10.送り火②
「が、ぁあああああああっ――!!」
火の矢が、肩に、胸に、腹に、太ももに突き刺さった。
指ほどの細さの炎が皮膚を焼き、肉を焦がして、内側へと潜り込んでくる。黒獣の爪に貫かれても蘇った肉体が、焼けた端から再生しようと蠢く。だが炎は、再生する端から、新しい肉を焼き続けた。
焼けては治り、治っては焼ける。終わらない激痛が、全身の神経を灼き尽くしていく。
ミナトは囲炉裏の石組みを素手で引き剥がし、人の頭ほどもある石塊を、ヘルガめがけて投げつけた。
当たれば、骨と皮ばかりの年寄りなど、跡形もなく潰れる。
ヘルガは、指を一本、横に払っただけだった。
石塊は宙でぐにゃりと軌道を曲げ、ヘルガの耳元を掠めて、背後の壁で粉々に砕け散った。ヘルガは、振り返りもしなかった。
「腕っぷしだけじゃ、魔導士は殺せないよ、坊や」
ぞくり、と。
焼ける痛みとは別の何かが、ミナトの背筋を這い上がった。
(なんだ、このババア――強い!)
この世界に来てから、一度も感じたことのない感覚だった。
黒獣ですら一撃で斬り伏せたこの身体が、腰の曲がった婆さんひとりに、指一本触れることができない。
ヘルガの鼻から、つうっと赤い血が垂れていた。墨の紋様が走る腕が、小刻みに震えている。一節唱えるごとに、命そのものが削れていくのが、傍目にも分かった。
それでも、ヘルガは手を下ろさなかった。
「あたしの命は、この一晩でおしまいさ。どうせ、あの子の花嫁姿を見届けたら、山にくれてやるつもりだった命だ」
ヘルガの両手が、胸の前でひとつに組まれた。
「《焔の王よ。古き契約に従い、その顎を開け。我が名はヘルガ、灰燼の名において命ず》」
部屋じゅうの炎が、ヘルガの両手の前へと吸い寄せられていく。
赤から橙へ、橙から白へ。直視できないほどの輝きを放つ、小さな太陽のような光の球。部屋の空気がごうごうと音を立ててそれに吸い込まれ、息ができない。
ヘルガの白髪の毛先がちりちりと焦げ、組んだ両手が内側から黒く爛れていく。それでも、詠唱は止まらなかった。
――あれを食らえば、終わりだ。
再生など間に合わない。骨まで灰になる。
(――死ぬ。俺が。勇者様が。こんな、ババアに負けて……)
鎖が胸まで這い上がり、腕も、もう動かない。焼けただれた皮膚が、再生しきれずに剥がれ落ちていく。
(嫌だ。死にたくない。やっとここまで来たのに。あの娘も、あの子も、この村も、女どもも、全部、全部、俺のものなのに――)
「《――灰と、なれ》」
白い光の球が、放たれた。
――その瞬間。
ミナトの右手に、ずしり、と重いものがあった。
冷たく、硬く、手のひらに吸い付くように馴染む、革巻きの柄。
見下ろすまでもなかった。
二年前、目を覚ましたときに握っていたもの。ミナトの家の寝室の隅に、立てかけてあったはずの――あの大剣だった。
刀身が、青く、燃えるように輝いていた。
身体が、勝手に動いた。
黒獣を前にしたときと同じように、筋肉に刻まれた何かに突き動かされて。
光の鎖が、青い輝きに触れた端から、硝子のように砕け散る。迫りくる白い光の球に向かって、大剣が下から上へ、一閃した。
――音が、消えた。
白い光が真っ二つに裂け、渦を巻いて刀身の青い輝きに呑み込まれ、跡形もなく消えた。
そして切っ先は、そのまま、光の向こうにいたヘルガの身体を――左の脇腹から右の肩口まで、斜めに断ち割っていた。
***
ヘルガは、しばらく立ったままだった。
見開かれた目が、ミナトの手の中の、青く輝く刀身を見つめていた。
斜めに走った赤い線から血が噴き出し、細い身体がゆっくりと二つにずれて、囲炉裏の傍らに崩れ落ちた。長い白髪が、血溜まりの上に、扇のように広がった。
ミナトは、大剣を握ったまま、立ち尽くしていた。
