第十五話
「……返事、来ませんね」
「そうね」
「ここに来てから一ヶ月ほど経ちましたっけ」
「そうね」
「……エカラット様、随分と書類仕事が板についたようで」
「おかげさまでね! 見てないで手伝いなさい!」
叔父のブロンシュ様に手紙を出してから……つまり、このシズン商会に私たちが駆け込んでから早一ヶ月。現状は良くも悪くも変化なしだ。
強いて言うなら、私とエベンに新しい仕事が与えられた。
私はヴェルドさんの書類処理の手伝い、エベンはラングレーさんの下で裏方仕事をしながら私の手伝いをしてくれる。最早仮眠室ではなく私の自室と化している部屋に、こうしてお茶を持ってきてくれるのはエベンの仕事だ。
ちなみに、エベンはラングレーさんの自宅でお世話になっている。このシズン商会からすぐ近くにある家だ。
例の気になる奥さんだが、直接会ったエベン曰く「ラングレーさんより頼もしい」とのことだ。ますます気になる。
……いや、ラングレーさんの奥さんも気になるけど、今は目の前の書類を片付けなければ。
ヴェルドさんはこれ幸いと、私に書類仕事を押し付けてきた。「今のうちに経営にも携わっておけ」とのことだが、これ良いように使われてるだけじゃない? と気付くのに三日もかかった。
そして現在。私の書類仕事も様になってきた。……けれど。
「この一ヶ月、書類を触りまくった私の手はカッサカサよ、カッサカサ! エベン、インティの種から絞ったオイル、まだ残ってるならすぐ出しなさい!」
「残念ながらもうありません」
「もう! ヴェルドさん、私はあくまで部外者だってこと分かってるのかしら!」
「それだけ信頼されているんですよ。はいお茶です。……インティと言えば、レトルドレ学園に土地貸してもらうって話、どうなったんですかね?」
「ああ、それね。ちょうどヴェルドさんのところに関連書類が上がってきてたわ。ほら」
インティの育成と栽培は、ヴェルドさんが確保してくれたモーヴ領のレトルドレ学園で行うことに決まった。
表向きの名義人はヴェルドさんだが、いずれ色々と落ち着いたら名義は私に譲渡してくれるらしい。そういった内容の契約書にサインをしたのはつい先日のこと。
ヴェルドさんだから信頼していると、暗に「契約書は必要ない」と言えば、彼は渋い顔で「そういうところだぞ」と重々しい溜息を吐いた。
どういうことだろう?
「どれどれ……お、始まったんですね」
「ええ。まだ畑を作ってる段階だから、一応だけど。……直接私が行って指導したら手っ取り早いんだけど」
「無理ですね」
「無理よねぇ」
王都住まいの貴族がその土地から離れるのはなかなか難しい。年に一度、あるかないかというくらいだ。
それに、今の私は気軽に外を出歩ける状態ではない。
更に言えば、レトルドレ学園のあるモーヴ領はかなり遠く、ここから馬車で三日はかかる。ほいほいと足を向けられる場所ではないのだ。
魔法でモーヴ領まで飛んでいけたらいいのに。そんなくだらないことを考えながら、インティの書類を『処理済み』の箱に入れる。エベンの淹れてくれた紅茶を一口、働き詰めだった頭が緩み、ほっと息を吐いた。
「でも、いつかは行かないとね。領主と学園長にお礼を言いに行かなきゃ」
「……あれ、そういえば学園長って誰なんですかね? モーヴ領主のルー伯爵とは違う人ですよね」
「それがね……分からないの」
「分からない? そんな馬鹿な」
「というか、まだ決まってないみたい。学園、とは言ってるけど、その実平民の集まりよ。本格的な勉学や実技、授業はまだやってないの。今回のインティ栽培でようやく一つにまとまり始めたって感じ」
「……任せて大丈夫ですかね?」
「インティなんて放っておいても育つから、まあ大丈夫でしょう。今後他の植物を育てるってなったら話は別だけど」
そう、そこが問題だ。
今の私の中心事業はインティの栽培。種から絞り出したオイルと葉っぱに含まれている栄養素の研究だ。オイルは食用油と美容品に、葉っぱは連作障害の改善に使えると考えている。
栽培と実験には広大な土地が必要だ。レトルドレ学園の申し出は渡りに船だったけれど、やはり現場に行って実際に見てみないと分からないこともある。
インティはそこらへんに生えている雑草と同じくらい生命力が高いので、農業知識のない平民でも育てられる。私が実態のよく知れないレトルドレ学園に二つ返事で任せたのも、そういう理由があるからだ。
けれど、この事業が上手くいって、他の植物も研究をしたいとなったら話は別。もし育てたい植物が厳しい条件下でのみ育つものだったら、それなりの知識と準備が必要だ。
落ち着いたらなるべく早くレトルドレ学園に行こう。
……落ち着くまでどれくらいかかるのか、皆目見当もつかないけれど。
「焦っても仕方ないわ。今の私に出来るのは、ヴェルドさんの仕事の手伝いよ」
「それと、俺の淹れた紅茶とラングレーさんお手製のお菓子を食べて休むことです。迂闊に外に出られないからって根詰めすぎじゃないですか? エカラット様は昔から、夢中になると周りが見えなくなる」
「そうさせてもらうわ。あと、集中力が高いと言いなさい」
さり気なく主人を貶めるのは最早彼の性格だ。それを今更咎める気もなく、近くに置いてあった椅子を寄せてエベンに勧める。
彼は少し呆れた風な顔をしながら、(多分、主人が使用人にそんなことをするな、とでも言いたいのだろう)大人しく腰を下ろした。
と、同時に。部屋の扉がいきなり開けられた
「エカラット、すぐ来てくれ! 大至急!」
「……もし私が着替え中だったらどうするんですか、ヴェルドさん。いくら急いでいてもノックくらいはしてください!」
「小言は後で聞く! とにかくすぐ来い!」
「何なんです?」
いつになく慌てた様子のヴェルドさんに、首を傾げながら椅子から立ち上がる。
来いと言われたら行くしかない。たとえエベンの淹れてくれた紅茶が冷めてしまっても。後でもう一杯淹れてもらおう。
暢気な私に焦れたヴェルドさんが、銀の瞳を鋭くしながら言い放ったのは、意外過ぎるほど意外な人物の来訪だった。
「宰相様が来てるんだよ! しかも、お前に会いたいってわざわざお忍びで! ああもう、貴族ってのは来訪前の報せを入れることも出来ないのか!」




