08.当然の報い②
一瞬で首の骨を圧し折ることもできた。
だが、ミナトはそうしなかった。
親指を気管に食い込ませ、両脇から首の血の道を圧し、ゆっくりと、確かめるように力を込めていった。
奪うという行為を、その細部に至るまで、骨の髄まで味わい尽くすために。
「ぐ、がっ……! ごふっ、ぁ……っ!」
カイルの身体が、狂ったように跳ねた。
折れた左脚を無様に引きずりながら、右足で凍った土を蹴り、両手の爪を立てて、ミナトの手首や前腕を掻きむしる。
血走った眼球が眼窩から溢れんばかりに見開かれ、白目に赤黒い濁りが広がっていく。
顔は鬱血してどす黒い紫色に変わり、こめかみの血管が破裂しそうに脈打つ。
ミナトは眉ひとつ動かさず、その無残な死に様を凝視していた。
指の下で、カイルの脈が暴れ狂い、やがて乱れ、細く途切れ途切れになっていく。
生命というものが、肉体という器から、少しずつ、確実に零れ落ちていく感触。
(――ああ、そうだ)
ミナトの全身を、名状しがたい陶酔が駆け抜けた。
どんな極上の酒よりも、どんな女を腕に抱いた夜よりも、深く、濃密な全能感。
(俺は今、こいつの全部を奪っている)
アーシャの温もりも。腹の赤子も。親父と建てていた丸太小屋も。春の婚礼も。無邪気な笑顔も。これから紡がれるはずだった、数十年の人生も。
この男が手に入れ、俺に施そうとしたすべてを、俺がその手から奪い取っている。
カイルの掻きむしる爪から、力が抜けた。
爪がミナトの皮膚を滑り落ち、地面へと力なく落ちる。
右足の痙攣が一度、二度と小さく跳ね、やがて完全に脱力した。
濁りきった瞳孔が開き、光を失った目が、虚空を映していた。
脈が完全に絶えてからも、ミナトはなお長いあいだ、その首を締め続けていた。
指の下で、まだ温かい喉が、少しずつただの肉になっていくのを、確かめるように。
沢の轟音だけが、変わらず谷間に鳴り響いていた。
***
後始末は、冷徹な機械のように、淀みなく行われた。
カイルの首には、指の形に沿って、濃い鬱血の痕が浮き上がっている。
だが、ミナトの計算に狂いはなかった。最初からこの首折れ谷を処刑場に選んだのは、そのためだ。
十数丈の崖上から、角の尖った岩場と激流の渦巻く谷底へ叩き落とされれば、全身の骨は砕け、肉は裂け、皮膚は擦り傷と打ち身に覆い尽くされる。首を絞めた痕も、生きているうちに折った脛の骨も、落下の衝撃による無数の傷の中に呑み込まれ、消える。
ミナトはカイルの両手を改めた。
爪の間に、自分の衣服の繊維や皮膚が残っていないかを確かめる。この村に、そんなものを調べる知恵のある人間などいない。激流に洗われれば、流されもするだろう。それでも、元の世界でぼんやり眺めていた刑事ドラマの知識が、勝手に手を動かした。小石を使って、爪の隙間の汚れを丁寧にこそぎ落とす。
ふと自分の腕に目をやると、カイルが最後の悪あがきで引っ掻いた爪痕が、数条、赤く走っていた。
だが、その傷も、見ている端から肉が盛り上がり、血が止まり、数秒のうちに跡形もなく消え去っていった。
人ならざる勇者の肉体。その都合のよさに、ミナトは小さく鼻を鳴らした。
落ち葉と泥に残った争いの痕跡を足で均し、周囲の霜と土を蹴り散らして誤魔化す。
カイルが落とした木杖を拾い上げると、崖のいちばん縁――霜が降りて滑りやすくなっている一枚岩の先端へと歩み寄った。岩の表面に杖の先を強く擦り付け、足を踏み外したときについたような擦り傷を刻んでから、岩肌の窪みに引っ掛けるように転がしておく。
「……熊の足跡に気を取られて、崖に近づきすぎた。足を滑らせて、転落死。――可哀そうに」
声に出して、呟いてみる。
その声には、微塵の罪悪感も、動揺もなかった。
ミナトは横たわるカイルの亡骸を片腕で抱え上げ、崖の縁に立った。
谷底から吹き上げてくる白い霧が、冷たく頬を撫でる。
