07.当然の報い①
その朝、谷には薄く霜が降りていた。
山の頂を白く染めた雪は、日ごとに裾野へと這い下りてきている。あとひと月もしないうちに、峠は根雪に閉ざされるだろう。
冬が訪れる前の、最後の放牧の季節だった。
ミナトは、谷の上の草地へと続く山道の途中で、腕を組んで佇んでいた。
背中を預けた灰色の岩肌から、刺すような冷気が衣服を通して伝わってくる。だが、黒獣の爪に貫かれてなお蘇り、人ならざる生命力を宿したその肉体は、寒さに震えることすら忘れていた。
やがて、朝靄の立ち込める小道の向こうから、澄んだ鈴の音が近づいてきた。
からん、からん、と首に真鍮の鈴を下げた、山羊の群れ。
その最後尾を、一本の細い木杖を手にした、ひょろりと背の高い男が、白い息を弾ませながら歩いてくる。
カイルだった。
「あれ……? 勇者様?」
ミナトの姿に気づくと、カイルは目を丸くして足を止めた。
それから慌てたように杖を脇に抱え直し、深々と頭を下げる。
「お、おはようございます! こんな朝早くに、どうなさったんですか? 何か探し物でも……」
「ああ。昨日、誰かが尾根の向こうで熊の足跡を見かけたって言っててな」
ミナトは何でもない世間話のように肩をすくめ、穏やかな笑みを口元に浮かべた。
声の調子、眉の下げ方、親しみを感じさせる吐息の混ぜ方――そのすべてが、村人たちが全幅の信頼を寄せる『心優しき勇者様』のそれだった。
「冬眠前の熊は気が立ってるし、腹を空かせて獲物を探してる。念のため、上の草地まで見回っておこうと思ってな。お前、放牧に行くだろ。ついでだ、一緒に行こうと思って待ってたんだ」
「ほ、本当ですか……なんてお優しい! ありがとうございます、勇者様がついていてくださるなら安心です!」
カイルは、ぱっと顔を輝かせた。
どこまでも無防備で、純朴で、まっすぐな目。
刈り入れの祝いの宴の夜、赤子のように無垢な顔で、ミナトに「二人目は、ぜひ勇者様の子を」と言い放ったときと、まったく同じ目だった。
(……このガキは、本当に何も分かっていない)
***
山道は、上の草地へ向かう途中で二手に分かれる。
山羊の群れが毎日通る、広く踏み固められた本道と、尾根の岩場を抜けて沢へと下りていく、険しい獣道だ。
獣道の先にあるのは、村の狩人たちですら『首折れ谷』と呼んで滅多に足を踏み入れない、切り立った断崖だった。
「足跡があったのは、あっちの獣道のほうらしい」
ミナトが顎で示すと、カイルは歩みを緩め、わずかに眉を寄せた。
「あ……でも、山羊たちが……」
「草地まではもう一本道だろ。群れは先に行かせておけばいい。あいつらも、いつもの場所なら勝手に草を食むさ。念のため、道沿いに熊の気配がないかだけ確かめさせてくれ」
「……そう、ですね。わかりました。群れを追いやったら、すぐお供します」
カイルは、何の疑いもなく頷いた。
杖を振って山羊の群れを本道へと送り出すと、足早にミナトの後を追って、細い獣道へと踏み込んでくる。
疑う余地など、最初からカイルの頭の片隅にすら存在しなかった。
自分たちを黒獣の恐怖から救い出し、畑を耕し、病人を気遣ってくれる、偉大な勇者様……。
獣道は、すぐに鬱蒼とした針葉樹の森へと吸い込まれていった。
頭上を覆う松や檜の枝が青白い朝の光を遮り、凍てついた落ち葉が、靴の底でざくざくと硬い音を立てる。
背後で遠ざかっていた山羊の鈴の音は、やがて木々のざわめきに呑まれて、完全に途絶えた。
周囲を満たすのは、冷たい風の音と、足元の深いところからかすかに響いてくる、沢の轟音だけだ。
カイルは、歩きながらよく喋った。
沈黙を埋めるためではない。胸の内に溢れる幸福を、誰かに分け与えたくてたまらない――そんな様子だった。
