21.壁の向こう
ガラムが隼に加わってから、一年と少しが過ぎた。
その間に、四人は七体の魔骸を消した。
廃坑の奥で鉱夫を喰らっていた、岩の甲羅を持つ百足。
夜ごと羊を攫っていた、影だけで形を持たない狼。
どれも、四つの光を合わせて、灰ひとつ残さずに消した。
十九の神器を抱える五つの影の中で、一年に七体を消した組は、ほかにない。
森の修道院から届くヴァルドの短い書状にも、珍しく「よくやった」と一言だけ添えられていた。
***
「リーフ。さっきの、なんで遅れた」
七体目の骸を消した夜、焚き火の向こうから、ガラムが言った。
ニコが、右腕に包帯を巻いていた。
リーフが斬り込むはずだった間合いで、骸の最後の一撃を、まともに受けたのだ。
「え……え、えへ。お、遅れてないよ。ニコが、前に出すぎたから、俺、入る場所がなくて――」
「出すぎてねえ。陣のとおりだった。お前が半歩、下がったんだ。俺は見てた」
ガラムの声は怒鳴り声ではなかった。
ただ、まっすぐだった。逃げ道を、一つも残さない声だった。
「怖かったんなら、怖かったって素直に言え。次は俺が前に出る。……けどな、人のせいにすんのはやめろ。ニコは、お前の分まで受けたんだぞ」
「…………」
ナティアもニコも、何も言わなかった。
何も言わずに、ガラムの言葉に、ただ頷いていた。
(――なんだよ)
リーフは、へらへらと笑ったまま、膝の上で拳を握った。
(なんで、俺だけ責められるんだよ。ニコだって、もっと上手く避けりゃよかったじゃないか。……長だからって、偉そうに)
ガラムは、いつもそうだった。
夜番を抜け出して眠っていれば、黙って叩き起こしに来た。
立ち寄った村で、リーフが洗濯をする娘の脚をじっと眺めていれば、その視線の前に、黙って大きな身体を割り込ませた。
嘘をつけば、嘘だと言った。誰かのせいにすれば、それはお前だと言った。
――そのくせ、決して見捨てようとはしなかった。
「お前、本当は、どうしたいんだ」
一度、ガラムにそう訊かれたことがある。
「強くなりてえのか。認められてえのか。……言ってくれりゃ、俺は手伝う」
その目には、軽蔑も、怒りもなかった。
本気だった。本気で、リーフを正そうとしていた。
それが、リーフには、何よりも腹立たしかった。
(正す? 俺を? 何様だよ)
俺は、間違ってない。
間違ってるのは、俺を分かろうとしない、お前らのほうだ。
手伝う、だと。付き合ってやる、だと。
――上から、施しのように。マルスと同じ、あの目で。
***
ナティアとニコは、ガラムと驚くほど早く打ち解けた。
焚き火のそばで、ナティアがガラムに字を教えていた。
小枝で地面に文字を書き、ガラムがそれを、大きな指でたどたどしくなぞる。間違えるたびに、ナティアが「違うってば」と笑いながら、その手を取って書き直させる。
「……な、ナティア。これ、何て読むんだ」
「『隼』。あんたの組の名前でしょ。いい加減覚えなさいよ」
「お、おう。……は、や、ぶ、さ。……難しすぎねえか、コレ」
「にゃはは! ガラム、それ一昨日も同じこと言ってた!」
ニコが、ガラムの広い背中に、猫のように飛び乗った。
ガラムが「重てえ!」と笑いながら、それでも振り落とさずに、ニコを背負ったまま字を書き続ける。
三人の笑い声が、焚き火の火の粉と一緒に、夜空へ昇っていった。
リーフは、焚き火から少し離れた岩の上で、ひとりで干し肉を齧っていた。
誰も、こっちを見なかった。
干し肉が、ひどく硬かった。
***
その夜のことは、一生、忘れられなかった。
北の街道沿いの、それなりに大きな宿場町だった。
魔骸を消した報せをヴァルドに送るため、四人は珍しく、まともな宿に二晩泊まることになった。
宿の部屋は、三つ取れた。
ナティアとニコで、ひと部屋。ガラムで、ひと部屋。リーフで、ひと部屋。
リーフの部屋は、廊下のいちばん奥。ガラムの部屋の、隣だった。
夜更け。
眠れずに寝台に転がっていたリーフの耳に、壁の向こうから、くぐもった笑い声が聞こえた。
――女の声だった。
(……え?)