膝が、がくがくと震えていた。止めようとしても、止まらなかった。
焼けただれた腕も胸も、見る間に再生していく。だが、背筋を這い上がった冷たいものだけは、いつまでも消えなかった。
本当に、死ぬところだった。
大剣の青い輝きが、満足したとでもいうように、ゆっくりと薄れていった。
(……なんなんだ……この剣は……)
黒獣を斬ったきり、二年近く一度も抜いていなかった剣が。
死を覚悟した瞬間に、この手の中に現れて、《灰燼》の命を賭けた一撃を、紙切れのように斬り裂いた。
膝の震えが、少しずつ収まっていく。
代わりに、腹の底から、別の何かがじわじわと湧き上がってきた。
***
術者を失った炎は、ただの赤い炎に戻って、部屋のあちこちでくすぶっていた。
床の紋様は、もう光っていない。焼け焦げた筵の下で、ただの炭の線に戻っていた。
(――燃やせばいい)
天井いっぱいの、乾いた薬草。強い囲炉裏の火。
焼け落ちた梁の下敷きになれば、骸が二つに分かれていることも、炎がすべて呑み込んでくれる。
ミナトはヘルガの骸を囲炉裏の傍まで引きずり、燃える薬草の束で、梁に残った束へ次々と火を移していった。乾いた草は、面白いほどよく燃えた。
戸口で、一度だけ振り返る。
炎の中で、見開かれたままのヘルガの目に、燃え盛る火が映っていた。
「……孫は、大事にしてやるよ」
ミナトは戸を閉め、雪の降る裏手の林を抜けて、家へ戻った。
足跡は、名残雪がすぐに覆い隠した。焦げた衣服を暖炉で燃やし、着替え、大剣を寝室の隅に立てかけて、寝台に横になる。
刀身は、もう光っていなかった。
――半刻ほど経った頃、村の鐘が、けたたましく打ち鳴らされた。
「火事だ――っ!! 薬師の婆さんの家が、燃えてるぞぉっ――!!」
ミナトは跳ね起き、男たちと一緒に村はずれへ駆けた。
薬師の家は、すでに屋根まで炎に包まれていた。火の粉が、降りしきる雪と混じり合って宙を舞う。乾いた薬草を抱え込んだ炎は、桶の水などものともしなかった。
「婆さんは中か!?」
「分からねえ! 誰も出てくるのを見てねえ!」
「――俺が行く!」
燃え盛る戸口へ駆け出したミナトの腕に、木こりのガルドたちが飛びついた。
「無茶だ、勇者様!!」
「離せ! まだ中に婆さんがいるかもしれないんだぞ!!」
ミナトは、振りほどこうと必死にもがいた。
――振りほどけないふりをして、もがいた。
その目の前で、炎に包まれた屋根が、轟音とともに崩れ落ちた。
***
夜が明けて、焼け落ちた梁の下から、炭のようになった骸が見つかった。
「囲炉裏の火が、梁の薬草に燃え移ったんだろう」
「あれだけ乾いた草をぶら下げてりゃなあ……前から危ねえって言ってたんだ」
年寄りの火の不始末。この谷では、珍しいことではなかった。
夜通し誰よりも前に立って、燃え残った瓦礫を素手でかき分け続けたミナトの両手は、塞がる端からまた傷つき、いつ見ても血と煤で真っ黒だった。
村人たちはそれを見て、また泣いた。
アーシャは、泣かなかった。
村長の家から駆けつけ、まだ煙の燻る焼け跡の前に立ち尽くしたまま、ただ、黒い残骸を見つめていた。
「……勇者様。わたし、ひとりに、なっちゃいました」
ひどく平坦な声だった。
「おとうさんも、おかあさんも、もういなくて。おばあちゃんだけ、だったのに。カイルも、おばあちゃんも……。わたし、なにか、わるいこと、したのかなあ……」
ミナトは、その身体をそっと抱きしめた。
「お前は、何も悪くない」
アーシャはミナトの胸に顔を埋めて、ようやく――ようやく、声を上げて泣き始めた。
***
家を失ったアーシャを引き取ったのは、カイルの両親だった。
「うちの倅が、嫁にもらうはずだった娘だ。腹の子は、うちの孫だ。……どこへもやるもんかね」