「春の成人の儀が終わったら、すぐに式を挙げるつもりなんです。今、親父と一緒に裏山の丸太を切り出してて……三人の小さな家を建ててるんですよ」
「……そうか」
「アーシャの腹の子が生まれる前には、なんとか屋根を葺き終えたくて。……あいつ、毎晩お腹を撫でながら、外の世界の話をしてるんです。『この山を越えた先にはね、白くて綺麗な街があって、見たこともない草花がたくさんあるんだよ』って。ははっ、アーシャのやつ、谷の外なんて出たこともないくせに」
カイルは照れくさそうに頭を掻き、白い息を、笑い声と一緒に吐き出した。
「男の子だったら、俺が山羊の追い方を仕込みます。女の子だったら、婆ちゃんの薬草採りを手伝わせたいなって……。勇者様、俺、本当に幸せなんです。黒獣を倒して、谷を平和にしてくださった勇者様のおかげです」
前を歩くカイルの後頭部を、ミナトは無言で見つめていた。
(外の世界の夢を見せたのは、俺だ)
村長の家の者を除けば、村の若い世代でただ一人、文字が読める娘だった。娯楽のないこの寒村で、集会所の書庫に通い詰めては、ミナトと一緒に古い地誌や図譜の頁をめくり、山脈の向こうにある広大な世界や、遠い街並みに胸を躍らせていた。
窓辺に腰掛け、目をきらきらと輝かせて、地誌の挿絵を一緒に覗き込んできたあの娘。
その本の世界を語り合い、この狭い谷の先にある広がりを教えてやったのは、ミナトだった。
あの娘はそれを、この男の腕の中で、この男の子を宿した腹に語り聞かせているのだ。
ミナトの胸の内で、冷たい針のような感情が、ちくりと刺さった。
だが、それは激しい憤怒には変わらなかった。
代わりに訪れたのは、ぞっとするほど透き通った、底知れぬ静寂だった。
(家か。婚礼か。子どもの将来か……)
カイルが言葉を紡ぐたびに、ミナトの脳裏では、そのささやかな未来の絵図が、ひとつ、またひとつと、冷酷に塗り潰されていく。
これからこの男に起きることを思えば、その無邪気な語り口は、あまりにも滑稽で、哀れで――そして、甘美な前菜に思えた。
***
針葉樹林が途切れ、視界が唐突に開けた。
首折れ谷の、断崖の縁だった。
眼下には、十数丈もの切り立った灰色の岩肌が、ほとんど垂直に落ち込んでいる。
その谷底には、刃物のように尖った巨岩が乱立し、雪解け水の混じる灰色の濁流が、白い牙を剥き出しにして、轟音を立てて渦巻いていた。落ちれば、いかなる人間であれ、五体の原形を留めることはできない。
「勇者様? 足跡、このあたりですか……?」
断崖の縁の数歩手前で、カイルが不思議そうに振り返った。
その顔には、何の警戒もなかった。
その瞬間、ミナトの足が動いた。
溜めも、気配の前触れもなかった。
人体の限界を遥かに超えた剛脚が、横薙ぎに閃く。硬い革のつま先が、カイルの左の脛を、真横から正確に捉えた。
――ごきり。
凍った生木を太い丸太で叩き折ったような、鈍く湿った破砕音が響いた。
「――っ、ぎ、あ゛ぁあああああっ!?」
カイルの身体が真横に吹き飛び、霜の降りた地面に叩きつけられた。
何が起きたのか理解できず、カイルは泥の中で目を白黒させた。
だが、視線を自分の足元へ落とした瞬間、その顔から、血の気が完全に引いた。
脛の骨が完全に断ち折れ、皮膚を内側から突き破らんばかりに、あり得ない『く』の字を描いて曲がっている。破れたズボンの布地が、じわりと赤黒い血で染まり始めていた。
「あ、足が、足がああぁっ……!? な、なんで……っ、ゆ、勇者様……っ、なにを……っ!?」
激痛と恐怖で引き攣った悲鳴を上げるカイルに、ミナトは一言も返さなかった。
倒れ伏すカイルの襟首を無造作に掴み上げると、まるで仕留めた獲物を運ぶように、獣道からは死角になる大岩の陰へと引きずっていく。折れた脚の踵が地面を擦り、凍った落ち葉の上に、赤黒い血と泥の筋が引かれた。
