02.英雄誕生
――一年前。
真っ暗だった意識が、強烈な光の奔流とともに弾け飛んだ。
目を開けた瞬間、ミナトの五感を襲ったのは、むせ返るような血の臭いと、鼓膜を劈く無数の絶叫だった。
目の前に広がっていたのは、悪夢のような地獄絵図だった。
黒煙が立ちのぼり、紅蓮の炎が木造の家々を包んでいる。足元には砕け散った瓦礫と、無惨に引き裂かれた人の腕や胴体が転がり、泥土を赤黒い血だまりが覆っていた。
泣き叫ぶ子どもを抱えて逃げ惑う母親の背後に、漆黒の巨大な影が覆いかぶさる。
家屋を優に超える巨躯。漆黒の剛毛に覆われた、異形の怪物。
無数の紅い複眼をぎらつかせ、天地を裂くような咆哮を轟かせながら、太い鉤爪で逃げる男たちを一薙ぎに叩き潰し、肉片へと変えていく。
捕らえられた村人が口元へ運ばれ、生きたまま噛み砕かれる。凄絶な咀嚼音と断末魔の叫びが、炎の轟きに混じって響き渡った。
――なんなんだ、ここは!?
混乱と恐怖で、息が止まりかけた。その瞬間。
気づいたときには、ミナトの両手は、身の丈ほどもある大剣を握りしめていた。
しがないサラリーマンだった『大和田湊』に、剣の心得などあるはずもない。
だが、肉体が『勝手に』動いたのだ。
全身を駆け巡る凄まじい闘争本能に突き動かされるように――気づけば足は大地を蹴り、刃は咆哮する怪物の脳天を断ち割る、神速の軌道を描いていた。
ズドォォォォンッ!!
凄まじい衝撃波とともに、魔獣が一刀両断されて大地を揺るがす。
怪物の巨体が黒い灰となって霧散していくのと同時に、限界を超えた激痛と疲労が全身を襲い、ミナトの意識はぷつりと途切れた。
次に目覚めたとき、ミナトは村の粗末な寝台の上にいた。
周りを取り囲んだ大勢の村人たちが、涙を流しながらミナトの手を取り、神仏を拝むように平伏している。
何を言っているのか、まったく分からなかった。聞いたこともない響きの言葉だった。
混乱したまま差し出された青銅の鏡を覗き込み、ミナトは息を呑んだ。
そこに映っていたのは、疲れ果てた冴えない社畜の顔ではなかった。鋼のように引き締まった肉体を持つ、若く美しい青年の顔だった。
(……誰だ、これ……?)
夢かと思って頬をつねっても、痛みははっきりとあった。
訳も分からないまま、それでもミナトは自分の胸を指さし、たったひとつ確かなものを口にした。
『オオワダ……ミナト。俺は、オオワダ……ミナト……です』
村人たちは顔を見合わせ、それから口々に、その名前を繰り返した。
ミナト、ミナト、と。
そしてもうひとつ。そのとき村人たちが涙ながらに何度も口にしていた単語だけが、意味も分からないまま、妙に耳に残った。
――《黒獣》。
***
後に言葉を覚えて知ったことだが、あの怪物は、この地方で古くから《黒獣》と呼ばれ恐れられてきた、災厄そのものだった。
黒獣は数年に一度、山の奥から忽然と姿を現す。
そして村を蹂躙し、何人もの村人を攫って、再び山の奥へと消えていく。
村の古老によれば、少なくとも三百年以上前から、ずっと同じことが繰り返されてきたのだという。
もちろん、村人たちもただ手をこまねいていたわけではない。
狩人たちは毒矢を射かけ、男たちは槍を揃えて立ち向かった。
だが――矢は黒い毛皮に弾かれ、槍は折れ、剣は刃こぼれするばかり。
まれに傷をつけることができても、黒獣の肉はたちまち蠢いて塞がってしまう。かつて決死の覚悟で前脚を斬り落とした戦士がいたが、黒獣は苦しむそぶりすら見せず、切断された脚をみるみるうちに生やし直して、その戦士を引き裂いたという。
どんな攻撃も通じず、失った脚すら再生する、不死の怪物。
村の人々にとって黒獣とは、戦う相手ではなかった。ただ嵐が過ぎ去るのを祈ってやり過ごすしかない、『天災』だったのだ。
その黒獣を――ミナトは、一刀のもとに斬り伏せた。
両断された巨体は再生することなく、黒い灰となって崩れ去ったという。
三百年にわたって村を苦しめ続けた悪夢が、たった一振りで終わったのだ。
村人たちがミナトを神のように崇めるのも、無理のない話だった。
村人の話によると、この肉体の持ち主は、ちょうど黒獣が村を襲ったその日に、ふらりと現れた旅人だったらしい。
