09.送り火①
外では、春先の雪解けの雨が、鎧戸を叩いている。
居間の炉端に敷いた毛皮の上で、アーシャが毛布にくるまり、浅い寝息を立てていた。
毛布の上からでも分かるほど、腹が大きく、重たく張り出していた。
臨月が近い。
ミナトは炉端の椅子に腰掛け、眠るアーシャの横顔を、黙って眺めていた。
泣き腫らした瞼。こけた頬。かつて書庫の窓辺で、息継ぎも忘れて喋り続けていた唇は、今は固く閉じられている。
「……ん……」
アーシャが、うっすらと目を開けた。
ミナトの姿を見つけると、ほっとしたように、強張っていた肩の力を抜く。
「……ミナト様。わたし、また、寝ちゃってました……」
「いいさ。眠れるときに眠っておけ」
冬のあの夜から、二人きりのときは名前で呼ばせている。
アーシャは毛布の中から手を伸ばし、ミナトの手を探り当てて、それを自分の丸い腹の上へと導いた。
「……夜になると、よく、うごくんです」
手のひらの下で、ぐぐ、と、小さな踵が押し上げてきた。
とん、と。とん、と。
あの崖の上で、ミナトがその首を絞めた男の子どもが、ミナトの手のひらの下で、生きようとしている。
その感触に、ミナトは、どうしようもなく笑い出したくなった。
「……ミナト様が、いてくれなかったら……わたし、きっと、あの冬を、こせなかった……」
アーシャが、ぽつりと呟いた。
ミナトは、腹の上に置いた手で、もう一度、その丸みをゆっくりと撫でた。
あの男の首を絞めた手で、優しく、包み込むように。
――分かってるとも。
お前があの冬を越せたのは、俺のおかげだ。
***
あれから、五ヶ月が経っていた。
カイルの亡骸は、初雪の降った翌日、村はずれの墓地に葬られた。
亡骸を清めたのは、アーシャの祖母である薬師の婆さんだった。砕けた顔に薬草を練った膏を塗り、できるだけ生前の面影に近づけてやった。
棺に土をかける前に、婆さんは『送り火』の儀を行った。
死者の髪をひと房切り取って小さな皿の上で燃やし、その煙に乗せて、魂を山へ送る。
婆さんが皺だらけの指先を擦り合わせると、ぽっ、と小さな火が灯った。王都では子どもでもできると村の若者に笑われている、あの火だ。
その火を髪に移し、婆さんは目を閉じて、口の中で何か短い言葉を唱えた。
細い煙が、雪の降る空へ昇っていく。
村人たちが古い弔いの歌を歌い始め、ミナトも、その輪の中で沈痛に目を伏せていた。
だから、ミナトは見ていなかった。
煙が昇りきった瞬間、婆さんの顔から、すうっと血の気が引いたことを。
そして、その小さく鋭い目が、群衆の中のミナトに、ゆっくりと向けられたことを。
それからすぐに、峠は雪で閉ざされた。
***
アーシャは、壊れていた。
食べなかった。眠らなかった。
祖母の家の奥の部屋に閉じこもり、カイルが建てかけていた家の方角を、窓の隙間からずっと見つめていた。泣き出したかと思えば、急に笑って、「カイル、もうすぐ帰ってくるから」と竈の前に立とうとした。
ミナトは、毎日、アーシャのもとを訪ねた。
決して急がなかった。
枕元に座り、話したいときには話を聞き、泣きたいときには泣かせてやった。眠れない夜には、元の世界で子どもの頃に聞かされた昔話をしてやった。記憶をなくしたはずの勇者様がどこでそんな話を、と訊かれれば、「夢で見た」とだけ答えた。
その間、婆さんは部屋の隅で、黙って薬草を刻んでいた。
ミナトが来るたびに薬草茶を淹れて出し、ミナトがそれを飲み干すのを、皺に埋もれた小さな目で、じっと見ていた。
ミナトはそれを、孫娘に近づく男を案じる年寄りの目だと思っていた。
――そして、冬の最も深い夜。
吹雪の音に混じって、ミナトの家の戸が叩かれた。
雪まみれのアーシャが、薄い寝間着に肩掛け一枚で、大きくなり始めたお腹を抱えて震えていた。
