20.魔骸
王都を発って、ひと月半。
四人は、北西の湿地帯の縁にある小さな町に辿り着いた。
石の橋が一本、川に架かっているだけの町だった。
苔むした屋根。湿った泥と川藻の匂い。
町の裏手の丘には、苔に覆われた古い石柱が何十本も立ち並んでいた。魔王が来るよりさらに昔、この地を治めていた名も残らぬ王国の遺跡だという。
――その遺跡を巡る学者の一行。
それが、ヴァルドから渡された四人の「顔」だった。
マルスは、王都の学院から遣わされた若い学者。
ナティアは、石柱の紋様を写し取る写生係。
ニコは、雇われの護衛。
リーフは、荷を担ぎ、宿の手配をし、靴の泥を落とす雑用係。
背中の大剣は、布でぐるぐる巻きにして「測量の道具」ということにされた。
「ざ、雑用係……。え、えへ……顔なら、俺のほうが、どう見ても学者っぽいのに」
ナティアが、ため息をついた。
「リーフ。あんたに学者のふりなんかさせたら、半日でボロが出るわよ」
「にゃはは! リーフ先生ーとか、ウチ絶対言いたくないしー」
マルスが、困ったように頭を掻いた。
「まあまあ。俺だって、学者なんて柄じゃないさ。……頼りにしてるぞ、リーフ」
そう言って、リーフの肩を軽く叩いた。
(――頼りにしてる、だと)
へらへらと笑い返しながら、リーフは、肩に残った手の重みを噛みしめていた。
(長になったからって、偉そうに)
***
町に一軒きりの宿。
主人は、腹の出た人のいい親父だった。
帳場に立っていたのは、その息子の嫁だという若女将だ。
ふくよかな頬。ゆるく編んで肩に垂らした亜麻色の髪。前掛けの紐できゅっと締まった、肉づきのいい腰。
「まあ、学者様がた! こんな辺鄙な町に、ようこそ」
若女将が、帳場から身を乗り出した。
前屈みになった拍子に、襟元がゆるく開いた。
マルスが宿帳に名を書き、ナティアが荷を下ろし、ニコが「お腹すいたー」と鼻を鳴らしている。
リーフだけが、帳場の前に突っ立ったまま、その襟元を、まばたきもせずに見つめていた。
「……あの、そちらのお兄さん?」
「え、えへ……あ、いえ。き、きれいな、宿ですね。えへへ」
若女将の笑顔が、一瞬、強張った。
すっと胸元をかき合わせ、マルスのほうへ向き直る。
「学者様は、どちらのお部屋がよろしいかしら。川の見える部屋が――」
声の調子が、まるで違った。
(なんだよ。俺のほうが顔がいいのに。なんで、どいつもこいつも、マルスに尻尾振るんだよ)
***
宿の湯殿は、裏庭の外れの、小さな板葺きの小屋だった。
夜更け、宿の者が使い終わったあとに、若女将がひとりで湯を使う。夕餉のとき、下働きの婆さんがそう話しているのを、リーフは聞き逃さなかった。
月のない夜だった。
リーフは、薪の山の陰に這いつくばり、湯殿の壁の節穴に、片目を押し当てた。
湯気の向こうで、若女将が編んだ髪をほどいていた。
亜麻色の髪が、白い背中にさらさらと流れ落ちる。前掛けを外し、帯を解く。
その先は、立ちこめる湯気が、白くぼかしていた。
桶の湯を肩からかける音。ぽたぽたと、雫の落ちる音。
「……っ、は……」
リーフは、壁に額を押しつけ、息を殺し、目だけをぎらぎらと節穴に押し当てていた。
腹の底が、じりじりと熱かった。
(旦那、いるくせに。マルスには、あんなに愛想よく笑ったくせに)
昼間の、強張った笑顔。胸元をかき合わせた、あの仕草。
(俺には、あんな顔しやがって。……見てるぞ。全部、見てるぞ。えへ、えへへ……)
若女将が、ふと、こちらを振り向いた気がした。
リーフは、薪の山の陰で、息を止めた。
――気づかれてはいない。湯気の向こうで、若女将は、また桶を手に取った。
リーフは、声を殺して笑った。
***
翌朝、四人は石柱の並ぶ丘に登った。
ナティアが写生板を広げ、マルスがそれらしく紋様を指でなぞって手帳に書きつける。
リーフは、ずっしりと重い荷を担いで、その後ろを汗だくでついて回った。
町の子どもたちが、珍しがって遠巻きに見物に来ていた。
「学者のおにいちゃーん! それ、なんて書いてあるのー?」