逃げ惑う村人たちを背に、ただ一人で大剣を抜いて立ち向かい――黒獣の爪に胸を貫かれ、血を噴いて倒れた。
その瞬間、天から眩い光が降り注いだ。
光に包まれた旅人の胸の傷はみるみるうちに塞がり、死んだはずの男は再び立ち上がって、黒獣を斬り伏せた。
(その『光』の瞬間に、俺の魂がこの身体に入った……そうとしか考えられない)
なぜ、自分がここにいるのか。
いくら考えても、答えは出なかった。ただ、自分がこの身体で生き延びたことだけは、確かだった。
***
言葉の通じないミナトを見て、村人たちは「黒獣との戦いで頭を打ち、記憶と言葉を失ってしまったのだ」と考えた。
名前だけを覚えていて、ほかは何も思い出せない――そう考えれば、筋は通る。
村人たちは英雄を救うべく、総出で手厚く世話を焼いてくれた。
言葉を教える係に選ばれたのは、村長の娘のサリヤだった。
村でいちばん読み書きの達者な娘だ。
サリヤは毎日ミナトの寝床の傍らに座り、木の板に炭で文字を書いては、ひとつひとつ丁寧に発音して聞かせてくれた。
『これは、"パン"。……パ、ン。言ってみてください、ミナト様』
『……パ、ン』
『そうですっ! 上手です、ミナト様!』
ミナトがひとつ単語を覚えるたびに、サリヤは自分のことのように手を叩いて喜んだ。
言葉の通じない不安と、見知らぬ世界にひとり放り出された孤独。その中で、彼女のひまわりのような笑顔だけが、ミナトにとって唯一の救いだった。
そうして、二十日あまりが過ぎた夜のこと。
獣脂ランプの灯りの下で、サリヤはいつものように木の板を膝に乗せていた。
だが、その日の彼女は、どこか様子が違った。頬がほんのりと赤く、炭を持つ指先がかすかに震えている。
『……新しい言葉を、教えますね』
サリヤは木の板を脇に置くと、ミナトの手をそっと取り、自分の胸元へと導いた。
薄い麻布越しに、とくん、とくん、と早鐘を打つ鼓動が伝わってくる。
『"すき"』
『……す、き?』
『はい。……"すき"、です。ミナト様』
ミナトの手を包むサリヤの手が、熱い。
意味は分からなかった。けれど、潤んだ瞳で自分を見つめるサリヤの顔を見れば、言葉などいらなかった。
サリヤが、ゆっくりと顔を近づけてくる。
ミナトもまた、引き寄せられるように顔を寄せた。
――ちゅ。
柔らかく、温かい唇が重なった。
ほんの一瞬触れただけの、ぎこちない口づけ。
顔を離したサリヤは、耳まで真っ赤に染めながら、それでも恥ずかしそうに微笑んだ。
『……これは、"くちづけ"、です』
『く、ち、づけ』
『はい。……もっと、教えても、いいですか……?』
今度は、ミナトのほうから唇を重ねた。
サリヤは驚いたように目を見開き、それからとろけるように瞼を閉じて、ミナトの首に腕を回してきた。
何度も、何度も唇を重ねる。そのたびに、互いの吐息が熱を帯びていく。
『んっ……ふぁ……みなと、さま……っ』
麻のワンピースの紐がほどけ、肩から滑り落ちた。
ランプの灯りに浮かび上がった白い肩は、緊張と羞恥で、薄紅色に染まっていた。
『"あったかい"……です。ミナト様の、からだ……』
ミナトの胸に手を当てて、サリヤが小さく呟く。
その言葉の意味も、今ならわかる。
寝床に横たえたサリヤは、ランプの灯りから顔を隠すように、両手で頬を覆っていた。
ミナトがその手をそっとどけると、サリヤは潤んだ瞳で彼を見上げ――それから、ミナトの頬に手を添えて、囁いた。
『……"きて"、ください』
それは、まだ教わっていない言葉だった。
だが、その意味は、痛いほどに伝わってきた。
ランプの小さな炎が、ふっと揺れた。
ミナトはサリヤの手を取り、その指先に、そっと唇を落とした。
――その夜のことを、ミナトは今も、言葉にすることができない。
ただ、覚えている。
震えながらしがみついてきた細い腕の温もりを。
目尻に浮かんだ涙を拭おうとしたとき、サリヤが首を横に振って、『だいじょうぶ、です……"うれしい"……』と微笑んだことを。
そして、ミナトが拙い発音で『……サリヤ。"すき"、だ』と返したとき、彼女がくしゃりと泣き笑いの顔になったことを。