カイルの父親はそう言って、息子と二人で建てかけていた丸太の家の屋根を、ひとりで葺き上げた。
谷の雪がすっかり消える頃、アーシャはその家に移った。カイルと暮らすはずだった家に、カイルの母親と二人で。
村じゅうが、それを美談として語った。
ミナトも、カイルの父親の肩を叩き、屋根葺きを手伝ってやった。カイルの父親は、何度も何度も頭を下げて、礼を言った。
息子を殺した男に。
アーシャは、それからもしばらく、夜になるとミナトの家の炉端へ通ってきた。
昼間はほとんど口をきかず、窓辺で焼け跡の方角を眺めているのだと、カイルの母親が心配そうにこぼしていた。
だが、ミナトの炉端でだけは、アーシャは堰を切ったように喋った。カイルのこと。祖母のこと。腹の子のこと。喋って、泣いて、泣き疲れて、眠った。
「……ひとりに、しないでください……。ミナト様まで、いなくなったら、わたし……」
ミナトは毎晩、その願いを聞き届けてやった。
この娘が、自分なしでは一晩も眠れなくなっていくのを、すぐそばで、ゆっくりと味わいながら。
***
アーシャが子を産んだのは、春の終わりの、よく晴れた朝だった。
男の子だった。
カイルの家で半日苦しんだ末に、大きな産声を上げた。
黒い、癖のある髪をしていた。
この二年、村の産婆の手伝いで何人もの赤子を取り上げてきたサリヤが、慣れた手つきで赤子を抱いて、戸口のミナトに見せた。
「元気な男の子ですよ、ミナト様。アーシャちゃんも、頑張りました」
癖のある黒髪。少し垂れた目尻。
――あの男に、よく似ていた。
「……よく来たな」
ミナトは優しく笑って、赤子の額に唇を落とした。
***
子を産んでから、アーシャは少しずつ変わっていった。
赤子が泣けば、どんなに疲れていても起き上がって乳を含ませた。祖母がよく歌ってくれたという古い山の歌を、子守唄に歌った。
赤子を抱いて広場へ出かけ、ほかの母親たちと日向で話をするようになった。焼け跡から燃え残った祖母の薬草の覚え書きを拾い集め、一枚一枚、丁寧に読み直すようになった。
ミナトの炉端へ通ってくる夜は、少しずつ、減っていった。
たまに来ても、もう泣きながら朝まで袖を握りしめていることはなかった。少しだけ話をして、家に残してきた赤子が気になるのか、夜が更ける前に帰っていった。
ある夜、帰り支度をしながら、アーシャがぽつりと言った。
「……あの子の名前、決めました。カイ、にします」
ミナトの指先が、わずかに止まった。
「カイルから、もらいました。……あの子には、ちゃんとカイルのこと、教えてあげたいんです。カイルが、どんなにあの子が生まれてくるのを楽しみにしてたか」
アーシャは、ミナトを見た。
書庫の窓辺でミナトを見上げていたときよりも、ずっと静かで、ずっと強い目だった。
「……いい、ですよね?」
「……ああ。いい名前だ」
アーシャはほっとしたように笑い、髪を自分で二つに結い直して、カイルの両親の家へ帰っていった。
ひとりになった居間で、ミナトは天井の梁を見上げた。
――カイ。
あの男によく似た名前が、これから毎日、あの家で呼ばれる。俺のアーシャの口から、あの男によく似た赤子に向かって。
死んでなお、あの男は、俺のアーシャの中に居座り続けるつもりらしい。
(……いいさ、アーシャ)
ミナトは、口元を緩めた。
(好きなだけ、その名前を呼べばいい。好きなだけ、あいつの話を聞かせてやればいい)
あの赤子の顔が、瞼の裏に浮かぶ。
癖のある黒髪。少し垂れた目尻。額に唇を落としたときの、乳臭い、柔らかな温もり。
(カイ。……お前は、生かしといてやるよ)
――今は、まだ。
お前の母親が、あの男のことなんか忘れて、俺だけを見るようになるまではな。
***