マルスは子どもたちのところへ行ってしゃがみ込み、紋様の読み方を、面白おかしく話して聞かせた。
子どもたちがきゃあきゃあと笑い転げ、ニコがそこに混ざって一緒に笑う。
ナティアが写生板から顔を上げ、目を細めてその光景を眺めていた。
リーフは、石柱にもたれて、それを見ていた。
(……偽善者が)
あいつは昔からそうだった。孤児院のちびどもに「兄ちゃん、兄ちゃん」と懐かれて、それでナティアの目を引いてきたのだ。
全部、計算ずくだ。そうに決まっている。
「ねえ、あの荷物持ちの人、なんでずっとこっち見てるの?」
「しっ。目、合わせちゃだめ。……なんか、こわい」
子どもたちが、ひそひそと囁き合って、マルスの背中に隠れた。
(――ほらな。マルスのやつが、俺の悪口を吹き込んでるんだ。ガキにまで)
***
昼過ぎ、町の古老のところから戻ってきたマルスは、宿の二階の部屋で声を落とした。
「……『祟り』って言うらしい」
「たたり?」
寝台の上で膝を抱えたまま、ニコが首を傾げた。
「何年かに一度、南の沼から煙が湧くんだと。それが夜のうちに町まで流れてきて――朝になると、何人か消えてる」
「消えてるって……どこに?」
「分からない。白い手を見たって婆さんもいれば、死んだお袋の声に呼ばれたって男もいる。だから、祟りだ」
ナティアが、ヴァルドから渡された羊皮紙を広げた。
王国北西の地図。その南の湿地に、黒い染みがひとつ。
「……先生の地図とも合うわね。南の沼に、ひとつ」
「煙を吐く魔骸かぁ。魔骸って、みんな狼みたいなのかと思ってた」
「講義で聞いたでしょ。どの肉片から生まれたかで、姿も獲物の捕り方も、まるで違うって」
「……にゃは。そうだっけ~」
ナティアが、じろりとニコを睨んだ。
「前に出たのは?」
「四年前。今年の春から、また沼が濁りだしたって」
窓の外、灰色の川の向こうの湿地に、うっすらと白いもやが漂っていた。
「……目を覚ましかけてる、ってことか」
マルスが、低く言った。
「沼のそばに、小さな村がある。煙が来ると、いつも最初にやられるのはそこだそうだ。――今夜、行こう」
三人の顔を、順に見た。
「俺たちの、最初の魔骸だ。四人で、必ず消すぞ」
ナティアが頷き、ニコが、にゃは、と小さく笑って拳を握った。
「う、うん。えへ……が、頑張ろうね、マルス兄ちゃん」
(――仕切るなよ。お前が長なのは、ヴァルドのじじいが贔屓したからだろうが)
***
出立の前、マルスがリーフを宿の裏庭に呼び出した。
薪の山の前だった。
昨夜、リーフが這いつくばっていた、その場所だった。
マルスは、踏み荒らされた土を見下ろし、それから、湯殿の壁の節穴を見た。
「……リーフ。昨日の夜、ここにいただろ」
背中を、冷たい汗が伝った。
「え……え、えへ。な、何のこと? お、俺、ずっと寝てたよ」
マルスは、黙って、薪の山の角を指さした。
ささくれた木の端に、リーフの外套と同じ色の糸くずが、引っかかっていた。
「今朝、若女将さんが親父さんに話してた。湯を使ってるとき、外に誰かいた気がするって。……震えてたぞ」
怒鳴り声ではなかった。
ひどく静かで、悲しそうな声だった。
「修道院の頃からだ。ナティアもニコも、お前を気持ち悪……――怖がってる。……俺は、ずっと見て見ぬふりをしてきた。お前も、家族だからな……だが……」
「ご、誤解だって、マルス兄ちゃん。お、俺は、何も――」
「リーフ」
マルスが、まっすぐにリーフを見た。
「次は、先生に話す。そうなったら……お前はもう、影にはいられない」
影には、いられない。
それが何を意味するか、リーフには分かっていた。
神器は取り上げられる。
秘密を知りすぎた孤児が、塀の外へ、生きて出してもらえるはずがない。
「頼むから、俺にそんなことをさせないでくれ」
マルスはリーフの肩にそっと手を置き、宿の中へ戻っていった。
***
肩に残った手の温もりが、ひどく気持ち悪かった。
(なんだよ、それ。ちょっと見ただけだろ。触ってもいない。誰も傷ついてない)
(なのに、先生に話す? 影にいられない?)
