06.黒い衝動②
ひとり、ミナトが特に気にかけている娘がいた。
アーシャという。
村はずれに住む薬師の婆さんの孫娘で、来年の春に成人の儀を迎える。
蜂蜜を溶かしたような明るい金茶色の髪を、頭の両側の高い位置で二つに結い、細い紐で留めている。歩くたびに、その二房の髪がぴょこぴょこと跳ねて、まるで子犬の耳のようだった。
大きな翠色の瞳は、いつも好奇心できらきらと輝いている。小柄で、表情がくるくると変わり、笑うと右の頬にだけ小さなえくぼができた。指先はいつも薬草の汁で薄く緑に染まり、近づくと、乾いた草とミントのような香りがした。
そして、とにかくよく喋る娘だった。
「勇者様! ねえ、勇者様! 今日は何の本を読んでるんですか? あ、それ、王国の地誌ですよね? 南の海が載ってるやつ! 海って、本当に向こう岸が見えないくらい広いんですかね? 水がしょっぱいって本当ですかね?」
ミナトが書庫にいると、アーシャはどこからともなく現れて、窓辺に頬杖をついて喋り始める。
祖母の薬草摘みを手伝う合間に、こっそり抜け出してくるらしい。祖母から読み書きを仕込まれた、村でも数少ない文字の読める娘で、覚えたばかりの薬草の名前を、ミナトに得意げに披露してくれることもあった。
「勇者様って、記憶がないんですよね? でも、ときどき、すごく遠くを見てるような顔をしますよねっ。もしかして、海の近くの生まれだったんじゃないですか? 私、いつか海を見に行ってみたいんです。王都も見てみたいし、南の砂の国も! 勇者様、いつか一緒に行ってくれます?」
他愛のない話だった。
だが、娯楽の少ないこの村で、アーシャのお喋りは、ミナトにとって不思議と心地よい時間だった。
サリヤとも違う。夜の女たちとも違う。
何の見返りも求めず、ただ楽しそうにミナトに話しかけてくる、屈託のない娘。
(来年の春、か)
アーシャが成人の儀を迎えたら、すぐにでも寝室に呼ぼう。
あのよく喋る口が、自分の腕の中でどんなふうに言葉を失うのか。二つに結った髪をほどいたら、どんな顔をするのか。
ミナトは、その日を密かに楽しみにしていた。
アーシャも、きっとそれを望んでいるはずだった。
あれだけ毎日、自分から会いにくるのだから。
***
その知らせは、刈り入れの祝いの宴の夜にもたらされた。
集会所の前の広場に篝火が焚かれ、村人たちが総出で集まっていた。
焼いた猪肉と蕎麦の団子、樽ごと出された果実酒。子どもたちが篝火の周りを走り回り、男たちは肩を組んで古い歌を歌っている。
ミナトは上座に据えられた丸太の椅子に腰を下ろし、次々と注がれる酒を受けていた。
そこへ、村長が若い二人を連れてやってきた。
一人は、アーシャだった。
いつもの二つ結いの髪に、今夜は祭りのための赤い紐を結んでいる。だが、いつものお喋りはどこへやら、頬を真っ赤に染めて、もじもじと俯いていた。
もう一人は、若い男だった。
カイル。羊飼いで、アーシャとは家が隣同士の幼なじみだという。
背はひょろりと高く、癖のある黒髪を無造作に後ろへ撫でつけている。顔立ちは整っているが、どこか気の弱そうな、人のよさそうな目をした男だった。
ミナトも、顔くらいは知っている。山羊の群れを追って、毎日谷の上の草地へ登っていく姿を、何度か見かけたことがあった。
カイルはアーシャの手をしっかりと握り、緊張した面持ちで、ミナトの前に進み出た。
「勇者様。……ご報告がございます」
村長が、皺の深い顔をほころばせて、二人の肩に手を置いた。
「勇者様。このアーシャが、カイルの子を身籠もりましてな」
――一瞬、篝火の音が遠くなった。
