03.英雄の日常①
――メェェ、と間の抜けた山羊の鳴き声で、ミナトは目を覚ました。
鎧戸の隙間から、薄青い朝の光が細く差し込んでいる。
暖炉の薪はとっくに熾火となり、灰の下で微かに赤く息づいているだけだった。それでも部屋が冷え切らないのは、ミナトの身体の上にも横にも足元にも、幾重もの柔らかな温もりが、みっしりと折り重なっているからだ。
右腕を枕にしているのは、金色の波打つ髪の娘――リンネだった。
輪番に名を連ねて久しい、村でもとびきり人懐っこい娘だ。昨夜、何度もミナトの唇を奪いにきたのも彼女だった。今は子どものようにすうすうと寝息を立て、半開きの唇の端から、よだれを一筋、ミナトの二の腕に垂らしている。
左の脇腹には、木こりの妻ミレイが、豊かな胸を押し付けるようにして丸まっていた。
さらに足元では、娘が二人、互いの脚を絡めたまま、ミナトの脛を抱き枕にして眠っている。
サリヤの姿は、もうなかった。
(……また、暗いうちに帰ったのか)
サリヤは今も、村長である父親の家で暮らしている。
息子のリオもそこにいる。夜、サリヤがこの家に来るときは、リオを自分の母親に預けてくるのだが、まだ乳飲み子だ。夜明け前には目を覚まして、乳を求めてぐずり出す。だから、どれほど甘い夜を過ごしても、サリヤは空が白み始める頃にはそっと寝台を抜け出し、冷たい夜気の中を実家へ帰っていくのだった。
苦笑して、ミナトはそっと腕を引き抜こうとした。
途端に、リンネがむずかるように眉を寄せて、ミナトの腕にしがみついてくる。
「ん……やぁ……ミナトさま、いっちゃ、やだぁ……」
「起きてるのか?」
「……ねてます……」
寝ぼけ声のまま、リンネはミナトの胸板に頬ずりをして、ふにゃりと幸せそうに笑った。
反対側のミレイが、目を閉じたまま、くすくすと笑い声を漏らす。
「ふふ……勇者様ったら、朝からご立派……」
「ミレイさん、起きてたのか」
「いま起きましたぁ。……そろそろ、うちの人の朝ごはん、作ってあげなきゃ」
ミレイは名残惜しそうに毛布の上からミナトの胸をひと撫ですると、豊かな腰を揺らしながら寝台を降りた。
床に脱ぎ捨てた麻の肌着を拾い、慣れた手つきで頭からかぶる。窓からの光に、柔らかな身体の線がくっきりと透けて浮かんだ。
「それじゃ勇者様、また近いうちに。ガルドも、きっと喜びますわ」
ひらひらと手を振って、ミレイは寝室を出ていった。
夫のガルドは村いちばんの腕を持つ木こりで、熊のような大男だ。
ミナトはその背中を見送り、天井の太い梁を見上げて、深々と息を吐いた。
(喜ぶ、のか……。喜ぶんだろうな、この村だと)
一年経っても、ここだけはどうにも慣れない。
毛布の中で、もぞりとリンネが身じろぎした。
いつの間にか、その腕がミナトの首にするりと回されている。
「……リンネ。寝てるんじゃなかったのか」
「ねてます……ねてるけど……ミナトさまが、どっか、いっちゃうから……」
とろんとした目のまま、それでもいたずらっぽく笑って、リンネはミナトの唇に、ちゅ、と小さな口づけを落とした。
それから、もう一度。もう一度。
「しー……っ。ほかの子、おきちゃう……から……」
「自分から始めたんだろ」
「えへへ……だってぇ……」
くすくすと笑う声が、毛布の中にこもる。
ミナトは苦笑して、リンネの金色の頭を、毛布ごと胸に抱き寄せた。
――結局、ミナトが寝台を抜け出せたのは、それからたっぷり半刻も経ってからのことだった。
リンネはミナトの枕に頬をうずめ、満ち足りた顔で、ふにゃりと笑った。
「……えへへ……おはよう、ございます……ミナトさま……」
そして本当にそのまま、すうすうと二度寝を始めてしまった。