「……ゆうしゃさま。ひとりでねると、カイルが、がけからおちる、ゆめを、みるんです……っ」
アーシャは、ミナトの胸にすがりついた。
「……そばに、いてください……っ。なにも、かんがえなくて、いいように……っ」
ミナトは、少しだけためらう顔をしてみせた。
こんな夜更けに、身重の娘がひとりで男の家に来るものじゃない――そう困ったように言い、アーシャが何度も首を横に振るのを待ってから、仕方なく、という顔をして、炉端へ招き入れた。
毛皮を何枚も重ねて寝床を作り、冷えきった身体を毛布でくるんでやる。
熱い薬草湯を飲ませ、炉の火を大きくしてやる。
アーシャはミナトの袖の端を握りしめたまま、カイルの名を何度も呼んで泣き、やがて泣き疲れて、眠りに落ちた。
その寝顔を見下ろしながら、ミナトは、声を殺して笑った。
笑いが、どうしても止まらなかった。
――全部、思った通りになった。
それからアーシャは、毎晩のようにミナトの家の炉端へ通ってくるようになった。
ミナトの声を聞きながら、ぽつりぽつりとカイルの話をし、泣き、そして眠る。夜が白む前に、ミナトはその身体を毛布ごと抱え上げ、雪の道を祖母の家まで送り届けた。
戸口で孫娘を受け取る婆さんは、いつも、何も言わなかった。
***
この春、アーシャは成人の儀を迎えた。
本当なら、儀式のすぐ後に、カイルと婚礼を挙げるはずだった。
白い晴れ着姿でずっと俯いていたアーシャは、ミナトが肩に手を置くと、ようやく顔を上げて、泣き出しそうな顔で少しだけ笑った。
村人たちは目頭を押さえた。
勇者様のおかげで、あの娘はなんとか立ち直りかけている。なんと慈悲深いお方だろう――。
誰も、何も、疑わなかった。
――ただひとりを、除いて。
***
「勇者様。今夜、うちに来てくださいな」
成人の儀から十日ほど経った夕暮れ、村の道で、薬草籠を背負った婆さんに呼び止められた。
「あの子のことで、ちゃんと話しておきたいことがあるんでね。あの子は今夜、村長さんのところで、産着を縫う女衆の集まりに泊まりだ」
孫娘を頼むと言われるのか。無理をさせるなと釘を刺されるのか。
どちらでも構わなかった。
その夜は、春先の名残雪がちらついていた。
村はずれの薬師の家は、乾いた薬草の匂いで満ちていた。
天井の梁からは束ねた草の根や葉が何十本もぶら下がり、壁際の棚には、粉や木の実を詰めた壺が隙間なく並んでいる。床には、真新しい筵が部屋いっぱいに敷き詰められていた。
囲炉裏の向こうにきちんと膝を揃えて座った婆さんは、湯気の立つ薬草茶を、黙って差し出した。
ミナトはそれを一息に飲んだ。ひどく苦い、草の味がした。
「……顔色ひとつ、変わらないねえ」
婆さんが、ぽつりと言った。
「その茶には、鳥兜の根を、熊が三頭倒れるくらい入れておいた。……ひと冬のあいだ、あんたが来るたびに出した茶に、あたしの知ってるありとあらゆる毒を混ぜてみたけど、腹ひとつ下さなかったものねえ」
ミナトの手が、碗の縁で止まった。
「今日は――何の話だ」
「送り火の話さ」
婆さんは、膝の上で皺だらけの手を組んだ。
「あれはね、ただのしきたりじゃない。髪に残った、その人間が最後に見たものを――煙の中に映すのさ。一種の《魔法》だよ。この谷で死んだ人間はみんな、そうやって送ってきた。せめてあたしだけは、どんなふうに逝ったのか、知っておいてやりたくてね」
小さな目が、まっすぐにミナトを射抜いた。
「カイルの煙にはね、あんたの顔が映ってたよ。息がかかるほど近くに。……あんたは、笑ってた」
ミナトは、何も言わなかった。
「考えたよ。村長に話そうか、村の連中を集めようか。……でも、誰が信じるもんかい。竈に火を点けるしか能のないババアが、煙にカイルを殺す勇者様の顔を見たなんて言ったって。あたしは気が触れたと思われるだけさね」