人生で初めて、心の底から「この人を大切にしたい」と思った夜だった。
***
翌朝、鎧戸の隙間から差し込む光の中で、サリヤはミナトの腕を枕にして眠っていた。
ミナトが身じろぎすると、サリヤはゆっくりと目を開けて、それから耳まで真っ赤になって、毛布を鼻の上まで引き上げた。
『……おはよう、ございます。ミナト様』
『……おは、よう』
ミナトがたどたどしく返すと、サリヤは毛布の中で、くすぐったそうに笑った。
――その夜に宿った命が、初夏に生まれたリオだった。
***
貧しい山村で生き延びるため、この村には、ひとつの絶対の掟があった。
――『強者の血を残すことこそが、村を救う最大の正義』。
数年おきに黒獣に男手を奪われ、存亡の危機に瀕してきた山村にとって、三百年の悪夢を断ち切った英雄の血は、神の恵みにも等しい宝だった。
村人たちは最初から、救世主であるミナトの血を引く子を、喉から手が出るほど望んでいたのだ。だが、言葉も通じず傷も癒えきらない英雄に対し、敬意と畏れから、誰も言い出せずにいた。
そこへ、サリヤが自らの恋心と覚悟から、身を捧げた。
翌朝、娘の首筋に残る口づけの痕を見た村長は、怒るどころか「よくぞ勇者様のお心を解きほぐしてくれた」と涙を流して娘を抱きしめ、ミナトの手を強く握りしめて平伏した。
それをきっかけに、堰を切ったように村全体が動き出した。
村人たちは総出で山から巨木と石を切り出し、村でいちばん広く暖かい家をミナトのために建てた。そして毎晩のように、成人の儀を終えた未婚の娘たちや、夫を持つ若妻たちまでもが、自ら望んで、ミナトの寝室を訪れるようになったのである。
その結果、あの夜から季節が巡り、初夏の訪れとともに、村では次々と産声が上がり始めた。
サリヤの産んだリオを皮切りに、夏からこの秋にかけて、すでに十二人もの赤ん坊が生まれている。今もなお、村のあちこちで何人もの女たちがミナトの子を宿し、幸せそうにお腹を撫でていた。
英雄の血を引く子どもたちが続々と生まれたことで、村人たちの熱狂と感謝はますます高まり、夫たちまでもが「次はうちの妻に!」と、笑顔で妻を送り出してくる始末だった。
サリヤのおかげで言葉を完全に身につけ、村の過酷な歴史や掟の真意を理解した今――ミナトは名実ともに、この村の絶対的な『勇者』として君臨し、尽きることのない女たちの愛情に溺れていた。
***
「……ん、ミナト様……もう、休まれますか……?」
追憶から我に返ると、隣で息を整えていたサリヤが、とろんとした瞳で、ミナトの逞しい二の腕にすり寄ってきた。
寝台の周りでは、若妻をはじめ、先ほどまで乱れ合っていた女たちが、満ち足りた吐息を漏らしながら、折り重なるようにして微睡んでいる。
部屋を満たす、甘い残り香と、肌の温もり。
孤独とブラック労働の世界に、未練はない。
ただ――ふとした瞬間に、両親や、仕事の愚痴をこぼし合っていた友人たちの顔が浮かび、少しだけ胸が痛むことはあった。
(……ごめんな、父さん、母さん。親不孝な息子で。……孫の顔、見せてやりたかったな)
ふと、昼間に抱き上げたリオの、小さな手の温もりが蘇る。
ミナトの指を、ぎゅっと握り返してきた、あの驚くほど強い力。
(だけど俺は、この世界で、前を向いて生きていくよ)
いま自分を求めてくれる女たちの温もりと、この村の切実な願い。そして、すでにこの村に根を下ろした、十二人の我が子たちの未来。
ミナトがサリヤの柔らかな頭を撫でてやると、彼女はくすぐったそうに目を細め、ミナトの胸板に、そっと指を這わせてきた。
「あ……ミナト様、まだ、眠くないみたいですね……?」
「ふふっ、サリヤちゃん、ずるいわよ。抜け駆けなんて……」
目を覚ました若妻や娘たちが、再び獲物を見つけた雌豹のような瞳で、ミナトを取り囲んでくる。
ミナトは苦笑しながら彼女たちを抱き寄せ、尽きることのない甘い夜の渦へと、再び身を投じていくのだった。
――だが、ミナトはまだ知らなかった。
部屋の隅の暗がりに立てかけられた、あの大剣が――時折、主の魂を呼ぶかのように、青い燐光を明滅させていることを。