***
リンネを毛布ごとそっと寝台に戻し、顔を洗って外へ出ると、山の朝の冷気が肌を刺した。
吐く息が、うっすらと白い。秋も深まり、谷を囲む山々の頂には、もう初雪が白くかかっている。
ミナトの家は、村の中ほどの小高い場所に建っている。
一年前、村人たちが総出で巨木と石を切り出して建ててくれた家だ。太い丸太の壁に分厚い石の土台、広い寝室と暖炉付きの居間。村のどの家よりも広く、頑丈で、暖かい。
ただ、男ひとりで住むには広すぎるし、ミナトには炊事などろくにできない。だから朝飯は、坂を少し下った村長の家で食べるのが、いつの間にか決まりになっていた。
「おはようございます、勇者様。さあさあ、どうぞ。冷えましたでしょう」
戸口で出迎えてくれたのは、村長の妻――サリヤの母親のマルタだった。
ふくよかで、いつもにこにこと笑っている。娘とよく似た栗色の髪には、白いものがいくらか混じり始めていた。
土間の奥の竈には大鍋がかかり、麦と干し肉を山羊の乳で煮込んだ粥の、甘く香ばしい匂いが立ちこめている。
囲炉裏端では、サリヤがリオに乳をやっていた。
ゆったりとした麻の上衣の胸元をくつろげ、腕の中のリオに乳を含ませている。ミナトに気づくと、ちょっとだけ照れたように笑った。
「おはようございます、ミナト様」
「おはよう。……帰るとき、起こしてくれてもよかったのに」
「起こしましたよ? ミナト様、『んー』って言って、リンネちゃんのほうを向いちゃいましたけど」
「……悪い」
「ふふっ、いいんです。ぐっすり寝てるミナト様、可愛かったですから」
横で聞いていたマルタが、くつくつと肩を揺らして笑っている。
ミナトは決まり悪く頭を掻いて、囲炉裏端に腰を下ろした。
村長は、もう畑の見回りに出ているらしい。
マルタが木の椀にたっぷりと粥をよそい、チーズのかけらと刻んだ香草を散らしてくれる。熱い粥をすすると、冷えた身体に、腹の底からじんわりと温もりが広がった。
「ほら、リオ。お父様ですよ~」
乳を飲み終えたリオを、サリヤがミナトの腕に預けてくる。
初夏に生まれて、もうすぐ五ヶ月。母親譲りの柔らかな栗色の髪に、ミナトにそっくりだと村中で評判の、きりっとした眉。ずっしりと重く、乳と日向の匂いがした。
「あー、うー」
「おはよう、リオ。今日もいい顔してるな」
小さな手が伸びてきて、ミナトの鼻をむにっと掴んだ。
相変わらず、驚くほど力が強い。ミナトが大げさに顔をしかめてみせると、リオはきゃっきゃと声を上げて笑った。
「ミナト様、今日はどうなさるんです?」
サリヤが上衣の前を合わせながら尋ねてくる。
「ベン爺さんの畑に、こないだの大雨で崖から大岩が落ちてきたらしいんだ。様子を見て、どかせそうならどかしてくる」
「まあ……あの大岩ですか?」
竈の前で鍋をかき混ぜていたマルタが、振り返って目を丸くした。
「村の若い衆が集まって梃子をかけても、びくともしなかったって聞きましたよ。勇者様がお怪我でもされたら大変です」
「無理そうなら、すぐにやめますよ。ちょっと身体を動かしたいだけですから」
マルタは心配そうに眉を寄せたが、それ以上は止めなかった。
ミナトはリオをサリヤに返すと、粥の残りをかき込んで立ち上がった。
***
村長の家を出ると、谷を吹き抜ける澄んだ秋風が頬を撫でた。
谷の斜面を埋める段々畑では刈り入れが進み、まだ刈られていない蕎麦の畝が、重たげに実を揺らしている。
この村は、王国の北の果て――険しい山脈の懐に抱かれた、小さな谷の底にある。
冷たく清らかな川が谷の中央を貫き、石垣で築いた段々畑で麦や芋を育て、上の草地では山羊や羊を放牧して暮らしている。年に数回だけやってくる行商人の荷馬車から塩や鉄を仕入れる以外は、ほとんどすべてを自給自足で賄う、素朴な山村だ。