何の躊躇もなく、腕の力を抜いた。
亡骸は重力に引かれ、霧の渦巻く虚空へと、音もなく吸い込まれていった。
数秒の後、ごうごうと鳴り響く沢の轟音の合間に、鈍く湿った衝撃音が、一度だけ小さく届いた。
ミナトは谷底を見下ろすことすらなく、踵を返した。
表情を整え、いつもの『心優しき勇者様』の顔を取り戻しながら、何事もなかったかのように、山道を下り始めた。
***
その日の夕暮れ、山羊の群れだけが、村へと戻ってきた。
からん、からんと首の鈴を寂しげに鳴らしながら、夕闇の迫る小道を下りてきた群れの後ろに、杖を持った青年の姿はなかった。
最初に異変に気づいたのは、カイルの父親だった。
そして、隣家の庭先で薬草を干していたアーシャが、駆け寄ってきた。
「あれ? カイル……? カイル、どこ……?」
アーシャは山羊の群れの間をかき分け、何度も山道の方角を見つめた。
二つに結った金茶色の髪が、冷たい夕風に揺れていた。
日が完全に落ちる頃には、村中が上を下への大騒ぎになっていた。
集会所の前には松明を手にした男たちが集まり、女たちは青ざめた顔で身を寄せ合い、幼い子どもたちは不穏な空気を察して泣き出していた。
「上の草地にはいなかったのか!?」
「山羊はいつもの場所にいたらしいが、カイルの姿は見当たらなかったって……!」
「まさか、熊か……!? 尾根の向こうで足跡を見たって話があったばかりだぞ……!」
混乱と恐怖が渦巻く人混みを割って、ミナトが姿を現した。
「――俺も行く」
その凛とした一言に、騒然としていた男たちが、一斉に顔を上げた。
「勇者様……!」
人々の顔に、蜘蛛の糸にすがるような安堵が広がる。
カイルの父親が、涙ぐみながらミナトの手にすがりついた。
「勇者様……っ、どうか、どうかあいつを……カイルを見つけてやってください……っ!」
「任せてくれ。カイルは村の大切な若者だ。必ず連れ戻す」
ミナトは父親の手を力強く握り返し、痛切な眼差しで頷いてみせた。
その瞳の奥にある、絶対の冷淡さに気づく者は、この場に一人としていなかった。
松明の火が夜の森を赤く照らし、男たちの悲痛な叫び声が木立を揺らす。
「カイル! どこだ! 返事をしろ!」
ミナトはその先頭に立ち、誰よりも大きな声を張り上げた。
「カイル! どこにいる! カイル――ッ!」
喉が裂けんばかりの、真に迫った絶叫。
男たちの誰よりも険しい顔をして、誰よりも早く険しい道を踏み越え、森を駆け巡る。
夜通しの捜索のあいだ、ミナトは己の肉体を演じ続けた。疲労など微塵も感じない身体でありながら、あえて肩を上下させて息を乱し、額に汗を浮かべ、ズボンに泥を塗りたくって、『必死に若者を救おうとする英雄』の姿を演じきった。
そして、首折れ谷へと続く獣道の捜索だけは、巧みな言葉で『夜は危ないから』と後回しにさせた。
暗いうちに見つかっては困る。だが、見つからないままでも困る。行方知れずのままでは、村人はいつまでも山狩りを続けるだろうし、アーシャはいつまでも、カイルが帰ってくるのを待ち続けるだろう。
――ちゃんと、死んだと分からせてやらなければならない。
夜が明け、男たちが疲れ果てて立ち尽くす中、
「諦めるな、もう一度手分けして探そう」
と涙ぐましい激励を飛ばしたのも、ミナトだった。
――そして、二日目の昼下がり。
ミナトの誘導どおりに獣道へ踏み込んだ狩人たちが、首折れ谷の凍てついた岩棚で、カイルの木杖を見つけた。
***
谷底からカイルの亡骸が引き上げられたのは、さらに数時間が経ってからのことだった。
男たちが太い縄を繰り出し、岩肌に擦られながら引き上げられた戸板の上のそれは、もはや生前の青年の面影を、ほとんど残していなかった。
十数丈の高さから叩きつけられた頭は無惨に砕け、手足の骨はあらぬ方向へと折れ曲がっていた。