(――俺を、殺す気か)
そうだ。
マルスは、俺を殺す気なのだ。
ナティアとニコを独り占めするために。俺が邪魔だから、こんな些細なことを大げさに騒ぎ立てて。
家族だから、だと。見ないふりをしてきた、だと。
――恩着せがましい。全部、俺を見下すための言い訳じゃないか。
(先に手を出してきたのは、お前だぞ。マルス)
背中の剣が、どくん、とかすかに脈打った。
***
夜更け。四人は沼のほとりの村に入った。
葦葺きの家が二十軒ほど、湿った地面の上に肩を寄せ合っている。
村人たちは、「沼の毒気を調べるから」とマルスが村長に頼み込み、町へ避難させてあった。
白く濁った月の下で、沼の上のもやが、ゆっくりと厚みを増していく。
風もないのに、うねっていた。生き物の呼吸のように。
「……来るよ」
鞭の柄を握るニコの笑みが、かすかに引きつっていた。
――しゅう、と。
沼の真ん中で、水面が泡立った。
しゅう。しゅう。しゅうううううう。
泡が膨れ上がり、水面を押し上げて、何かが浮かび上がってくる。
――巨大な、ヒキガエルのようだった。
家一軒ほどもある、ぶよぶよとした灰色の肉の塊。
その背中に、煙突のような穴が、蜂の巣のようにびっしりと開いていた。ひとつひとつの穴から、白い煙がごぼごぼと噴き出している。
顔はなかった。目も、口も。
ただ脈打つ肉の塊が、果てしなく、煙を吐き続けていた。
煙が沼から溢れ、葦原を越え、村へ這い寄ってくる。
「――あれが、祟りの正体か」
マルスが、理砕の槌を肩から下ろした。鉄の頭に、赤い光が熾火のように灯る。
「ナティア、煙を頼む。ニコは腕を止めろ。殻は俺が割る。――リーフ、とどめは任せた」
リーフは、へらへらと頷いた。
布をほどいた大剣が、三つの光に呼ばれて、青く脈打ち始めていた。
煙が、村を呑んだ。
白い。
一歩先の仲間の背中さえ見えない。自分の手さえ霞んでいく。
――リーフ。こっちへおいで。
煙の中から、女の声がした。
柔らかくて、温かくて、どこか懐かしい。
顔も知らない母親の声だと、なぜか、そう思った。
足が、ふらりと声のほうへ踏み出しかける。
「――惑わされんじゃないわよッ!!」
ナティアの声が、煙を裂いた。
――ひゅんっ!!
黄色い光の矢が、白い闇をまっすぐに貫いた。
矢の通った跡の煙が、じゅっと焼き払われ、一本の細い道のように晴れていく。
ひゅんっ、ひゅんっ、ひゅんっ、ひゅんっ――!!