ナティアの声だった。
それから、ニコの、あの「にゃは」という笑い声。
ガラムの部屋から。
リーフは、寝台から跳ね起きた。
壁に耳を押し当てる。古い板壁だった。乾いて痩せた板と板のあいだに、指の先ほどの隙間が、いくつも空いていた。
そのひとつから、蝋燭の明かりが、細く漏れていた。
リーフは、隙間に、片目を押し当てた。
寝台の縁に、ガラムが腰かけていた。
寝間着の前をはだけ、困ったように頭を掻いている。
その両側に、ナティアとニコがいた。
「お、おい……二人とも、何の冗談だ、これ」
「冗談に見える?」
ナティアが、ガラムの耳元で囁いた。
昼間とは、まるで違う声だった。
低く、甘く、とろりと濡れた声。
髪をほどいていた。金色の髪が、肩から胸へ、さらさらと流れ落ちている。薄い寝間着一枚の身体の線が、蝋燭の明かりに透けていた。
「あたしたちにだってね、そういう気持ちはあるのよ。……女なんだから」
「にゃは。ガラム、ほんと鈍いよねぇ」
反対側から、ニコがガラムの太い腕にしなだれかかった。
短い黒髪が、汗ばんだ首筋に貼りついている。いつもの笑い方とは違う、とろんと潤んだ目で、ガラムを見上げていた。
寝間着の裾から伸びた小麦色の脚が、ガラムの腿に、ゆっくりと絡みつく。
「ウチら、明日死ぬかもしれないんだよ? 魔骸に喰われて、灰も残らないかもしれないんだよ?」
「これくらいの楽しみがなきゃ、やってられないでしょ」
ナティアが、ガラムの寝間着の襟に、細い指をかけた。
「……あんたが嫌なら、やめるけど」
ガラムは、しばらく黙っていた。
それから、大きく息を吐いて――困ったように、笑った。
「……嫌なわけ、ねえだろ」
ナティアが、ガラムの唇を塞いだ。
***
――リーフは、息ができなかった。
ナティアが、口づけていた。
リーフをゴミのように見下ろしてきた、あの空色の目を、うっとりと細めて。
ガラムの首に腕を回し、自分から、何度も、何度も。
ニコが、ガラムの寝間着を肩から引き下ろした。
岩のような胸板。無数の古傷が走る、分厚い背中。
ニコはその胸に頬を擦りつけ、傷のひとつひとつを、指先でなぞっていった。
「っ……おい、ニコ……」
「にゃは。ガラムの身体、すっごいね。……傷だらけで、カッコイイ」
「……あんまり見んなよ」
「照れてる。かわいー」
ナティアが唇を離した。
濡れた唇のまま、自分の寝間着の紐に、細い指をかけた。
――晒しの下にあるものを、リーフは、何百回も想像してきた。
それが今、ほどかれようとしていた。
リーフのためではなかった。
ガラムのために、ナティアが、自分から、ほどこうとしていた。
「……ナティア」
ガラムの声が、かすれた。
「……触って」
ナティアがガラムの手を取り、自分の頬に導いた。
分厚い手のひらが、白い頬を包み込む。
ナティアは、その手に、猫のように顔を擦り寄せた。
「ウチも。……ウチのことも、ちゃんと、触って」
ニコが、ガラムのもう片方の手を取って、自分の腰に回させた。
ガラムは、二人を見下ろして、困ったように笑った。
それから、両の腕で、ナティアとニコを、まとめて胸に抱き寄せた。
ガラムの大きな手が、寝台の脇へ伸びた。
太い指先が、蝋燭の火を、つまむように消した。
***
闇になった。
何も、見えなくなった。
それでも、聞こえた。
寝台の軋む音。衣擦れの音。
ナティアが、ガラムの名を呼ぶ声。昼間とはまるで違う、甘く、とろけた声。
ニコの、くすくすという笑い声が、やがて、笑い声ではなくなっていく。
ガラムの、低く、困ったような笑い。
「にゃは……ナティア、すっごい声」
「う、うるさ……っ」
三人は、笑っていた。
闇の中で、息を弾ませながら、楽しそうに、笑っていた。
――夜が更けても、三人の声は、止まなかった。
***
リーフは、壁に額を押しつけたまま、動けなかった。
頬を、熱いものが伝っていた。
泣いていた。
声も出さずに、ぼろぼろと、涙を流していた。
(なんで)
(なんで、あいつなんだよ)
ナティアの、あんな声。
ニコの、あんな笑い声。