「成人の儀の前に、とは、まあ、薬師の婆さんにはたっぷり絞られたようですがの。はっはっは。じゃが、子は村の宝。めでたいことに変わりはござらん。春の成人の儀を待って、二人は夫婦になると決めたそうで。それで、どうしても勇者様に、真っ先にご報告したいと申しましてな」
周りで聞いていた村人たちから、わっと歓声が上がった。
女たちがアーシャに駆け寄り、口々に祝いの言葉をかける。男たちはカイルの背中をばんばんと叩き、「やりやがったな、この野郎!」と笑いながら酒を注いでいる。
アーシャが、おずおずと顔を上げた。
翠色の瞳が、涙で潤んでいた。幸せそうな、本当に幸せそうな笑顔だった。
「勇者様……。私、カイルとずっと、小さい頃から一緒で……。大人になったら結婚しようねって、ずっと約束してて……。それで、その……成人の儀まで、待てなくて……」
えへへ、と照れくさそうに、右の頬にえくぼを浮かべる。
いつもミナトに向けていたのと、同じ笑顔だった。
「……そうか」
ミナトは、笑った。
「おめでとう、アーシャ。カイルも。……元気な子を産めよ」
自分の口から出た声が、ひどく遠くに聞こえた。
手にした木の杯を、知らず知らずのうちに握りしめていた。分厚い木の縁が、指の下でみしりと小さく軋む。
「ありがとうございます、勇者様!」
アーシャがぱあっと顔を輝かせ、カイルの腕にしがみついた。
カイルも、ほっとしたように肩の力を抜き、それから、ひどく真剣な顔でミナトに向き直った。
「勇者様。……あの、ひとつだけ、お願いがあるんです」
「……なんだ」
「この子は、俺とアーシャの子として、大事に育てます。でも……二人目は」
カイルは、まっすぐな目でミナトを見た。
何の悪意もない、どこまでも誠実な、人のいい目だった。
「二人目は、ぜひ、勇者様の子を、アーシャに授けてやってください。勇者様の血を引く子を、俺たちの家にも授けていただけたら……こんなにありがたいことはありません」
周りの村人たちが、「おお」と感心したようにどよめいた。
さすがはカイルだ、よく分かっている、立派な心がけだ――と、口々に褒めそやす声が聞こえる。
ミナトは、笑みを崩さなかった。
「……ああ。任せとけ」
それだけ言って、杯の酒を一息に呷った。
果実酒の甘さが、まるで泥水のように喉に引っかかった。
――二人目は。
カイルの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
――二人目は、ぜひ、勇者様の子を。
まるで。
まるで、余り物を恵んでやるとでもいうように。
最初の一人は自分のもので、二人目なら勇者様にも分けてさしあげます、とでもいうように。
あいつは、自分が何を言ったのか、まるで分かっていない。
分かっていないからこそ、あんなに誠実な目ができるのだ。
篝火の向こうで、カイルがアーシャの腰に腕を回し、その耳元で何か囁いた。アーシャがくすぐったそうに身をよじり、カイルの胸を軽く叩いて笑う。
ミナトの知らない、アーシャの顔だった。
***
宴が終わり、自分の家に戻ると、寝室にはもう女たちが待っていた。
今夜の輪番は、リンネとミレイ、それに若い娘が二人。
金色の波打つ髪のリンネは、相変わらず人懐っこい笑顔で、ミナトが戸口をくぐるなり首に飛びついてくる。
木こりの妻のミレイは、豊満な身体を薄い寝間着に包み、暖炉の前でゆったりと髪を梳いていた。
ミレイには、今も子ができない。
夫のガルドとの間にできないのならと、二年近くもミナトのもとへ通い続けてきた。それでも、授からない。勇者様に抱かれて身籠もらない女は、この村でミレイただ一人だった。
だからこそ、輪番が回ってくるたびに、ミレイは誰よりも貪欲にミナトを求めた。
「勇者様、おかえりなさいっ! 宴、楽しかったですね! アーシャちゃん、おめでたですって! カイルってば、ずーっとそわそわしちゃって――」
