22.自由
その夜も、三人は林の奥にいた。
焚き火の明かりも届かない暗がりで、月だけが三人の汗に濡れた肌を、青白く照らしていた。
リーフは、いつものように、風下の茂みに這いつくばっていた。
ガラムの腕の中に、ナティアがいた。
金色の髪を振り乱し、白い背中を反らせて、ガラムにしがみついている。
月明かりが、汗に濡れたふたりの肌の輪郭だけを、青白く浮かび上がらせていた。
その背中に、ニコが後ろから抱きついて、ナティアの首筋に唇を這わせている。
絡み合った三つの影が、岩の窪みで、ひとつの生き物のように揺れていた。
「にゃは……ナティア、今日、いつもより声おっきいよ……?」
「う、るさ……っ、あ――っ!!」
ナティアの声が、高く、細く、途切れた。
しばらく、荒い息の音だけが、林の静けさの中に残った。
ナティアが、ガラムの胸に崩れ落ちた。
ニコが、くすくすと笑いながら、その汗ばんだ頬に、ちゅ、と口づけた。
ナティアが、とろけた目のまま、ニコの髪をくしゃりと撫でた。
「……次、ウチね」
ニコが、ガラムの首に腕を回し、汗に濡れた耳元で、囁いた。
***
リーフは、茂みの陰で、泣いていなかった。
もう、涙は出なかった。
ただ、見ていた。
地面に爪を立て、息を殺し、腹の底で渦を巻く熱に、奥歯を噛みしめながら。
ナティアの喘ぎに合わせて。ニコの笑い声に合わせて。
いつものように。毎晩のように。
――熱が、ふっと、引いた。
リーフは、荒い息を吐きながら、自分の手を、ぼんやりと見下ろした。
爪の間に、湿った黒い土が、びっしりと詰まっていた。
月明かりに照らされた、泥だらけの、惨めな指。
――ナティアの髪に触れたいと、何百回も願ってきた指。
(……これで、見納めか)
ふと、そう思った。
思った途端、胸の奥で、何かが、すとんと落ちた。
ずっと喉につかえていたものが、ようやく、腹の底に落ちていったような感覚だった。
リーフは、ゆっくりと立ち上がった。
三人の声に背を向けて、音もなく、焚き火のほうへ戻っていった。
***
焚き火は、熾火になっていた。
三人の毛布が、焚き火の向こうに並んで、空っぽのまま敷かれている。
その脇に、ガラムの背嚢があった。
リーフは、その口紐をほどいた。
中に、硬い革袋がひとつ。
隼の路銀だった。ヴァルドから預かった、旅の金。
袋を、自分の外套の内側に押し込んだ。ずしりと重かった。
それから、ナティアの毛布の枕元に置かれた、細い革紐に目を留めた。
ナティアが、毎朝、金色の髪を高く一本に結う紐だった。
それも、拾った。
鼻に押し当てて、深く、吸い込んだ。
汗と、髪の匂い。
懐にしまった。
最後に、背中の剣の重みを、確かめた。
継承の剣。百十年、誰も握れなかった剣。
――俺の剣。
リーフは、焚き火に背を向けて、闇の中へ歩き出した。
***
夜の街道を、ひとりで歩いた。
足取りが、ひどく軽かった。
八年間――いや、生まれてからずっと、肩に乗っていた何かが、ふっと消えていた。
(なんで、最初から、こうしなかったんだろう)
夜番も、ない。
稽古も、ない。
「なんで遅れた」と責める声も、「気持ち悪い」と見下ろす目も、ない。
干し肉をひとりで齧る夜も、壁の向こうから聞こえる笑い声も、もう、ない。
神器を持ち出した。
王の命に背いた。
影の秘密を知る者が、神器を抱えて塀の外へ逃げた。
――反逆者だ。
分かっていた。
手配されるだろう。追手も来るだろう。ほかの影の組が、俺を狩るために放たれるかもしれない。