大岩の側面に背中を叩きつけられたカイルは、歯の根をガチガチと鳴らしていた。
額からは脂汗が吹き出し、土気色の顔で、狂気でも見るようにミナトを見上げている。
「ゆ、勇者様……っ、俺、何か……何か、気に障ることを……っ!」
「アーシャとは、いつからだ」
ミナトの声は、信じられないほど静かだった。
怒声でも、詰問でもない。ただの事実確認のような、平坦で冷たい響き。
「……え……?」
「アーシャと、いつからそういう仲になったのかと聞いている」
「な、なんで、そんな……っ」
ミナトはそれ以上言葉を重ねず、カイルの折れた左脛の上に、靴の踵を静かに乗せた。
そして、わずかに体重を沈めた。
「ぎゃあああああああああああっ!!」
擦れ合う骨と骨の軋み。引き裂かれる肉の激痛に、カイルの喉が、張り裂けんばかりの絶叫を吐き出した。
背中を反らせ、痙攣し、両手でミナトの脚を押しのけようとするが、大木のようにびくともしない。
叫び声は森の木々に跳ね返り、やがて沢の轟音に掻き消されていく。ここなら、いくら喚き散らそうと、村の誰の耳にも届かない。
「いつからだ」
「な、夏っ……! 夏ですっ……! 夏の祭りの、夜っ……!」
カイルは涙と鼻水を垂れ流しながら、壊れた玩具のように叫んだ。
「篝火のあと……二人で、川原に行って……っ! アーシャが、ずっと好きだったって言ってくれて……っ! だから……っ!」
夏祭りの夜。
ミナトの記憶の糸が、手繰り寄せられる。
篝火の熱気の中、アーシャがミナトを見つけて、嬉しそうに手を振っていた。
――その足で、川原へ行き、この男の腕の中に飛び込んだのだ。
「……話せ」
「え……」
「その夜のことだ。最初から、全部」
カイルは、意味が分からないというように、涙で濡れた目をしばたたかせた。
ミナトは、踵をほんの少しだけ傾けた。折れた骨の断面同士が、肉の中でぎしりと擦れ合う。
「ひぎぃっ……! は、はなしますっ、はなしますからぁっ……!」
「最初に、あいつは何と言った」
「さ、さむいねって……っ。かわらの、くさのうえで……アーシャが、ふるえてて……意外とさむいね、って、わらって……っ」
「それで」
「お、おれの、うわぎを、しいて……そのうえに、すわらせて……っ」
ミナトは、カイルの前にしゃがみ込んだ。
踵は、脛の上に乗せたままだった。膝に頬杖をつき、子どもが寝物語をせがむような顔で、カイルの顔を覗き込む。
「髪は」
「……か、み……?」
「あいつの髪だ。二つに結ってるだろう。ほどいたのか」
「ほ、ほどいて、ません……っ。そのまま、で……」
「そうか」
ミナトは、満足そうに小さく頷いた。
「そうか。ほどいてないのか」
カイルの喉が、ひくりと引き攣った。
ミナトは気にした様子もなく、続きを促すように、指先で軽くカイルの膝を叩いた。
「それから」
「……そ、それから……くちづけ、して……。アーシャ、ずっと、ふるえてて……こわいって……でも、カイルなら、いいって……っ」
「怖がってたのか」
「は、はい……っ。はじめて、だったから……っ」
「あいつは、どんな匂いがした」
ミナトは、親しい友人に旅の土産話でもせがむような、穏やかで親密な口調で訊いた。
「……え……?」
「いつもの、薬草の匂いか。乾いた草と、ミントの匂いか」
カイルの顔が引き攣った。
何を言われているのか理解できない――というより、理解した瞬間に心が耐えきれなくなるのを、本能で拒んでいるような目だった。
「な、なんで……そんなこと……っ」
「いいから答えろ」
踵に、じわりと体重がかかる。肉の中で、折れた骨の断面が擦れ合い、生々しい軋みを立てた。
