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自己愛性ハーレム勇者 〜元の世界が俺の価値を理解できなかっただけ!〜【R15版】  作者: シュキラ
リーフの章~影の勇者~

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20/23

20.魔骸

 王都を発って、ひと月半。


 四人は、北西の湿地帯の縁にある小さな町に辿り着いた。


 石の橋が一本、川に架かっているだけの町だった。

 苔むした屋根。湿った泥と川藻の匂い。

 町の裏手の丘には、苔に覆われた古い石柱が何十本も立ち並んでいた。魔王が来るよりさらに昔、この地を治めていた名も残らぬ王国の遺跡だという。


 ――その遺跡を巡る学者の一行。

 それが、ヴァルドから渡された四人の「顔」だった。


 マルスは、王都の学院から遣わされた若い学者。

 ナティアは、石柱の紋様を写し取る写生係。

 ニコは、雇われの護衛。

 リーフは、荷を担ぎ、宿の手配をし、靴の泥を落とす雑用係。

 背中の大剣は、布でぐるぐる巻きにして「測量の道具」ということにされた。


「ざ、雑用係……。え、えへ……顔なら、俺のほうが、どう見ても学者っぽいのに」


 ナティアが、ため息をついた。


「リーフ。あんたに学者のふりなんかさせたら、半日でボロが出るわよ」

「にゃはは! リーフ先生ーとか、ウチ絶対言いたくないしー」


 マルスが、困ったように頭を掻いた。


「まあまあ。俺だって、学者なんて柄じゃないさ。……頼りにしてるぞ、リーフ」


 そう言って、リーフの肩を軽く叩いた。


(――頼りにしてる、だと)


 へらへらと笑い返しながら、リーフは、肩に残った手の重みを噛みしめていた。


(長になったからって、偉そうに)


 ***


 町に一軒きりの宿。


 主人は、腹の出た人のいい親父だった。

 帳場に立っていたのは、その息子の嫁だという若女将だ。

 ふくよかな頬。ゆるく編んで肩に垂らした亜麻色の髪。前掛けの紐できゅっと締まった、肉づきのいい腰。


「まあ、学者様がた! こんな辺鄙な町に、ようこそ」


 若女将が、帳場から身を乗り出した。

 前屈みになった拍子に、襟元がゆるく開いた。


 マルスが宿帳に名を書き、ナティアが荷を下ろし、ニコが「お腹すいたー」と鼻を鳴らしている。

 リーフだけが、帳場の前に突っ立ったまま、その襟元を、まばたきもせずに見つめていた。


「……あの、そちらのお兄さん?」

「え、えへ……あ、いえ。き、きれいな、宿ですね。えへへ」


 若女将の笑顔が、一瞬、強張った。

 すっと胸元をかき合わせ、マルスのほうへ向き直る。


「学者様は、どちらのお部屋がよろしいかしら。川の見える部屋が――」


 声の調子が、まるで違った。


(なんだよ。俺のほうが顔がいいのに。なんで、どいつもこいつも、マルスに尻尾振るんだよ)


 ***


 宿の湯殿は、裏庭の外れの、小さな板葺きの小屋だった。

 夜更け、宿の者が使い終わったあとに、若女将がひとりで湯を使う。夕餉のとき、下働きの婆さんがそう話しているのを、リーフは聞き逃さなかった。


 月のない夜だった。

 リーフは、薪の山の陰に這いつくばり、湯殿の壁の節穴に、片目を押し当てた。


 湯気の向こうで、若女将が編んだ髪をほどいていた。

 亜麻色の髪が、白い背中にさらさらと流れ落ちる。前掛けを外し、帯を解く。

 その先は、立ちこめる湯気が、白くぼかしていた。

 桶の湯を肩からかける音。ぽたぽたと、雫の落ちる音。


「……っ、は……」


 リーフは、壁に額を押しつけ、息を殺し、目だけをぎらぎらと節穴に押し当てていた。

 腹の底が、じりじりと熱かった。


(旦那、いるくせに。マルスには、あんなに愛想よく笑ったくせに)


 昼間の、強張った笑顔。胸元をかき合わせた、あの仕草。


(俺には、あんな顔しやがって。……見てるぞ。全部、見てるぞ。えへ、えへへ……)


