したのか、はたまた安堵したのか。先程とは違い優しい視線を向けた。
「そうか。分かってくれたならそれで良い」
「お姉様はトゥフォン家に相応しくない。私、ようやく理解しました」
「……そうか。そうだな。あの子はトゥフォン家に相応しくなかった」
相応しくなかった。そうだ、その通りだ。
過去形なのだ。全て、もう終わってしまった事だ。
お姉様は私の事なんてどうでも良かった。だから何も残さず出て行った。
それが全てだ。
「……お姉様は成人後、トゥフォン家から籍を抜くのですか?」
「ああ。そのように手配してある」
「そうですか」
今、お姉様はどこにいるのか。無事なのか。
そんな事はどうでも良い。私には関係ない事だ。
……ただ、一つ。一つだけ、私はお姉様に言いたい事があった。
「義父様、お願いがあります」
私は、私の願いを叶える。