山を三日下れば石造りの城壁に囲まれた街があり、王都となれば、さらに馬車でひと月以上も先。外の世界のことは、行商人が運んでくる噂話で知るくらいのものだった。
この世界には魔物がいて、魔法が存在する。
だが、この村で魔物といえば、畑の芋を荒らす角兎くらいのものだ。三百年のあいだ村を苦しめ続けた《黒獣》が滅びて以来、谷は驚くほど平和だった。
魔法にしても、使えるのは村はずれに住む薬師の婆さんただ一人で、それも竈の焚きつけに小さな火を灯せる程度。「王都じゃ子どもでもできるってよ」と村の若者が笑えば、「子どもにできようが、この村でできるのはあたしだけだよ」と得意げに鼻を鳴らす――そんな長閑な村だった。
村人たちはミナトを救世の英雄として崇め、一切の労働をさせようとしない。
だが今のミナトの身体は、一日じっとしていると筋肉が疼いて落ち着かなくなるほどの、桁外れの活力を持て余していた。
石垣のあぜ道を下ってベン爺さんの畑へ向かうと、目当ての段の真ん中に、大人の背丈ほどもある巨岩が居座っていた。
先日の大雨で裏山の崖が崩れ、転がり落ちてきたものだ。刈り入れ間近の蕎麦の畝が、半分ほど押し潰されている。周りには折れた太い丸太が何本も転がっていて、村の男たちが総出で梃子をかけ、それでも動かせなかった跡が生々しく残っていた。
ミナトは大岩の底のわずかな隙間に両手をねじ込み、深く腰を落とした。
「ふんっ――!」
全身の筋肉が、鋼のように軋む。
ずず、ずずず……と重たい音を立てて、岩の底が土から剥がれた。食い込んでいた根や石を引きちぎりながら、巨岩がゆっくりと傾き、持ち上がっていく。
「う、動いた……!?」
「おい、嘘だろ……男十人がかりでもびくともしなかった岩だぞ……!」
遠巻きに見守っていた農夫たちが、口をあんぐりと開けている。
ミナトは巨岩を肩口で支えるようにして担ぎ上げると、一歩ずつ土を踏みしめて畑の端まで運び、石垣の外の涸れ沢へと転がし落とした。
ごろごろと斜面を転がった大岩が、沢底にどすんと鈍い音を立てて止まる。
額の汗を拭ったが、息はほとんど乱れていなかった。
(……我ながら、とんでもない馬力だな)
元の世界のミナトなら、米袋ひとつ担いで階段を上るだけで息が切れていた。
それが今や、重機顔負けだ。
「勇者様っ……! ああ、なんとお礼を申し上げたらいいか……!」
畑の持ち主のベン爺さんが、土まみれのまま駆け寄ってきて、ミナトの手を両手で握りしめた。
皺だらけの目尻に、涙が滲んでいる。
「あれが落ちてきたときは、今年の蕎麦はもう諦めるしかないと思うておりました……。これで畝を起こし直せます。孫たちに、冬のあいだ蕎麦粥を食わせてやれますわい」
「力になれてよかったよ、ベン爺さん」
「おい、婆さん! いちばんええチーズと、採れたての蜂蜜を持ってこい! 勇者様に持って帰っていただくんじゃ!」
家のほうから、腰の曲がった老婆が包みを抱えてよたよたと現れ、遠慮するミナトの手に押し付けるようにして渡してきた。
気づけば、鍬を担いだ男たちや籠を背負った女たち、鼻水を垂らした子どもたちが集まって、目を輝かせている。
その後もミナトは、崩れた土砂をかき出し、刈り取った大麦の束をまとめて納屋まで運び、崩れかけた石垣の石を積み直した。
以前の職場では、どれだけ身を粉にして働いても、礼のひとつも言われなかった。
それが今は、ほんの少し力を貸しただけで、村中の人々が心からの笑顔を向けてくれる。
照れくさくて、こそばゆくて――胸の奥が、じんわりと温かかった。
***
昼過ぎ。
ベン爺さんの家で昼飯までご馳走になったあと、ミナトは集会所の奥にある、小さな書庫に立ち寄った。