 若女将が、ふと、こちらを振り向いた気がした。


 リーフは、薪の山の陰で、息を止めた。

 ――気づかれてはいない。湯気の向こうで、若女将は、また桶を手に取った。


 リーフは、声を殺して笑った。


 ***


 翌朝、四人は石柱の並ぶ丘に登った。


 ナティアが写生板を広げ、マルスがそれらしく紋様を指でなぞって手帳に書きつける。

 リーフは、ずっしりと重い荷を担いで、その後ろを汗だくでついて回った。

 町の子どもたちが、珍しがって遠巻きに見物に来ていた。


「学者のおにいちゃーん! それ、なんて書いてあるのー?」


 マルスは子どもたちのところへ行ってしゃがみ込み、紋様の読み方を、面白おかしく話して聞かせた。

 子どもたちがきゃあきゃあと笑い転げ、ニコがそこに混ざって一緒に笑う。

 ナティアが写生板から顔を上げ、目を細めてその光景を眺めていた。


 リーフは、石柱にもたれて、それを見ていた。


(……偽善者が)


 あいつは昔からそうだった。孤児院のちびどもに「兄ちゃん、兄ちゃん」と懐かれて、それでナティアの目を引いてきたのだ。

 全部、計算ずくだ。そうに決まっている。


「ねえ、あの荷物持ちの人、なんでずっとこっち見てるの?」

「しっ。目、合わせちゃだめ。……なんか、こわい」


 子どもたちが、ひそひそと囁き合って、マルスの背中に隠れた。


(――ほらな。マルスのやつが、俺の悪口を吹き込んでるんだ。ガキにまで)


 ***


 昼過ぎ、町の古老のところから戻ってきたマルスは、宿の二階の部屋で声を落とした。


「……『祟り』って言うらしい」


「たたり?」


 寝台の上で膝を抱えたまま、ニコが首を傾げた。


「何年かに一度、南の沼から煙が湧くんだと。それが夜のうちに町まで流れてきて――朝になると、何人か消えてる」

「消えてるって……どこに?」

「分からない。白い手を見たって婆さんもいれば、死んだお袋の声に呼ばれたって男もいる。だから、祟りだ」


 ナティアが、ヴァルドから渡された羊皮紙を広げた。

 王国北西の地図。その南の湿地に、黒い染みがひとつ。


「……先生の地図とも合うわね。南の沼に、ひとつ」


「煙を吐く魔骸かぁ。魔骸って、みんな狼みたいなのかと思ってた」

「講義で聞いたでしょ。どの肉片から生まれたかで、姿も獲物の捕り方も、まるで違うって」

「……にゃは。そうだっけ~」


 ナティアが、じろりとニコを睨んだ。


「前に出たのは?」

「四年前。今年の春から、また沼が濁りだしたって」


 窓の外、灰色の川の向こうの湿地に、うっすらと白いもやが漂っていた。


「……目を覚ましかけてる、ってことか」


 マルスが、低く言った。


「沼のそばに、小さな村がある。煙が来ると、いつも最初にやられるのはそこだそうだ。――今夜、行こう」


 三人の顔を、順に見た。


「俺たちの、最初の魔骸だ。四人で、必ず消すぞ」


 ナティアが頷き、ニコが、にゃは、と小さく笑って拳を握った。


「う、うん。えへ……が、頑張ろうね、マルス兄ちゃん」


(――仕切るなよ。お前が長なのは、ヴァルドのじじいが贔屓したからだろうが)