(……どうでもいいや)
本当に、どうでもよかった。
歩きながら、リーフは、残してきた三人のことを考えた。
夜明けに、三人が焚き火に戻ってくる。
リーフの毛布が、冷たくなっているのに気づく。
ガラムが、背嚢を開けて、路銀が消えているのを知る。
ナティアが、枕元の髪紐がないことに気づく。
――そして、アイツらは魔骸を消せなくなる。
(えへ……)
ガラムは、責任を取らされるだろう。
長のくせに、仲間ひとり見張れなかった。神器を持ち出させた。
ヴァルドの、あの抑揚のない声で、さんざん詰められるのだ。
あの、まっすぐな目が、俯くところを想像した。
――たまらなく、嬉しかった。
ナティアとニコは、どうなるだろう。
剣のない隼は、ただの三人だ。骸ひとつ、消せやしない。
ほかの組の助っ人にでも回されるのだろうか。使い走りでもさせられるのだろうか。
それとも――。
(俺を、捕まえろって、命じられるのかな)
継承の剣を取り戻せ。反逆者リーフを、連れ戻せ。
――だとしたら。
ナティアは、毎日、俺のことを考えるのだ。
朝起きてから、夜眠るまで。俺がどこにいるか。何をしているか。どこへ向かっているか。
ニコも。ガラムも。ヴァルドも。もしかしたら、陛下も。
この国でいちばん偉い人間から、ゴミを見るような目で俺を見ていた女まで。
みんなが、俺のことだけを考えて、生きることになる。
(えへ……えへへ……えへへへへ……)
リーフは、夜道で、ひとり、声を上げて笑った。
腹の底が、さっき茂みの陰にいたときと同じように、また、熱く疼き始めていた。
――収まらなかった。
朝になっても。次の日も。その次の日も。
***
地図は見なかった。
適当に、足の向くほうへ歩いた。
街道を外れ、獣道を抜け、名前も知らない丘を越えた。
腹が減れば、盗んだ金で通りすがりの村から食い物を買った。
夜のうちに畑から盗んだ。
これから、どうしよう。
考えても、何も浮かばなかった。
浮かばなくても、少しも怖くなかった。
背中には、継承の剣がある。
魔骸でさえ、この剣の前では灰になる。人間なんか、ひと振りだ。
どんな傷を負っても、この剣が俺を生かす。
(――怖いものなんか、何もない)
生まれて初めて、リーフは、そう思った。
***
逃げて、六日目の夜。
リーフは、小さな村に辿り着いた。
川沿いの、二十軒ばかりの村だった。
家々の窓に、ぽつぽつと、夕餉の灯りが揺れている。
どこかの家で、赤ん坊が泣いていた。犬が、遠くで吠えていた。
村はずれの、水車小屋の前だった。
「――あの」
背後から、声をかけられた。
「旅の方……ですか? こんな遅くに」
振り返ると、娘がひとり、立っていた。
麦わら色の髪を、ゆるく三つ編みにして、肩に垂らしている。
手に、摘んだばかりの薬草の籠を提げていた。夜にしか咲かない草を摘みに、川べりまで出てきたのだろう。
小さな顔に、大きな茶色の目。
その目が、まっすぐに、リーフを見ていた。
――怯えも、蔑みも、何もない目で。
「この先、しばらく宿はありませんよ。……よかったら、村長の家に案内しましょうか? 納屋なら、きっと泊めてくれますから」
娘は、そう言って、ふわりと笑った。
――笑った。
リーフに向かって。
(……ああ)
リーフは、娘の顔を、じっと見つめた。
「……え、えへ。あ、ありがとう。や、優しいんだね」
しゅる、と。
布の擦れる音がした。
背中の大剣を包んでいた布が、ほどけて落ちる音だった。
娘が、振り返った。