冷たい沢の水に一昼夜以上も浸かり続けた肌は青白くふやけ、砂泥と苔にまみれている。
首を絞めた痕など、全身を覆う無数の打ち身と擦り傷の中に完全に埋もれ、跡形もなかった。
「……やっぱり、熊の足跡を追って、ここまで来ちまったんだな」
年配の狩人が、崖の上に残された杖と、凍りついて滑りやすくなった岩肌を見下ろしながら、絞り出すように呟いた。
「この時期の首折れ谷は、岩が凍って氷みてえに滑る。……馬鹿野郎が。誰にも言わずに、なんで一人でこんな危ねえ場所へ……」
男たちは唇を噛みしめ、涙を拭った。
誰も、ミナトを疑う者はいなかった。
夜通し声を枯らして捜索を指揮し、今も亡骸の傍らで沈痛に眉をひそめているこの英雄を疑う理由など、世界のどこを探しても存在しなかった。
***
カイルの亡骸が村の広場へと運び込まれたとき、アーシャは集会所の前で立ち尽くしていた。
薬師の祖母に肩を支えられ、青ざめた唇を震わせながら、男たちが担いできた戸板を見つめている。
戸板の上には、粗末な筵がかけられていた。
だが、その筵の端から、泥にまみれた右腕が一本、だらりと力なく垂れ下がっていた。
その手首には、泥に汚れ、色褪せた一本の赤い紐が巻き付いていた。
刈り入れの祝いの夜、アーシャが自分の髪に結んでいた祭りの紐を、宴のあとでほどいて、カイルの手首に結んでやったものだった。
「……カイル……?」
アーシャの喉から、掠れた呟きが漏れた。
「カイル……なんで……? ねえ……起きてよ……カイル……」
ふらふらと覚束ない足取りで進み出る孫娘を、祖母が涙ながらに引き止めようとする。
だが、アーシャはその手を振りほどき、戸板の前へと駆け寄った。
止めようとする男たちの手よりも早く、細い指が筵の端を掴み、一気に引き剥がした。
――瞬間、世界の音が消えた。
アーシャは、動かなかった。
翠色の瞳が、極限まで大きく見開かれていた。
眼前に横たわる、原形を留めない青白い亡骸。砕けた頭。濁った泥水に浸かり、冷たく変わり果てた、愛しい男の顔。
アーシャの口が、小さくぱくぱくと開閉した。声が出ない。息すらできない。
心臓が止まったかのような数秒の沈黙の後――アーシャの膝が、泥土の中へと崩れ落ちた。
「あ……あぁ……っ、ぁあ……」
喉の奥から漏れたのは、空気の抜けるような喘ぎだった。
それが瞬く間に膨れ上がり、やがて、人の口から放たれるとは思えない、魂を引き裂くような絶叫へと変わった。
「いやあああああああああああっっ――!」
アーシャは、泥にまみれた亡骸にすがりついた。
ふやけて冷たくなった手を両手で握りしめ、砕けた胸に顔を押し当て、狂ったように髪を振り乱した。
二つに結んでいた髪がほどけ、金茶色の乱れ髪が、亡骸の泥水と混ざり合って汚れていく。
「やだ、やだやだやだっ! 春になったら一緒に住むって言ったじゃないっ!」
祖母が泣き叫びながら、背中からアーシャを抱きしめた。
カイルの母親はその場にへたり込んで気を失い、父親は天を仰いで慟哭した。男たちは顔を背けて拳を握りしめ、女たちは互いに抱き合って涙を流した。
広場全体が、底なしの悲嘆と絶望に包まれていた。
――その中で、ミナトただ一人を除いて。
ミナトは、群衆から数歩引いた場所で、腕を垂らして立ち尽くしていた。
悲痛に満ちた表情。固く結ばれた唇。悔恨に震える拳。
外から見れば、村の若者を救えなかったことを激しく悔やむ、心清き英雄の姿そのものだった。
だが、その冷え切った内側では。
(――ああ)
ぞくぞくと、甘美な痺れが背筋を駆け上がっていた。
頭の天辺から爪先に至るまで、熱い毒のような歓喜が、全身の血を沸き立たせていく。
(あの顔だ)
ミナトは、泥の中で泣き叫ぶアーシャの横顔を、貪るように見つめていた。
書庫でミナトに向けていた、無邪気な笑顔ではない。