 ***


 出立の前、マルスがリーフを宿の裏庭に呼び出した。


 薪の山の前だった。

 昨夜、リーフが這いつくばっていた、その場所だった。


 マルスは、踏み荒らされた土を見下ろし、それから、湯殿の壁の節穴を見た。


「……リーフ。昨日の夜、ここにいただろ」


 背中を、冷たい汗が伝った。


「え……え、えへ。な、何のこと? お、俺、ずっと寝てたよ」


 マルスは、黙って、薪の山の角を指さした。

 ささくれた木の端に、リーフの外套と同じ色の糸くずが、引っかかっていた。


「今朝、若女将さんが親父さんに話してた。湯を使ってるとき、外に誰かいた気がするって。……震えてたぞ」


 怒鳴り声ではなかった。

 ひどく静かで、悲しそうな声だった。


「修道院の頃からだ。ナティアもニコも、お前を気持ち悪……――怖がってる。……俺は、ずっと見て見ぬふりをしてきた。お前も、家族だからな……だが……」


「ご、誤解だって、マルス兄ちゃん。お、俺は、何も――」

「リーフ」


 マルスが、まっすぐにリーフを見た。


「次は、先生に話す。そうなったら……お前はもう、影にはいられない」


 影には、いられない。

 それが何を意味するか、リーフには分かっていた。


 神器は取り上げられる。

 秘密を知りすぎた孤児が、塀の外へ、生きて出してもらえるはずがない。


「頼むから、俺にそんなことをさせないでくれ」


 マルスはリーフの肩にそっと手を置き、宿の中へ戻っていった。


 ***


 肩に残った手の温もりが、ひどく気持ち悪かった。


(なんだよ、それ。ちょっと見ただけだろ。触ってもいない。誰も傷ついてない)


(なのに、先生に話す? 影にいられない?)


(――俺を、殺す気か)


 そうだ。

 マルスは、俺を殺す気なのだ。

 ナティアとニコを独り占めするために。俺が邪魔だから、こんな些細なことを大げさに騒ぎ立てて。


 家族だから、だと。見ないふりをしてきた、だと。

 ――恩着せがましい。全部、俺を見下すための言い訳じゃないか。


(先に手を出してきたのは、お前だぞ。マルス)


 背中の剣が、どくん、とかすかに脈打った。


 ***


 夜更け。四人は沼のほとりの村に入った。


 葦葺きの家が二十軒ほど、湿った地面の上に肩を寄せ合っている。

 村人たちは、「沼の毒気を調べるから」とマルスが村長に頼み込み、町へ避難させてあった。


 白く濁った月の下で、沼の上のもやが、ゆっくりと厚みを増していく。

 風もないのに、うねっていた。生き物の呼吸のように。


「……来るよ」


 鞭の柄を握るニコの笑みが、かすかに引きつっていた。


 ――しゅう、と。


 沼の真ん中で、水面が泡立った。


 しゅう。しゅう。しゅうううううう。


 泡が膨れ上がり、水面を押し上げて、何かが浮かび上がってくる。


 ――巨大な、ヒキガエルのようだった。


 家一軒ほどもある、ぶよぶよとした灰色の肉の塊。

 その背中に、煙突のような穴が、蜂の巣のようにびっしりと開いていた。ひとつひとつの穴から、白い煙がごぼごぼと噴き出している。


 顔はなかった。目も、口も。

 ただ脈打つ肉の塊が、果てしなく、煙を吐き続けていた。


 煙が沼から溢れ、葦原を越え、村へ這い寄ってくる。


「――あれが、祟りの正体か」


 マルスが、理砕の槌を肩から下ろした。鉄の頭に、赤い光が熾火のように灯る。


「ナティア、煙を頼む。ニコは腕を止めろ。殻は俺が割る。――リーフ、とどめは任せた」


 リーフは、へらへらと頷いた。

 布をほどいた大剣が、三つの光に呼ばれて、青く脈打ち始めていた。


 煙が、村を呑んだ。


 白い。

 一歩先の仲間の背中さえ見えない。自分の手さえ霞んでいく。


 ――リーフ。こっちへおいで。


 煙の中から、女の声がした。

 柔らかくて、温かくて、どこか懐かしい。


 顔も知らない母親の声だと、なぜか、そう思った。

 足が、ふらりと声のほうへ踏み出しかける。


「――惑わされんじゃないわよッ!!」


 ナティアの声が、煙を裂いた。


 ――ひゅんっ!!


 黄色い光の矢が、白い闇をまっすぐに貫いた。

 矢の通った跡の煙が、じゅっと焼き払われ、一本の細い道のように晴れていく。


 ひゅんっ、ひゅんっ、ひゅんっ、ひゅんっ――!!


 ナティアが四方八方に矢を放つ。白い闇に、黄色く燃える道が、何本も刻まれていく。


 その道の先に――白い腕が見えた。


 煙でできた、何十本もの細く長い腕。

 五本の指があり、爪まであった。それが、家々の戸口を、窓を、手探りするように這い回っている。

 中にいるはずの人間を、探すように。


 ナティアの矢を浴びた腕が、苦悶するようにのたうった。


「にゃははっ、見えたぁっ!!」


 ニコが跳んだ。


 緑の鞭が宙を走り、二十本の光の糸に裂けて、煙の腕に絡みつく。


 しゅるるるるるっ――!