リーフが何百回、何千回と夢に見てきたものが、すべて、壁の向こうにあった。
すべて、ガラムのものになっていた。
――なのに。
腹の底が、焼けるように、熱かった。
(……いやだ)
耳を塞げばいい。寝台に戻って、毛布を被ればいい。
分かっていた。分かっていたのに、リーフは、壁から離れられなかった。
(いやだ、いやだ、いやだ――)
ナティアが、ガラムの名を呼ぶ。
ニコが、甘えた声で、もっと、とねだる。
寝台が軋む。
リーフは、もう闇しか見えない隙間に片目を押し当てたまま、泣きながら、その音を聞き続けた。
惨めだった。
死にたいほど惨めだった。
なのに、離れられなかった。
壁の向こうで、ニコが、一際高い声を上げた。
リーフは、その場に、ずるずると崩れ落ちた。
床に頬をつけたまま、声を殺して、泣き続けた。
壁の向こうから、三人の、満ち足りた笑い声が、聞こえていた。
***
それから、リーフは、覗くようになった。
野営の夜でも。
焚き火が熾火になる頃、三人は、決まって目配せを交わした。
ナティアが先に林の奥へ消え、少し間を置いて、ニコが続く。最後に、ガラムが、寝ているはずのリーフを一度だけ振り返ってから、二人の後を追う。
リーフは、寝息を立てているふりをしたまま、三人の足音を数えた。
十分に遠ざかってから、毛布を抜け出し、風下から、這うように後を追った。
月明かりの下の、苔むした倒木の陰。
川のほとりの、平たい岩の上。
廃屋の、崩れかけた壁の向こう。
どこでも、三人は、楽しそうだった。
互いの身体を求め合い、汗に濡れ、声を殺しきれずに笑い合っていた。
リーフは、毎晩、それを見た。
毎晩、泣きながら、目を離せなかった。
――見るのを、やめられなかった。
***
その夜も、リーフは、廃屋の崩れた壁の陰に、這いつくばっていた。
事が終わったあとだった。
三人は、脱ぎ捨てた外套を敷いた上に、寄り添って寝転がっていた。
ガラムを真ん中に、右にナティア、左にニコ。
汗の引きかけた肌を、夜風が撫でていく。
「……ねえ」
ナティアが、ガラムの胸に頬を乗せたまま、ぽつりと言った。
「今日のあいつ、見た?」
リーフの心臓が、跳ねた。
「にゃは。見た見た。村の井戸のとこでしょ」
ニコが、ガラムの腕の中で、くすくすと笑った。
「水汲みしてたコの後ろ、ずーっとくっついて歩いてたよね。……で、振り向かれたら、あの『えへ』ってやつ。娘さん、桶ひっくり返して逃げてったもん」
「……気持ち悪っ」
ナティアが、心底から嫌そうに、顔をしかめた。
「修道院の頃から、ずっとそうよ。……晒しが、ときどき、畳み方が変わってたの。洗い場に出したはずなのに、朝、取りに行くと、誰かが触ったみたいに……。ずっと、気のせいだと思うことにしてた」
「うわ、それ絶対あいつじゃん」
「……お前らそれ、なんで先生に言わなかったんだ」
ガラムが、低い声で訊いた。
「言ってどうなるのよ」
ナティアが、冷たく笑った。
「あいつ、継承の剣の持ち主なのよ。百十年誰も握れなかった、あの剣の。あいつがいなきゃ、魔骸は消せない。先生だって、陛下だって、あいつのことは手放さない。……それくらいは、あたしたちが我慢するしかないでしょ」
「そうそう。剣だけだもんね、あいつ。剣だけぇ」
ニコが、崩れた屋根の隙間から夜空を見上げて、言った。
「あ、顔もパっと見はいいけどさぁ。……でも中身、空っぽ。何考えてるか分かんないし、ずーっと、人のせいにしてるし」
「あと、目つき。……あいつの目、ほんと嫌。話してても、ずっと胸とか、脚とか見てるの。こっちの顔、一回も見ない」
「分かるー! あとさぁ、知ってる?」
ニコが、声を潜めた。
「あいつの剣の柄、よく見たことある? 革巻きのとこに、ちっちゃい傷がいっぱい並んでるの」
「……ああ、あれ。何なのかしらって思ってた」
「ウチ、数えたんだよね、こないだ。こっそり。……あれさ、ウチらの、月のものの日だよ。ぴったり、合ってるの」
しん、と。
夜の空気が、凍りついた。
「…………は?」
ナティアの声が、低く、掠れた。
「……うそでしょ」
「ほんと。二列あってさ。片っぽがナティアので、片っぽがウチの。……もう、一年分以上、あるよ」