リンネの言葉が、終わらなかった。
ミナトが、無言でその手首を掴んだからだ。
「きゃっ……!? ゆ、勇者様……?」
リンネが目を丸くして、ミナトを見上げる。
ミナトは何も言わなかった。
ただ、細い手首を掴んだ指に、ゆっくりと力を込めていった。
「いっ……た、いたい、です、ゆうしゃさま……っ、て、てくび……っ」
ミナトは、聞いていなかった。
いや、聞こえてはいた。ただ、どうでもよかった。
自分の手の中で、細い骨がみしりと軋む。苦痛に歪んでいくリンネの顔を見下ろしていると、腹の底でとぐろを巻いていた何かが、少しだけ鎮まるような気がした。
「黙れ」
低く吐き捨てて、ミナトは手首を払うように放した。
それだけの動きで、リンネの身体は軽々と吹き飛び、寝台の縁に肩を打ちつけて、床に崩れ落ちた。
「あ……ぅ……っ」
リンネは床の上で身体を丸め、自分の手首を胸元に抱え込んだ。
白い手首に、ミナトの指の形が、くっきりと赤く残っていた。
見上げてくる目に、涙が溜まっている。何が起きたのか分からない、という顔だった。
「勇者様……今夜は、ずいぶんと……」
ミレイが、髪を梳く手を止めて、少しだけ目を見開いていた。
だが、その頬は上気し、唇は濡れて光っている。
「……ふふ。そんなに荒れてらっしゃるなら……私に、ぶつけてくださいな。どれだけ激しくしてくださっても、構いませんのよ?」
ミレイは自分から寝間着の紐をほどき、ミナトの手を取って、寝台へと引き寄せた。
ミナトは、その手を振り払いもせず、ミレイの肩を掴んで寝台に引き倒した。
ミレイが、期待に濡れた目で、くすりと笑う。
――その夜、寝室の灯りは、明け方まで消えなかった。
若い娘たちは、寝台の隅で身を寄せ合っていた。
一人は頬を赤く染めて、ミナトの背中を、うっとりと見つめている。
だが、もう一人は、毛布を胸元までかき寄せ、蒼い顔をして、床にうずくまったままのリンネの赤くなった手首と、ミナトの横顔とを、何度も見比べていた。
ミナトの顔には、何の表情もなかった。
笑ってもいない。怒ってもいない。
ただ、暖炉の火を映した目だけが、ひどく冷たく、底のない穴のように暗かった。
――その夜、ミナトは一言も喋らなかった。
***
明け方。
女たちが疲れ果てて眠りに落ちた頃、ミナトはひとり、居間の暖炉の前に座っていた。
熾火が、灰の下でちろちろと赤く息づいている。
寝室からは、女たちの寝息が聞こえる。ミレイは満足しきった顔で、大の字になって眠っていた。頬を染めていた若い娘は、「今夜の勇者様、なんだか怖いくらいだった」と、うっとりした声で呟いてから眠りについた。
だが、リンネは――寝る前に一度だけ、ミナトの顔を見上げて、何か言いかけて、やめた。それから、寝台の端で、ミナトに背を向けて、毛布の中で小さく丸くなった。
蒼い顔をしていたもう一人の娘は、夜が明ける前に、ひとりで黙って帰っていった。
ミナトは、自分の手を見下ろした。
大きな手だ。剣を握り、黒獣を斬り伏せ、大岩を持ち上げる手。そして昨夜、リンネの細い手首を握り潰しかけた手。
指の腹に、まだ、あの手首の細さが残っている。
(……何をやってるんだ、俺は)
一瞬だけ、そんな声が、頭のどこかで聞こえた。
だが、それはすぐに、もっと大きな、もっと黒いものに呑み込まれた。
アーシャの笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。
書庫の窓辺に頬杖をついて、「勇者様、勇者様」と楽しそうに喋っていた顔。二つに結った髪が、ぴょこぴょこと跳ねていた。翠色の瞳が、いつもミナトだけを映して、きらきらと輝いていた。