その白い喉元に、大剣の切っ先が、触れていた。
「――――」
娘の手から、籠が落ちた。
夜咲きの白い花が、土の上に散らばった。
刀身が、月明かりの中で、ぼうっと青く光っていた。
娘の、恐怖に見開かれた茶色の目が、その青い光を映していた。
「え、えへ……こ、声、出さないでね」
リーフは、へらへらと笑っていた。
いつもの、媚びるような、愛想のいい笑い方で。
「出したら……えっと、困るから。ね?」
切っ先が、ほんのわずかに、喉の皮膚に沈んだ。
ぷつ、と、赤い玉がひとつ、浮かんだ。
娘の唇が、わなわなと震えた。
声にならない声が、喉の奥で、ひゅう、と鳴った。
「……な、んで……」
「なんでって……え、えへ。だって、君が先に、話しかけてきたんじゃないか」
リーフは、心底不思議そうに、首を傾げた。
「優しくしてくれたじゃない。笑ってくれたじゃない」
娘の目から、涙が、ぼろぼろと零れ落ちた。
「こっち。……ね、こっち、おいで」
リーフは、剣の切っ先を喉元に当てたまま、娘を、水車小屋の裏の、木立の暗がりへと追い立てた。
娘は、震える足で、一歩、また一歩と、後ずさった。
水車が、ごとん、ごとん、と、何事もないように回り続けていた。
村の灯りは、すぐそこにあった。
赤ん坊の泣き声も、犬の遠吠えも、まだ、聞こえていた。
――誰も、来なかった。
***
どれほどの時間が経ったのか。
リーフは、木立の暗がりから、ひとりで出てきた。
剣の切っ先についた、ほんの数滴の血を、外套の裾で拭いながら、鼻歌を歌っていた。
背後の暗がりからは、何の音もしなかった。
ただ、木の幹に縛りつけられたままの娘の、押し殺した、細い嗚咽だけが、ときおり、途切れ途切れに聞こえていた。
リーフは、振り返らなかった。
地面に落ちていた剣の布を拾い、大剣をぐるぐると巻き直す。
散らばった夜咲きの白い花を、靴の先で、何気なく踏みつけた。
(――なんで、最初から、こうしなかったんだろう)
簡単だった。
あんなに、簡単だった。
娼館で金を払う必要も。
壁の隙間から、泣きながら覗く必要も。
晒しに顔を埋めて、毛布の中で、惨めに名前を呼ぶ必要も。
何も、なかったのだ。
剣を見せれば、女は黙る。
喉に当てれば、女は言うことを聞く。
縛るよと言えば、震える手で、自分から木の幹に背中をつける。
泣こうが、震えようが、関係ない。――俺には、この剣がある。
(えへ……えへへ……)
リーフは、背中の剣の柄の、革巻きを指でなぞった。
ナティアの日。ニコの日。マルス。
その下に、爪で、新しい刻み目をひとつ、つけた。
***
村を出る前に、リーフは、丘の上から、もう一度だけ、村を見下ろした。
川沿いの、二十軒ばかりの家。
灯りが、ひとつ、またひとつと、消えていく。
リーフは、指を折って、数え始めた。
あの、赤ん坊の泣き声がした家。――母親がいる。
あの、洗濯物が干しっぱなしの家。女物の肌着が、三枚。
あの、窓の低い、男手のなさそうな小さな家。
(……若いのが、たぶん、四、五人。人妻が、七、八人)
数えながら、リーフは、自分の顔が、だらしなく緩んでいくのを感じていた。
この国には、こんな村が、いくつあるのだろう。
百か。千か。
地図にも載らない村が、山の奥にも、川のほとりにも、数えきれないほど。
――気持ちよかったなぁ。
俺には、時間がある。剣がある。死なない身体がある。
怖いものは、何もない。
(俺は――自由だ)
リーフは、丘を下り始めた。
腹の底が、また、熱く疼いていた。