「ひぎぃっ……! い、言います……っ、言いますから……っ! や、薬草の、匂いが……っ、いつもより、甘くて……っ!」
「そうか」
ミナトは満足そうに目を細めた。
まるで、これから買い取る家畜の毛並みでも確かめているかのような、どこまでも無機質で、ねっとりとした眼差しだった。
「……頼むから、もうやめてくれ……っ!」
カイルは、涙と泥に塗れた顔を激しく歪め、悲痛に叫んだ。
首折れ谷の底から吹き上げる冷たい突風が、二人の身体を激しく打ち据える。十数丈の断崖の底を流れる雪解け水の沢が、飢えた無数の獣のように咆哮し、岩肌をびりびりと震わせていた。
「……俺たち二人の……思い出を、そんなふうに、汚さないでくれ……っ!」
「汚す?」
ミナトは心外そうに眉を寄せ、ふっと薄い笑みを浮かべた。
「何を言ってるんだ。お前が言ったんだろ。『二人目は、ぜひ勇者様の子を』って。だったら、あいつがどんな娘で、何をされたら喜ぶのか、前もって知っておかないとな。……教えてくれよ、カイル。先輩としてさ」
その言葉の底知れぬ狂気と、滲み出る執着の汚濁に、カイルは息を呑んだ。
自分たちが崇め、感謝し、神のごとく信じていた英雄の正体。その深淵を覗き込んでしまった絶望に、カイルの全身から血の気が引いていく。
「泣いたか」
ミナトは構わず、穏やかな声で問いを重ねた。
「……な、なきました……。いたいって……すこしだけ、ないて……っ。でも、すぐに、わらって……」
「何と言って笑った」
カイルは、答えなかった。
唇を噛み、目を固く閉じて、首を横に振る。答えてしまえば、アーシャの純粋な笑顔までこの怪物に貪り食われてしまうと、魂の底で叫んでいた。
ミナトは、ため息をひとつついた。
そして、踵に、ゆっくりと体重を乗せた。
「あ゛っ、あ゛ぁあああっ、いうっ、いいますっ、いいますぅぅっ……!!」
「何と言った」
「う、うれしいって……っ! カイルと、いっしょになれて、うれしいって……っ!」
――うれしい。
その言葉を、ミナトはゆっくりと、口の中で転がした。
「そうか。お前に、そんなふうに笑ったのか」
そして、カイルの顔を覗き込み、冷ややかに命じた。
「声は」
「……え……」
「あいつは、どんな声で、それを言った」
「ど、どんなって……」
「真似してみろ」
カイルの顔から、表情が抜け落ちた。
「あいつの言ったとおりに、あいつの声で、言ってみろ。……できるだろう。ずっと隣の家で、聞いてきた声なんだから」
カイルの唇が、わなわなと震えた。
涙が、鼻水が、泥と混じって顎から滴り落ちる。
ミナトは、ただ、待っていた。穏やかな、どこまでも穏やかな顔で。踵を、脛の上に乗せたまま。
「……か……カイル……」
嗚咽に塗れた、掠れた声だった。
男の喉から、必死に、愛した娘の声色を絞り出そうとしていた。
「……カイル、だいすき……。うれしい……。……ずっと、いっしょに、いてね……」
言い終えた瞬間、カイルは顔をくしゃくしゃに歪め、声を上げて泣き崩れた。
ミナトは、目を閉じていた。
まるで、遠くの音楽に耳を澄ますように。
しばらくそうしてから、ミナトはゆっくりと目を開け、唇だけで、その言葉をなぞった。
――ずっと、いっしょに、いてね。
「……いい声だなぁ」
ミナトは、ふっと微笑んだ。
「もう一回」
「……ぇ……」
「もう一回、言え。今度は、もっとあいつに似せて」
カイルの目から、最後の光が抜け落ちていくのが分かった。
この男が、自分に何をしているのか。何のために、こんなことをさせているのか。そのすべてが理解できないまま、理解できないものへの根源的な恐怖だけが、その瞳を塗り潰していく。
「カイル……だいすき……っ、うれしい……っ、ずっと、いっしょに……っ」