「……っ、気持ち悪い……っ」
ナティアが、ガラムの胸に、顔を埋めた。
その肩が、小さく震えていた。
「なんなの、あいつ……なんなのよ……っ」
「ほんと、それ」
ニコが、乾いた声で笑った。
いつもの、にゃはは、ではなかった。
「……早く、死んでくんないかなぁ、あいつ」
ぽつりと、ニコが言った。
「魔骸に喰われて、灰になって、消えてくんないかなぁ。……あ、でも、継承の剣持ってるから、死なないんだっけ。最悪じゃん。にゃはは」
「……おい。言いすぎだ」
ガラムが、静かに言った。
ニコが、ぷいと顔を背けた。
「だってさぁ……」
「分かってる。……分かってるけどな」
ガラムは、夜空を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「……あいつの剣がなきゃ、俺たちに魔骸は消せねえ。それだけは、確かだ」
それは、庇う言葉ではなかった。
ただ、事実を、並べただけの声だった。
「――ねえ」
ナティアが、ガラムの胸から、顔を上げた。
その空色の目が、闇の中で、まっすぐに、どこか遠くを見ていた。
「マルスが死んだ夜のこと……ずっと、引っかかってるの」
リーフの全身が、凍りついた。
「あの夜、煙で何も見えなかった。……でも、あいつ、マルスのすぐそばにいたのよ。いちばん、近くに」
「……」
「骸の牙に、背中から刺されたって。あいつ、そう言った。……でも、骸から絶対に目を離すなって、いつもあたしたちに言ってたのは、マルスなのよ。そのマルスが、骸に背中を向けたりする?」
ガラムは、何も言わなかった。
ニコも、何も言わなかった。
夜風が、三人の髪を揺らした。
「……考えすぎだ、ナティア」
しばらくして、ガラムが、低く言った。
「煙の中だった。誰にも、何も見えなかった。……そうだろ」
「……うん。……そう、よね」
ナティアは、それ以上何も言わず、またガラムの胸に頬を埋めた。
だが、ガラムの目は、閉じられていなかった。
夜空を見上げたまま、じっと、何かを考えていた。
***
リーフは、廃屋の壁の陰で、地面に爪を立てていた。
息が、できなかった。
頭の中で、三人の言葉が、ぐるぐると渦を巻いていた。
――気持ち悪い。
――顔だけじゃん。中身、空っぽ。
――早く、死んでくんないかなぁ。
――あいつの剣がなきゃ、魔骸は消せねえ。それだけだ。
それだけ。
剣だけ。
俺は――剣の、おまけ。
(……なんでだよ)
涙が、地面に、ぽたぽたと落ちた。
(なんで、俺ばっかり、こんな目に遭うんだよ)
――マルスのことだって、あいつが先に、俺を消そうとしたんだ。
たぶん――おそらく、いや、絶対。
俺は、自分を守っただけだ。
なのに、あいつらは。
俺の陰で、俺を笑って。俺を気持ち悪いと言って。俺に、死ねと言って。
俺の剣にぶら下がって、魔骸を消して、手柄を立てて、褒められて――その夜には、三人で、楽しそうに、抱き合ってる。
(ふざけるなよ……っ)
(俺がいなきゃ、ダメなくせに……っ!!)
リーフは、背中の剣の柄を、握りしめた。
革巻きの、二列の刻み目。その下の、マルスの刻み目。
ニコに、見られていた。数えられていた。
――刻み目の意味まで、知られていた。
(……俺がいなきゃ、魔骸は消せない)
ふと、その言葉が、頭の中で、違う形に裏返った。
(――なら、俺が、いなくなったら?)
リーフは、涙に濡れた顔を、ゆっくりと上げた。
廃屋の壁の向こうで、三人が、寄り添って眠りにつこうとしていた。
ガラムの大きな腕の中で、ナティアとニコが、子猫のように丸くなっていた。
あの三人は、魔骸を消せなくなる。
手柄も、褒め言葉も、全部、失くす。
――そのとき、あいつらは、どんな顔をするだろう。
俺を探して、泣いて、縋って。
「戻ってきて、リーフ」と、あの空色の目を涙で濁らせて――。
(……えへ)
リーフの唇の端が、ゆっくりと、吊り上がった。
泣き腫らした顔のまま。
(えへ……えへへ……)
背中の剣が、どくん、と、脈打った。
夜明けまで、まだ、遠かった。