婆さんの声は、最後まで静かだった。
「あの子は……アーシャは、あたしがひとりで育てた大事な孫だ。……あの子の惚れた男を殺して、腹の子ごと、あの子を自分のものにしようとしてる男を、見過ごすわけにはいかないのさ」
ミナトは、碗を置いた。
骨と皮ばかりの年寄り。
――何を、恐れることがある。
「――で? この俺を、どうにかできるとでも――」
言い終わらなかった。
婆さんの組んだ指先が、ぱちん、と鳴った。
***
足元の筵が、一斉に焼き切れた。
その下――床板一面に、炭と赤黒い何かで描かれた紋様が浮かび上がっていた。幾重にも重なる円と直線と、見たこともない文字。そのすべてが、脈打つように青白く発光している。
「――《縛れ》」
婆さんの唇から零れたのは、しわがれた年寄りの声ではなかった。腹の底から響く、張りのある声だった。
「《鎖よ。七つの門を閉ざし、獣を地に繋げ》」
紋様から、光の鎖が噴き上がった。
何十本もの細い鎖が蛇のようにうねり、ミナトの足首に、脛に、膝に、一瞬で巻きつく。
「ちっ――!」
力任せに脚を引いた。こんな鎖など――。
動かなかった。
もがけばもがくほど、鎖は太く、重くなり、床板ごとミナトの脚を縫い止めていく。
「無駄だよ。それは力で切れるもんじゃない。ひと冬かけて、床下に仕込んでおいたんだ。あんたが毎晩、炉端であの子の泣き言を聞いてやってる間にね」
婆さんが、立ち上がった。
――曲がっていたはずの腰が、まっすぐに伸びていた。
団子に結った髪の紐がぷつりと切れ、腰まで届く白髪が、熱気にあおられて、ばさりと宙に広がる。袖をまくり上げた細い腕には、肩から指先まで、墨の紋様がびっしりと刻まれていた。
「名乗っておこうかね。王立学院、第七位階、炎術導師――ヘルガ。五十年前、王都じゃ《灰燼》って呼ばれてたもんさ」
王立学院。書庫の地誌で、何度も読んだ名だ。
竈に火を点ける程度の魔法しか使えないと笑われていたこの婆さんが――。
「……ふざけるな」
ミナトは、鎖に縫い止められたまま、ヘルガを睨み上げた。
「そんな力があって、なんで黒獣を放っておいた。あんたがその力を使っていれば――」
「使ったさ。五十年前にね」
ヘルガの声が、ぴしゃりと遮った。
「この谷に流れ着いて十年目の秋だった。あたしはこの村で所帯を持って、小さな娘と息子がいた。――娘のほうが、アーシャの母親さ。黒獣が下りてくる年だと年寄りたちが怯えてたから、あたしはひとりで山に入った。下りてくる前に、巣ごと焼き払ってやろうと思ってね」
ヘルガの目が、一瞬だけ遠くなった。
「焼いたよ。一晩かけて、骨になるまで。山が三日燃え続けた。……夜が明けたら、灰が、動いてた。骨が肉を巻き直して、立ち上がった。そしてその冬、あいつはそれまでのどの年よりも多く、村の人間を攫っていった。――あたしの亭主と、まだ十二だった息子もね」
ミナトは、言葉を失った。
「逆らえば、逆らっただけ村が喰われる。だからあたしは力を隠して、竈に火を点けるだけの婆として、この谷の人間を看取り続けてきた。……あんたがあいつを斬ったと聞いたとき、この谷に来てはじめて、神様に手を合わせたよ。亭主と息子の墓に、ようやく報告ができるってね」
その声が、わずかに震えた。
「――そのあんたが、この谷の子どもを殺した」
ヘルガの両手が、宙に複雑な形を描いた。
「《灰より出でて、灰へ還れ。我が血を薪とし、我が骨を炉とす》」
梁にぶら下がった何十本もの薬草の束が、一斉に青白い炎を上げた。
炎は落ちることなく宙に浮き、細く鋭く引き絞られて、無数の火の矢となった。その切っ先が、すべてミナトに向く。
「《穿て》」
***