ナティアが四方八方に矢を放つ。白い闇に、黄色く燃える道が、何本も刻まれていく。
その道の先に――白い腕が見えた。
煙でできた、何十本もの細く長い腕。
五本の指があり、爪まであった。それが、家々の戸口を、窓を、手探りするように這い回っている。
中にいるはずの人間を、探すように。
ナティアの矢を浴びた腕が、苦悶するようにのたうった。
「にゃははっ、見えたぁっ!!」
ニコが跳んだ。
緑の鞭が宙を走り、二十本の光の糸に裂けて、煙の腕に絡みつく。
しゅるるるるるっ――!
煙の腕が、ぴたりと止まった。
緑の光が煙を吸い上げ、白い腕がみるみる薄く透けていく。代わりに、ニコの細い腕を、黒い血管が這い上がっていく。
「……っ、にゃは……煙のくせに、重っ……!! でも――吸える、吸えるよっ!!」
煙の腕が次々と吸い尽くされ、白い闇が薄れていく。
その奥に、沼が見えた。
灰色の肉の塊がぶるぶると震えていた。煙突から、煙が咳き込むように途切れ途切れに吐き出されている。
「――マルスッ!!」
「おうッ!!」
マルスが走った。
ナティアが焼き払った黄色い道を。ニコが吸い尽くした緑の道を。
泥を蹴り、葦を薙ぎ倒し、沼の浅瀬へまっすぐに。
肉の塊の煙突が、一斉にマルスのほうを向いた。
――ごぼおおおおおっ!!
濃い煙の塊が叩きつけられる。
マルスは止まらなかった。煙の中を、突き抜けた。
「――砕けろォォォッ!!」
ごぉぉぉぉぉんっ!!
理砕の槌が、灰色の肉に叩き込まれた。
肉が裂け、その下から硬い黒い殻が覗く。赤い光の筋が、蜘蛛の巣のように殻を走った。
殻が、割れた。
剥き出しになった黒い核が、どくん、どくん、と脈打つたびに、苦悶に歪んだ顔を浮かべては消した。
「――リーフッ!! 今だッ!!」
***
リーフは、走っていた。
怖くはなかった。
三つの光が剣をぐいぐいと引っ張り、身体が勝手に動く。黄色い道を、緑の道を、マルスが切り開いた道を、まっすぐに。
黄色と、緑と、赤。
三つの光が核の上で渦を巻き――リーフの剣に、流れ込んだ。
白。
何もかもを塗り潰す、真っ白な光。
リーフは跳んだ。
白く燃える大剣を、頭上に振りかぶって。
(ナティアの矢でも、ニコの鞭でも、マルスの槌でもない。こいつを消すのは――)
(俺なんだよッ!!)
叩き込んだ。
***
白い光が、核の内側から溢れ出した。
灰色の肉の塊が、内側から白く灼けていく。
――消える。
そう思った、その瞬間。
肉の塊が、膨れ上がった。
死にかけの獣が、最後の息を吸い込むように。背中の煙突という煙突が一斉に開いた。
――ごぼおおおおおおおおおおおおおっ!!