 煙の腕が、ぴたりと止まった。

 緑の光が煙を吸い上げ、白い腕がみるみる薄く透けていく。代わりに、ニコの細い腕を、黒い血管が這い上がっていく。


「……っ、にゃは……煙のくせに、重っ……!! でも――吸える、吸えるよっ!!」


 煙の腕が次々と吸い尽くされ、白い闇が薄れていく。


 その奥に、沼が見えた。

 灰色の肉の塊がぶるぶると震えていた。煙突から、煙が咳き込むように途切れ途切れに吐き出されている。


「――マルスッ!!」

「おうッ!!」


 マルスが走った。

 ナティアが焼き払った黄色い道を。ニコが吸い尽くした緑の道を。

 泥を蹴り、葦を薙ぎ倒し、沼の浅瀬へまっすぐに。


 肉の塊の煙突が、一斉にマルスのほうを向いた。


 ――ごぼおおおおおっ!!


 濃い煙の塊が叩きつけられる。

 マルスは止まらなかった。煙の中を、突き抜けた。


「――砕けろォォォッ!!」


 ごぉぉぉぉぉんっ!!


 理砕の槌が、灰色の肉に叩き込まれた。

 肉が裂け、その下から硬い黒い殻が覗く。赤い光の筋が、蜘蛛の巣のように殻を走った。


 殻が、割れた。

 剥き出しになった黒い核が、どくん、どくん、と脈打つたびに、苦悶に歪んだ顔を浮かべては消した。


「――リーフッ!! 今だッ!!」


 ***


 リーフは、走っていた。


 怖くはなかった。

 三つの光が剣をぐいぐいと引っ張り、身体が勝手に動く。黄色い道を、緑の道を、マルスが切り開いた道を、まっすぐに。


 黄色と、緑と、赤。

 三つの光が核の上で渦を巻き――リーフの剣に、流れ込んだ。


 白。

 何もかもを塗り潰す、真っ白な光。


 リーフは跳んだ。

 白く燃える大剣を、頭上に振りかぶって。


(ナティアの矢でも、ニコの鞭でも、マルスの槌でもない。こいつを消すのは――)


(俺なんだよッ!!)


 叩き込んだ。


 ***


 白い光が、核の内側から溢れ出した。

 灰色の肉の塊が、内側から白く灼けていく。


 ――消える。


 そう思った、その瞬間。


 肉の塊が、膨れ上がった。

 死にかけの獣が、最後の息を吸い込むように。背中の煙突という煙突が一斉に開いた。


 ――ごぼおおおおおおおおおおおおおっ!!


 これまでとは比べものにならない煙が、爆風のように噴き出した。

 濃く、重く、ねっとりとした白が、沼も村も、一瞬で呑み込んだ。


 何も見えない。

 剣の光さえ白に塗り潰されていく。


「――ナティア!! ニコ!! リーフ!! どこだ!! 声を出せ、固まるんだ!!」


 すぐ近くで、マルスの声がした。

 ナティアの咳き込む声。遠くで、ニコの「こっち!」という叫び。

 煙の中から、あの白い腕が、また何十本も手探りで伸びてくる気配。


 ――死に際の、最後のあがきだった。


 足元で、からん、と何かが鳴った。


 煙の底に、牙が転がっていた。

 肉の塊のどこかから砕けて落ちた、人の腕ほどもある、黄ばんだ鋭い牙。

 まだ、灰になりきっていなかった。


 リーフは、それを拾い上げた。


「リーフ!? そこにいるのか!?」


 煙が、わずかに揺らいだ。

 大きな背中が見えた。

 ナティアの声のするほうを探して、こちらに背を向け、理砕の槌を構えている、マルスの背中。


 リーフは、牙を両手で握り直した。


(誰にも、見えない)


 ナティアにも。ニコにも。

 白い、白い煙の中で、誰にも、何も。


(――えへ)