刈り入れの祝いの夜、カイルの腕に抱きついて浮かべていた、あの誇らしげで幸福な笑顔でもない。
世界そのものを奪われ、魂の底から粉々に砕け散った女の顔。
生きる意味のすべてを失い、泥にまみれて泣き叫ぶ、哀れな娘の姿。
(その顔をさせたのは、俺だ)
あの娘の未来を壊したのも。
愛した男を、無残な亡骸へと変えたのも。
あの平穏で幸福な箱庭を、跡形もなく踏みにじったのも。
すべて、この手だ。
そして、この娘は、一生それを知ることはない。
この村の誰も、未来永劫、真相に辿り着くことはない。
他人の運命を意のままに弄び、生殺与奪を完全に握る感覚。神にでもなったかのような全能の陶酔が、ミナトの胸を満たしていた。
握りしめた拳に、爪を食い込ませる。
そうしていなければ、今すぐにでも、口元が裂けるような歓喜の笑みを浮かべてしまいそうだった。
***
どれほどの時が流れただろうか。
声を嗄らし、涙も枯れ果てたアーシャが、虚ろな顔をゆっくりと持ち上げた。
泥と涙でぐしゃぐしゃに汚れた顔。張り付いた髪の隙間から覗く翠色の瞳には、もはや焦点すら合っていなかった。
周囲の光景をぼんやりと彷徨っていたその視線が、ふと、群衆の輪から離れて立ち尽くすミナトの姿を捉えた。
「……ゆうしゃ……さま……」
かすれきった声が漏れた。
アーシャは祖母の腕をすり抜け、幽鬼のように、ふらりと立ち上がった。
泥にまみれた素足で、よろめきながら、一歩、また一歩と、ミナトのほうへと歩み寄ってくる。
「勇者様……っ、勇者、さまぁ……っ」
そして、前のめりに倒れ込むようにして、ミナトの胸にすがりついた。
「勇者様っ……! カイルを……探してくれたんですよね……っ! ずっと……カイルの名前を呼んで、探してくれたって……みんなが……っ!」
細く華奢な身体が、ミナトの胸の中で、小刻みに、激しく震えていた。
泥まみれの指先が、ミナトの厚い外套の布地を、千切らんばかりの力で握りしめている。
「なんで……なんでカイルなの……っ! お腹に、赤ちゃんがいるのに……っ! 三人で暮らすって……約束したのにぃっ……!」
泣き叫ぶアーシャの背中に、ミナトはゆっくりと腕を回した。
壊れやすい宝物を労わるように、どこまでも優しく、慈しみを込めて抱きしめる。
「……すまない、アーシャ」
低く、沈痛な響きを帯びた声が、アーシャの耳を打った。
「俺が……もっと早く見つけてやれていれば。俺がもっと早く、あの崖に気づいていれば……カイルを助けられたかもしれないのに……」
「違いますっ……! 勇者様のせいじゃない……っ! 勇者様は悪くないです……っ!」
アーシャはミナトの胸に顔を埋めたまま、必死に首を振った。
その涙が、外套の布地を通して、ミナトの肌へと温かく染み込んでくる。
――ああ。
ミナトは目を細め、アーシャのほどけた金茶色の髪に、そっと指を滑らせた。
泥の混じる髪から、乾いた干し草と、あの甘く清涼な薬草の香りが立ちのぼってくる。
カイルを殺し、崖下へと投げ落としたその手で、娘の柔らかな頭を、優しく撫でる。
腕の中で、哀れな娘が震えている。
婚約者を殺した男の胸にすがりつき、その男を唯一の救いと信じて、泣いている。
周囲の村人たちが、その痛々しくも崇高な光景を見つめ、また涙を拭っていた。
なんと慈悲深い勇者様だろうか。哀れな身重の娘を、あんなにも深く思いやって――と。
ミナトはアーシャの頭を胸元へとさらに引き寄せ、静かに目を閉じた。
悲痛に耐えかねた聖者の顔を貼り付けたまま、心の中で、甘く冷たい独白を紡ぐ。
大丈夫だ、アーシャ。
お前の腹の子は、村のみんなが育ててくれる。
そして……お前のことは、俺が慰めてやるよ。
――あいつが、俺にそう頼んで逝ったんだからな。
ミナトの胸の中で、アーシャは幼子のようにすがりつき、いつまでも泣き続けていた。