三度、言わせた。
四度目で、カイルの声は、もう言葉の形を成さなくなった。
「……あいつは、俺のことを何と言っていた」
ミナトは何事もなかったかのように立ち上がり、踵にかける力を緩めることなく、さらに問い詰めた。
「あいつはお前に、俺のことを何と話していた」
「い、言いますっ、言いますからっ……踵を、どけて……っ!」
カイルは泥に塗れた指で地面を掻きむしり、息も絶え絶えに言葉を絞り出した。
「ゆ、勇者様は……優しい、お兄さんみたいだって……っ! 村で本の話ができるのは勇者様だけだって……書庫で一緒に地誌を開いて、外の珍しい世界の話をしてくれて、あんなお兄さんがいたらいいのにって……! だから、お腹の子も……勇者様みたいに物知りで立派な子になってほしいって……っ! ……俺も、そうだね……って!」
――お兄さん。
カイルの口から零れ落ちたその言葉を聞いた瞬間、ミナトの胸の内で、何かがカチリと音を立てて、冷え切った。
激昂も、狼狽もなかった。
ただ、絶対的な侮蔑と、研ぎ澄まされた冷酷さだけが、視界のすべてを覆い尽くした。
(お兄さん、か)
あの娘にとって、自分は、ただの『本の話ができる都合のいい話し相手』に過ぎなかったのだ。
文字が読めることを誇りに思い、外の世界を夢見ていた小娘。村で地誌の話ができる相手が自分しかいないから近づいてきただけで、男として惹かれていたからではない。珍しい話を聞かせてくれる『優しいお兄さん』として、無邪気に懐いていただけだった。
自分を男として意識したことなど、一度もなかった。書庫で二人きりになり、身を寄せて頁をめくりながら語り合った外の世界の広さを、あの娘は、隣の幼なじみの腕の中で反芻し、その男の子を宿した腹に語りかけていたのだ。
ふ、とミナトの口元から、吐息が漏れた。
それは、笑みだった。
怒り狂うのではなく、あまりの滑稽さに、心の底から湧き上がった嘲笑だった。
「ゆ、勇者様……?」
カイルが、恐怖に引き攣った顔で見上げてくる。
その目に映るミナトの瞳には、生きた人間の感情など、微塵も宿っていなかった。爬虫類のように乾き、深く淀んだ冷気だけが揺らめいている。
「お、お願いです……っ! 何でもしますから……っ! アーシャには……アーシャには俺が必要なんです! お腹に子どもがいるんです! 俺が死んだら、あいつらは生きていけない……っ!」
カイルは額を凍った泥に擦りつけ、必死に命乞いをした。
折れた脚の激痛に耐えながら、ミナトの靴に額を押し当て、慈悲を乞う。
ミナトは静かに踵を引くと、カイルの目の前に屈み込んだ。
そして顔を近づけ、耳元でそっと囁いた。
宴の夜、村人たちの前でカイルが見せた、あの恩着せがましい笑顔を真似て。
「心配するなよ、カイル」
その声は、どこまでも甘く、穏やかだった。
「この村じゃ、子は村の子だ。父親がいなくたって、みんなで育てる。……そうだろ?」
「……え……?」
「それに、アーシャのことも心配いらない。……二人目は勇者様に、って、お前が頼んだんだろ? ――約束どおり、あいつの面倒は、俺がたっぷり見てやるよ」
カイルの呼吸が、止まった。
「お前が死んだあと、あいつの涙を拭いてやるのは俺だ。お前の名前を呼んで泣くあいつが、最後にすがりつくのは、この俺だ。生まれてくるお前の子にも、しっかり教えてやるよ。『お前の父親は、間抜けにも足を踏み外して谷底に落ちた役立たずだった』ってな」
「あ……が……っ、お、まえ……っ……!!」
カイルの顔から、すべての人間らしい表情が抜け落ち、純粋な絶望と憎悪へと染まった。
それが、この男の人生最後の表情となった。
ミナトの鋼のような両手が、カイルの喉笛を、正面から鷲掴みにした。
***