 一歩。もう一歩。

 足音は、煙に吸われて消えた。


 ――ずぶり。


 牙が、マルスの背中に沈み込んだ。

 肋骨の隙間を抜けて、深く、深く。

 熱いものが、リーフの手を濡らした。


 マルスの身体が、びくん、と跳ねた。

 理砕の槌が、手から滑り落ちる。


「……っ、が……」


 マルスが、ゆっくりと振り返った。

 煙の中で、目が合った。


「……リー、フ……?」


 リーフは、にこり、と笑った。


「――え、えへ」


 牙を捻った。


 マルスの口から、血が溢れた。

 唇が震え、何かを言おうとした。


 それきりだった。


 巨体が、膝から崩れ、白い煙の底に沈んでいった。

 牙は、その背中に深々と突き刺さったまま残った。


(――魔骸に、やられたんだ。煙の中で、背中を貫かれた。かわいそうに。誰にもどうしようもなかった)


 胸の奥が、すうっと軽くなっていた。


 ***


 煙が晴れていった。


 灰色の肉の塊は、もうどこにもなかった。

 煙突も、ぶよぶよの肉も、何もかもが黒い灰になって、夜風に舞い上がっていく。


 ――マルスの背中の牙も。


 黄ばんだ牙が、端から黒い灰になってほどけていった。さらさらと、音もなく。

 最後には、ぽっかりと開いた深い傷だけが残った。


 証拠なんか、どこにもない。


「――マルス? マルス、どこ?」


 白いもやの中から、ナティアがふらふらと歩いてきた。

 煤と泥にまみれ、弓を握ったまま。

 その空色の目が、リーフの足元に倒れた大きな身体を見つけた。


 ナティアの手から、弓が落ちた。


「マルス……っ!!」


 泥の中に膝をつき、ナティアはマルスにすがりついた。

 背中の傷に触れた指が、真っ赤に染まった。


「マルス、マルス、マルスっ……!! 嫌、嫌っ、目を開けて、ねえ、お願い、目を開けてよぉっ……!!」

「――マルス兄ぃっ!!」


 ニコが、黒く染まった右腕を引きずって駆けてきた。

 泥に足を取られて転び、それでも這うようにして、マルスのそばに辿り着く。


「うそ……うそでしょ……? にゃは……ねえ、マルスにぃ、冗談、だよね……? ねえってばぁ……っ」


 ニコの顔から、笑みが剥がれ落ちた。

 ぐしゃぐしゃに歪んで、子どものように声を上げて泣き出した。


 リーフは、二人を見下ろしていた。


 ナティアが、泣いている。

 泥に這いつくばり、髪を振り乱し、声を枯らして泣き叫んでいる。


 ――何百回も夢に見てきた、あの顔だった。


 腹の底が、ゆっくりと、熱くなっていく。


(えへ……えへへ……)


 リーフは、ナティアの隣に膝をついた。

 眉を寄せ、目に涙を浮かべてみせる。


「ナ、ナティア……っ。お、俺、煙で、何も見えなくて……気づいたら、マルス兄ちゃんが、牙に……っ。ご、ごめん、俺が、もっと早く……っ」


 震える手で、ナティアの肩に触れた。


 ナティアは、振り払わなかった。

 振り払う力さえ、残っていなかった。


 泣きじゃくる薄い肩。汗と煤と血の匂い。小刻みに震える、温かい身体。

 ――リーフの手のひらが、触れていた。


(――ああ。最高だ)


 ***


 夜が明ける前に、三人は町を去った。


 宿の主人には、「遺跡の調査中、沼に足を取られて仲間が一人亡くなった」とだけ伝えた。

 主人は何度も頭を下げ、若女将は目を赤くしてマルスの亡骸に香草を手向けた。

 若女将は最後まで、リーフのほうを見なかった。


 祟りは、もう出ない。

 だが、町の誰もそれを知ることはない。何年か経って、煙が湧かなくなったことに、誰かがふと気づくだけだ。

 ――それが、影の仕事だった。


 マルスの亡骸は、荷車に乗せて王都へ運んだ。

 理砕の槌は、ナティアが背負った。細い身体には重すぎるはずの大槌を、ナティアは誰にも渡そうとしなかった。


 ひと月半の帰り道、ナティアはほとんど口をきかず、ニコはもう笑わなかった。

 荷車の後ろを歩くリーフだけが、ときどき、へらへらとひとりで笑っていた。


 ***


 森の修道院に戻った翌日。

 ヴァルドは、マルスの亡骸と背中の傷を、長いあいだ黙って見下ろしていた。

 それから、三人に告げた。


「――当面、隼の長は、ナティアとする」


(……は?)


