第十話
夜中の報せは碌なものじゃない。
部屋の扉を叩く音で、私は目を覚ました。
「……十二時ね、夜中の」
変わらず、扉をトントン叩く音は続く。今日は少し早めにベッドに入った。この家に来てからというもの、すっかり寝付きが悪くなってしまったので、漸く先程うつらうつらしてきたところだ。あのまま眠りに付けば朝までぐっすりだっただろうに。
相手も夜中ということに配慮しているのか、その音は控えめだ。けど、そんな気遣いをするくらいなら起こさないでほしい。
寝惚けた頭で、一体何ことかと考える。夜中の報せは珍しいことだが、あり得ないことでもない。例えば誰かの訃報とか、そういう類のもの。
ふと、お父様が亡くなった日のことを思い出した。
「起きたわよ。何か用?」
「申し訳ございません、エカラット様。アルジャンドレ様がお呼びです」
「義父様が……?」
寝惚けていた思考が一気に冴えわたった。すぐ行くわ、と声を掛け、急いで身支度を整える。
季節は冬を越え、春が近付いているが、まだ夜は冷える。寝間着のままでは失礼だし、適当な服を掴んで上から少し厚手のストールを巻いた。
つい先日、ブルーロワ学園の試験が終わり、漸くコライユと自分の勉強から解放された私は、ここ数日ゆっくりと過ごしていた。
庭弄りも必要なくなったので、エベンと温室で二人きり、のんびりとお茶を飲んだり。
ヴェルドさんへの引継ぎは終わり、畑と薬草園の維持も他の使用人に依頼済みだ。シズン商会との繋がりがバレそうな物は既に隠してある。特に薬草園は商会との繋がりが濃い場所なので、残ったものは土くらいだ。苗や種はシズン商会に移して三年間維持し、私が戻ってきたら栽培を再開する、という手筈となった。温室に置いてあるお忍びセットはヴェルドさんが預かってくれる。
顔を合わせると嫌味ばかりの義父様も、ここ数日は試験結果が気になってそれどころではなかったみたいだ。お母様も同様で、試験結果の報せを今か今かと待ちわびて安どの外ばかり見ている。
コライユも気になってはいる様子だが、二人きりになれば笑顔を向けてくれる。この一年で私と接する時間が長かったおかげで、義父様の悪い影響は大分薄れてきたみたいだ。最近は、自分の意見をはっきりと口にすることも多くなった。
私はここ数年で、初めて穏やかな日々を送ったと思う。
だから気付かなかったのだ。
試験結果の報せは、昨日の間に各家へ届けられていたということに。
部屋に招かれたと言って、気安く挨拶を交わす仲ではない。そもそも、義父様の部屋に呼ばれたことなど、この家に来てから数える程度だ。
夜中、とは言っても遅寝の義父様が起きていても不思議な時間ではない。
しかし、義父様のお召物は夕食の時と一緒だった。いや、少し衣服が乱れている。まだ湯浴みもしていない様子だった。
「夕食後、これが届いた。我が家への配達が遅れたのはあちらの不手際らしいが、そんなことはどうでもいい」
あちら、とはブルーロワ学園のことだろう。義父様が私に見せた封蝋のマークは、学園のシンボルである薔薇を象るものだ。この一年ですっかり見慣れたマーク。これから三年間、私とコライユが背負っていく学園の象徴。
学園からの配達物は二つあった。一つは厚手の物で、テーブルの上に置かれている。こちらは何故か、びりびりに破られていた。もう一つは薄い封筒。義父様が今手に持っている物だ。
そして、それを私に叩き付ける。
「読んでみろ」
義父様の部屋の扉を開けた瞬間、貫くような厳しい視線が向けられた。嫌悪や呆れの目は慣れているけれど、あんな感情の目は初めてだ。冷遇には慣れていたはずの私でさえ、思わずたじろぐ激しい感情。
何かお叱りを受けるようなことをしてしまっただろうか。これといった心当たりはない。私は怯え、困惑し、投げられた封筒も避けることができなかった。
ぱさ、と軽い音を立てて封筒が床に落ちる。その宛名が『コライユ・ラル・トゥフォン』と書かれているのに気付き、何故か背筋が冷たくなった。
義父様の目に宿っていたあの感情。あれは、殺意だ。
思わず震える手で、なんとか封筒を拾い上げ、中身を取り出す。
一度読み、その意味が理解できなくて、もう一度読み返す。
何度読み返しても、そこ書かれている事実は変わらなかった。
「そんな……」
そこには、コライユの不合格を通知する内容が書かれていた。
「私は一年前、お前に言った。コライユを合格させろ、と」
義父様の声が震えている。それは怒りによるものだ。
顔が上げられない。今、義父様の目を見たら、恐ろしいことが起こる気がした。
「なのに、何故だ。何故こんなことになった!」
俯いている私に、何か重いものが当たる。義父様が再び投げて寄越したそれは、もう一つの配達物だった。
私が持っているものより大きなそれは、宛名に『エカラット・ラル・トゥフォン』と書かれている。
まさか、と思った。嫌な予感がして、多分それは正解だろう。
コライユが落ちただけでは、義父様はここまで怒らないだろう。彼に殺意を持たせるまで怒らせたのは、この手紙に書かれいている内容だ。
「……私が、合格」
普通なら喜ぶべき場面なのだろう。合格通知には、ブルーロワ学園でお待ちしています、といった内容が書かれていた。
けれど、この部屋を満たしているのは喜びとは対極の空気だ。一方は怒り、一方は恐怖に慄いている。
私が義父様から受ける扱いは、義理とは言え家族に向けられるものではなかった。他人の方がよっぽどいい。義父様は、私を嫌っていて、私が自分の家に居ることが気に入らなかった。