埃っぽい小部屋の壁一面に、百冊足らずの本が並んでいる。
先代の村長が趣味で街から少しずつ買い集めたもので、王国の地誌、薬草の図譜、昔の英雄譚、それに、なぜか一冊だけ紛れ込んでいる『はじめての魔法――王立学院初等科教本』。
村で文字をすらすらと読めるのは、村長や薬師の一家くらいのものだ。サリヤに読み書きを教わったミナトにとって、ほとんど誰も来ないこの部屋は、格好の読書室だった。
なにしろ、この村には娯楽というものがほとんどない。
祭りは年に数回。夜は灯りの油がもったいないので、日が沈めば皆さっさと寝床に入ってしまう――もっとも、すぐに眠るとは限らないが。
だから、窓辺の陽だまりに腰を下ろし、乾いた頁をめくりながら、見たこともない山脈や湖、遠い王都の街並みの挿絵を眺める。それが、ミナトにとって何よりの贅沢だった。
今日、棚から引き抜いたのは、革表紙のすり切れた『ローデリア王国地誌』だった。
何度も開いたせいで、癖のついた頁が勝手に開く。見開きいっぱいに描かれた、手描きの大陸図だ。
この世界でいちばん大きな陸地は、アルセリア大陸と呼ばれているらしい。
横に長く伸びた大陸の中ほどから西側を占めているのが、ミナトのいるローデリア王国だ。いくつもの国が並ぶ大陸の中でも、指折りの大国だという。
王都ローデンは、王国の南、温暖な内海に面した平野にある。地図の上には金の顔料で小さな城の絵が描き込まれ、その周りに、白い石造りの街並みや、大河を行き交う帆船の挿絵が添えられていた。王立学院があるのも、この王都だ。
そこから指で、北へ、北へとたどっていく。
麦畑の広がる平野を抜け、いくつもの街道の町を過ぎ、森と丘陵を越えた先――地図の上端近くに、ぎざぎざの山並みが横一文字に描かれている。王国の北の果てに連なる、グラウ山脈だ。
その裾野に、小さな点がひとつ。麓の街、ハーゼル。
山から下りてくる毛皮や木材、チーズを買い付け、南から運ばれてくる塩や鉄や布を売る、北の交易の町だ。村の誰かが「街」と言えば、それはこのハーゼルのことを指す。
この村は、その点からさらに山の奥――地図の山並みの線に紛れて、名前すら書き込まれていない。
(王都から見たら、ほとんど世界の端っこなんだな)
麓の町ハーゼルまで、山道を歩いて三日。
ハーゼルから王都までは、街道を乗合馬車で乗り継いで、ひと月以上。冬になれば峠が雪で閉ざされ、春の雪解けまでは、行商人さえ上がってこられなくなる。
王様の名前も、王都で何が流行っているのかも、この村に届くのは季節遅れの噂話ばかりだ。村人の多くは、ハーゼルより先の土地を一生見ることもない。
棚の隅の魔法の教本が目に入り、ミナトは小さく苦笑した。
一度だけ、書かれたとおりに指先へ意識を集めて『――灯れ』と唱えてみたことがある。煙ひとつ出なかったうえに、覗きにきた子どもたちに見られて、「勇者様が指に話しかけてる」と、三日ほど村中の噂になった。
(まあ、魔法なんか使えなくても、あれだけ力が出せれば十分か)
ミナトは地誌を棚に戻し、書庫を出た。
***
村の広場へ出ると、日当たりのいい石垣の前に、五人の女たちが並んで腰を下ろしていた。
いずれも、お腹が大きく丸く膨らんでいる。
身重では畑仕事もままならないので、こうして集まって、毛糸を紡いだり、赤ん坊の肌着を縫ったりしているのだ。
「あら、勇者様!」
「ほら勇者様、触ってみて。今朝からこの子、ずーっと蹴ってるの」
いちばんお腹の大きい女がミナトの手を取り、張り詰めたお腹へと導いた。
毛織りの上衣越しに伝わる、温かな丸み。しばらく待つと――とん、と内側から力強い衝撃が返ってきた。