――と、思っていた。
あの笑顔は、ミナトのものではなかった。
あの瞳が見ていたのは、最初から、隣の家の幼なじみだった。
毎日書庫に来ていたのも、全部、ただの好奇心だった。勇者様という珍しい生き物への、子どもじみた興味。それだけだった。
あの娘は、書庫でミナトに海の話をせがんだその足で、カイルのところへ帰っていったのだ。そして、ミナトの知らない顔で笑い、ミナトの知らない声で、あの男の名を呼んでいたのだ。
(……ふざけるな)
腹の底から、どろりとした熱いものがせり上がってくる。
胃の腑が焼けるようだった。喉の奥に、酸っぱいものが込み上げる。
――思い出す。
元の世界にいた頃のことを。
入社して三年目、同じ部署にいた後輩の女の子。いつも笑顔で話しかけてきて、残業のときには差し入れをくれて、「先輩、先輩」と懐いてきた。
好かれていると思っていた。
ある日、その子が、同期の要領のいい男と腕を組んで歩いているのを見た。翌年、二人は結婚した。結婚式の招待状が届いた。ミナトは出席して、笑顔で祝福して、帰りの駅のトイレで、ひとりで吐いた。
いつもそうだった。
何も持っていない男は、いつも何も手に入れられない。誰かのおこぼれを、愛想笑いで受け取るだけだ。
だが、今は違う。
今の俺には、力がある。この村を救った。この村の誰よりも強い。この村のすべてを、望むままに手に入れてきた。
村の女は、みんな俺のものだ。
それなのに。
(――二人目は、勇者様の子を)
カイルの、あの誠実な、人のいい目。
あれは、施しだった。
持てる者が、持たざる者に恵んでやる、施しの目だった。
黒獣が生きていた頃なら、山羊を追うしか能のない羊飼いの小僧など、真っ先に攫われていてもおかしくなかった。あいつが今、のうのうと生きて、幼なじみと結ばれて、子を授かって、村中から祝福されているのは、誰のおかげだ。
俺だ。
全部、俺が与えてやったものだ。
その俺に向かって――二人目なら、分けてやる、だと。
暖炉の熾火を見つめるミナトの目は、乾ききっていた。
(……あいつがいなければ)
ふと、その考えが浮かんだ。
浮かんだ瞬間、驚くほど静かに、すとんと胸の底に落ちた。
カイルがいなければ。
アーシャの腹の子は、父親を失う。この村では、子は村の子だ。父親がいなくとも、村じゅうで育てる。誰も困りはしない。
そして、アーシャは、ひとりになる。
ひとりになった娘を慰めてやれるのは、誰だ。
この村で、誰よりも強く、誰よりも崇められている男は、誰だ。
山には、獣がいる。崖がある。冬になれば、雪が谷を閉ざす。
羊飼いが山で足を滑らせることも、冬眠前の飢えた熊に出くわすことも、この村では、決して珍しいことではない。
誰も疑わない。
疑うはずがない。
この村を救った勇者様が、村の若者に手をかけるなどと、いったい誰が思うだろう。
ミナトは、ゆっくりと顔を上げた。
部屋の隅の暗がりに、あの大剣が立てかけられている。
黒獣を斬ったきり、二年近く、一度も鞘から抜いていない剣。
――殺す。
言葉にしてみると、それは驚くほど簡単なことのように思えた。
大岩を持ち上げるより、ずっと簡単だ。
あの細い首など、この手なら、片手で足りる。剣など必要ない。
暖炉の熾火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
ミナトは口元に、ほんのわずかな笑みを浮かべた。
それは、この村に来て以来、誰にも見せたことのない――元の世界にいた頃でさえ、鏡の中に見たことのない――ひどく静かで、ひどく冷たい笑みだった。
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