言葉にされなくても、態度や向けられる視線で分かる。時には分かりやすく言葉の刃を向けられることもあったが、六年もすれば感覚も麻痺する。それに、私が言葉で傷付くことは無かった。気にならないというわけではない。あからさまなそれに眉を顰める時もあったけど、私にはお父様か譲り受けたバストン家の誇りがある。だから耐えられた。
義父様は、私に見えない刃を向けることは合った。
けれど、本物の刃を向けることはなかった。
今の今までは。
「お前が……お前のせいで……」
義父様の震える声に、私の身体が硬直する。
今、この部屋には私と義父様、二人きりだ。何故、二人きりなのだろう。しかも、夜中にわざわざ呼び出すなんて。
二つの郵便物は夕食後に届いたという。義父様はそれを受け取って、今の今まで着替えもせず、部屋で一人何をしていたのだろう。
何を、考えていたのだろう。
背筋に冷たいものが走った。
「出ていきます!」
思わず叫んだ言葉に、私自身が驚いてしまった。
顔を上げ、夜中というのも忘れ大声を出す。義父様の怒りが『何か嫌な物』に変わってしまうのを防ごうと、無意識のうちに大声になっていた。
「わた、私、出ていきます! 私は、このトゥフォン家に相応しくないので!」
バクバクと心臓がうるさい。張り上げた声は震え、足もがくがくだ。
上げた視線の先で、義父様の怒りが段々と『正常な物』に戻っていくのが分かった。
「……ああ、そうだ。そうだ! お前は我がトゥフォン家に相応しくない! 出ていけ! 私の娘は、コライユだけだ!」
コライユ、と義父様が名前を呼んだ時。私の混乱している頭は少しだけ正常に戻る。
私が出て行ったら、彼女はどうなってしまうのだろう。お母様はコライユのことを好いているけれど、それは義父様の言うことをちゃんと聞くから、ただそれだけの理由だ。彼女はトゥフォン家夫人で居るために、娘への愛情ではなく新しい夫へ尽くすことを選んだ。
義父様は、コライユを愛してくれるだろう。トゥフォン家唯一の跡取りとして。それは、果たして家族の愛情と呼べるのだろうか。
「出ていけ! 二度と、私の前に姿を現すな!」
しかし、彼女を連れて行くことは出来ない。
義父様の叫び声に突き動かされるかのように、私は背を向け部屋を出て行った。
出ていけ、とは言われたが、表門から堂々と出ていくわけには行かない。事情を知らない門番に止められるだろうし、使用人の目に留まると後々厄介だ。
やけに冷静な思考が、理性的な判断を下す。貴族の令嬢が親から「出ていけ」なんて言われたら、自室に篭って泣きじゃくるか、行動的なタイプなら表門から堂々と出ていくだろう。けれど、それはただの親子の喧嘩だ。
私に下されたのは、本当の意味での勘当。義父様は絶縁を望んでいる。
多分、私をトゥフォン家から名実共に追い出すだろう。未成年の子供が家名を捨てるのは法律で禁じられているので、私が十六歳になるまでは内々の問題として保留にされると思う。
それも、私の誕生日の五月まで、あと数か月の話だが。
とにかく、ここには居られないと判断した私は、いくつかある屋敷の出入り口の中で最も人気がない扉を選んで、足音を立てずに裏庭へ向かった。
灯りを使うと見つかってしまう可能性が高いので、手探りで温室の扉を開け、目当ての物を見つける。隠していたお忍び用の服だ。エベンがいくつか用意してくれた服のうち、これ一着を残して他は全てヴェルドさんのところに預けてある。
——エベン。置いてきてしまったけれど、大丈夫かしら。主人が居なくなってしまったら、彼もこの屋敷を追い出されてしまうのだろうか。
もう戻れない。私は出ていく、と言った。義父様は出ていけ、と言った。この屋敷はもう私の家じゃない。
手が震える。何故、震えているのだろう。動揺しているのか。私が望んだことだろう。お母様との間に埋まりようのない溝を感じたあの日でさえ、悲しみに暮れはしたけれど、いつしか傷は癒された。
——お母様。優しかったお母様。彼女が私の頭を優しく撫でることは、もうない。
震える手で何とか着替え終わる。温室を見渡し、残っていた書類を全て鞄の中に詰めた。明日ヴェルドさんに持って行こうとしていたので、荷造りはすぐに終わった。
行こう、と立ち上がろうとしたが、足に力が入らずそのまま床にへたり込んでしまった。何故、と顔を下に向けると、ぽたりと何かか零れ落ちて、スカートに染みを作っていた。
私は泣いていた。自分でも気付かないうちに、ボロボロと情けなく涙を零していた。
何で泣いているのだろう。望んだことだろう。いつかこの家を出ていくと決めていた、それが少し早まっただけじゃないか。
違う。私は、こんな形で出ていきたいわけじゃなかった。
義父様は私を嫌っていたけれど、独り立ちするくらいの実力を身に付ければ渋々ながら認めてくれるだろうと、心のどこかで期待していた。お母様も、この六年で無関心になった私に笑いかけてくれるかもしれないと。
——それに、コライユ。
私の大切な妹。
私が出ていく日は、家族に見送られ、泣きじゃくるコライユを抱きしめて宥めて。最後は笑顔で手を振る彼女を、惜しむように何度も振り返りながら出ていく。
そんな未来を迎えるのだと、確信もなく思い込んでいた。
けれど、そんな日は二度と訪れない。
どんなにお金をはたいても、どんなに勉強を頑張っても、私が望む未来は永遠に来ない。
私は、声を上げて泣いた。