「……おっ、元気だな」
「でしょう? きっと勇者様に似て、力持ちの男の子よ」
「ねぇ、私のも触って!」
次々に手を取られ、丸いお腹を撫でさせられる。
広場の反対側の軒下では、別の女たちが、この夏から秋にかけて生まれた赤ん坊たちを、代わる代わる抱き上げてあやしていた。
自分の子だろうと、他人の子だろうとお構いなし。この村では、子どもは夫婦の子である以前に、『村の子』なのだ。
数年おきに黒獣に襲われ、男手を奪われ続けてきた歴史。生き延びるために、女たちは寄り集まって子を育て、子のできない夫婦があれば、夫婦でよく話し合ったうえで、妻が別の男と契って血を繋いできた。
奔放に見えるこの村のしきたりは、絶えず滅びの淵に立たされてきた山村が選び取った、切実な生き方なのだ――今のミナトには、それが分かる。
分かってはいるが、気持ちがついていくかどうかは、また別の話だった。
「おう、勇者様!」
広場の向こうから、斧を担いだ大男が歩み寄ってきた。ミレイの夫、木こりのガルドだ。
森で伐った薪を、荷車で運んできたところらしい。日焼けした顔をほころばせ、気さくに頭を下げてくる。
「昨夜は、うちのミレイが世話になりやした! あいつ、今朝はずいぶん機嫌よく朝飯を作ってくれてね。……うちはどうにも子ができねえもんで。勇者様にお願いできるのは、本当にありがてえんですわ。また頼んます!」
「あ、ああ……」
さっぱりとした笑顔を残して、ガルドは荷車を引いて自分の家のほうへ歩いていった。
ミナトは引きつった笑みのまま、その広い背中に、小さく手を振り返す。
「ミナト様、ガルドさんは何て?」
広場の木陰で赤ん坊たちの世話を手伝っていたサリヤが、リオを抱いたまま、おかしそうに首を傾げた。
「旦那のほうから礼を言われちゃってさ。……正直、いまだにどういう顔をすればいいか分からないよ」
「ふふっ。ミナト様、ああいうとき、いつも少し困った顔をしますよね。不思議です」
「俺からすると、礼を言われるほうが不思議なんだけどな……」
「ほら、そういうところです。もしかしたら、記憶をなくす前のミナト様は、決まりごとの全然違う、遠い国の人だったのかもしれませんね」
「……そうかもな」
遠い国どころか、別の世界から来た人間だとは、今も言えずにいる。
言ったところで信じてもらえるとも思えないし、信じてもらえたところで、何かが変わるわけでもない。
サリヤとは、村の中では事実上の夫婦のように扱われている。
だが、正式な婚礼は挙げていないし、サリヤは今も実家で暮らしている。
一度、リオが生まれてすぐの頃に、きちんと夫婦になってサリヤとリオを自分の家に迎えたいと、村長に申し出たことがある。村長は困ったように微笑んで、こう言った。
『勇者様は、この村すべての宝にございます。村長の娘が奥方として勇者様の家に収まれば、ほかの家の娘たちは、勇者様の戸口を叩きにくくなりましょう』
反対しているわけではない。ただ、勇者は誰か一人のものにはならない――村全体に、そういう空気があるのだ。
「……サリヤは、本当にそれでいいのか? 正式な夫婦になれなくて、毎晩、ほかの女たちが来て」
「いいんです」
サリヤは迷いなく、ふわりと微笑んだ。
「ミナト様がこの村で、最初に"すき"って言ってくれたのは、私です。最初に赤ちゃんを授かったのも、私。言葉も、文字も、全部私が教えました。……それだけで、十分すぎるくらいです」
それから、サリヤは少し頬を赤らめて、ミナトの耳元に唇を寄せた。
「……あ、でも、二人目の赤ちゃんは、絶対に私がいちばんに欲しいです……けど」
ミナトは思わず吹き出し、その栗色の頭を、くしゃくしゃになるまで撫でてやった。
***