 マルスがいなくなれば、次は自分のはずだった。

 百十年、誰も握れなかった剣の持ち主。最後のひと太刀を任される、隼の切り札。

 魔骸を消したのは俺の剣だ。


(なのに――また、俺じゃない)


 ***


 理砕の槌が次の手を選んだのは、それから十日後のことだった。


「――お、あんたらが隼か! よろしくなぁ!」


 修道院の門をくぐってきたのは、見上げるような大男だった。


 岩のような体躯。日に焼けた浅黒い肌。短く刈った褐色の髪。

 彫りの深い厳つい顔立ち――なのに、子どものように屈託なく笑っていた。

 年の頃は、リーフたちとさして変わらない。


「ガラムだ。ドラヴァって知ってるか? 東の、山ばっかりの国。そこの生まれでさ」

「ドラヴァ……?」


 ニコが、目を丸くした。


「なんで、そんな遠くから?」

「ガキの頃に奴隷商に売られてな。あっちこっち転がされて、気づいたらこの国の孤児院だ。で、先日そこの先生に連れてこられて、こいつを握ってみたら――」


 ガラムは、理砕の槌を片手でひょいと持ち上げた。

 マルスが両手で担いでいた大槌を、木の枝でも振るように、くるりと回してみせる。

 鉄の頭が、赤く灯った。

 当たり前のように。最初から、この男のものだったかのように。


「――光っちまった!」

「……ほう。理砕の槌が、ここまで素直に応えるか」


 ヴァルドが、珍しく眉を上げた。


「よし。今日から、隼の長は、ガラムとする」


 リーフの頭の中が、真っ白になった。


 今日来たばかりの男だぞ。

 この国の生まれでもない、どこの馬の骨とも知れない、奴隷上がりの男だぞ。


「は!? 俺が? いやいや先生、俺、今日来たばっかだぜ。字だってろくに読めねえのに」

「字なら、ナティアが読める」

「……そういうもんか?」


 ガラムは大きな手で頭を掻き、それから、豪快に笑った。


「まあ、任されたからにはやるけどさ。よろしくな、ナティア、ニコ、リーフ!」


 差し出された手を、リーフは見下ろした。

 まっすぐな目。分厚くて温かそうな手のひら。


(――マルスを、ただ、もっとでかくしただけじゃないか)


「……え、えへ。よ、よろしくね、ガラム」


 リーフは、いちばんきれいに見える角度で笑いながら、その手を握った。


 ***


 ガラムは、たった数日で隼に馴染んだ。


 夕げの鍋を、誰より手際よく作った。香辛料の効いた見たこともない煮込みだった。


「……にゃ、にゃにこれ!? 辛っ!! でも、うまっ!!」

「だろ? 俺の生まれ故郷の味だ。――ま、故郷の記憶なんてこれっぽっちもねえけどな!」


 ガラムが豪快に喉を鳴らして笑う。


「じゃあ、ただのあてずっぽうな創作料理ってこと?」


 呆れたようにツッコミを入れたニコの口元が、小さく緩んでいた。

 ――マルスが死んでから、ニコが笑ったのは、それが初めてだった。


 ナティアの背負っていた荷を、ガラムが何も言わずにひょいと持ってやったとき。

 ナティアは、ほんのわずかに目元を緩めた。


「……ありがと」


 小さな声だった。

 それでも、マルスが死んで以来、ナティアが誰かに向けた、初めての柔らかい声だった。


 リーフは、食卓の端で煮込みを口に運んでいた。

 辛かった。舌が、焼けるように痛かった。


(なんでだよ)


 マルスを消したんだぞ。

 邪魔な背中をどかして、ナティアの隣も、長の座も、全部空けてやったのに。

 なんで、そこに、別の男が当たり前みたいな顔で座ってるんだ。


(俺がいなきゃ、魔骸ひとつ消せないくせに。俺の剣がなきゃ、だめなくせに。……なんで、誰も、俺を見ないんだ)


 匙を握る指が、白くなっていた。


 ***

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