これまでとは比べものにならない煙が、爆風のように噴き出した。
濃く、重く、ねっとりとした白が、沼も村も、一瞬で呑み込んだ。
何も見えない。
剣の光さえ白に塗り潰されていく。
「――ナティア!! ニコ!! リーフ!! どこだ!! 声を出せ、固まるんだ!!」
すぐ近くで、マルスの声がした。
ナティアの咳き込む声。遠くで、ニコの「こっち!」という叫び。
煙の中から、あの白い腕が、また何十本も手探りで伸びてくる気配。
――死に際の、最後のあがきだった。
足元で、からん、と何かが鳴った。
煙の底に、牙が転がっていた。
肉の塊のどこかから砕けて落ちた、人の腕ほどもある、黄ばんだ鋭い牙。
まだ、灰になりきっていなかった。
リーフは、それを拾い上げた。
「リーフ!? そこにいるのか!?」
煙が、わずかに揺らいだ。
大きな背中が見えた。
ナティアの声のするほうを探して、こちらに背を向け、理砕の槌を構えている、マルスの背中。
リーフは、牙を両手で握り直した。
(誰にも、見えない)
ナティアにも。ニコにも。
白い、白い煙の中で、誰にも、何も。
(――えへ)
一歩。もう一歩。
足音は、煙に吸われて消えた。
――ずぶり。
牙が、マルスの背中に沈み込んだ。
肋骨の隙間を抜けて、深く、深く。
熱いものが、リーフの手を濡らした。
マルスの身体が、びくん、と跳ねた。
理砕の槌が、手から滑り落ちる。
「……っ、が……」
マルスが、ゆっくりと振り返った。
煙の中で、目が合った。
「……リー、フ……?」
リーフは、にこり、と笑った。
「――え、えへ」
牙を捻った。
マルスの口から、血が溢れた。
唇が震え、何かを言おうとした。
それきりだった。
巨体が、膝から崩れ、白い煙の底に沈んでいった。
牙は、その背中に深々と突き刺さったまま残った。
(――魔骸に、やられたんだ。煙の中で、背中を貫かれた。かわいそうに。誰にもどうしようもなかった)
胸の奥が、すうっと軽くなっていた。
***
煙が晴れていった。
灰色の肉の塊は、もうどこにもなかった。
煙突も、ぶよぶよの肉も、何もかもが黒い灰になって、夜風に舞い上がっていく。
――マルスの背中の牙も。
黄ばんだ牙が、端から黒い灰になってほどけていった。さらさらと、音もなく。
最後には、ぽっかりと開いた深い傷だけが残った。
証拠なんか、どこにもない。
「――マルス? マルス、どこ?」
白いもやの中から、ナティアがふらふらと歩いてきた。
煤と泥にまみれ、弓を握ったまま。
その空色の目が、リーフの足元に倒れた大きな身体を見つけた。
ナティアの手から、弓が落ちた。
「マルス……っ!!」
泥の中に膝をつき、ナティアはマルスにすがりついた。
背中の傷に触れた指が、真っ赤に染まった。
「マルス、マルス、マルスっ……!! 嫌、嫌っ、目を開けて、ねえ、お願い、目を開けてよぉっ……!!」
「――マルス兄ぃっ!!」
ニコが、黒く染まった右腕を引きずって駆けてきた。
泥に足を取られて転び、それでも這うようにして、マルスのそばに辿り着く。
「うそ……うそでしょ……? にゃは……ねえ、マルスにぃ、冗談、だよね……? ねえってばぁ……っ」
ニコの顔から、笑みが剥がれ落ちた。
ぐしゃぐしゃに歪んで、子どものように声を上げて泣き出した。
リーフは、二人を見下ろしていた。
ナティアが、泣いている。
泥に這いつくばり、髪を振り乱し、声を枯らして泣き叫んでいる。
――何百回も夢に見てきた、あの顔だった。
腹の底が、ゆっくりと、熱くなっていく。
(えへ……えへへ……)
リーフは、ナティアの隣に膝をついた。
眉を寄せ、目に涙を浮かべてみせる。
「ナ、ナティア……っ。お、俺、煙で、何も見えなくて……気づいたら、マルス兄ちゃんが、牙に……っ。ご、ごめん、俺が、もっと早く……っ」
震える手で、ナティアの肩に触れた。
ナティアは、振り払わなかった。
振り払う力さえ、残っていなかった。
泣きじゃくる薄い肩。汗と煤と血の匂い。小刻みに震える、温かい身体。
――リーフの手のひらが、触れていた。
(――ああ。最高だ)
***
夜が明ける前に、三人は町を去った。
宿の主人には、「遺跡の調査中、沼に足を取られて仲間が一人亡くなった」とだけ伝えた。
主人は何度も頭を下げ、若女将は目を赤くしてマルスの亡骸に香草を手向けた。
若女将は最後まで、リーフのほうを見なかった。
祟りは、もう出ない。
だが、町の誰もそれを知ることはない。何年か経って、煙が湧かなくなったことに、誰かがふと気づくだけだ。
――それが、影の仕事だった。
マルスの亡骸は、荷車に乗せて王都へ運んだ。
理砕の槌は、ナティアが背負った。細い身体には重すぎるはずの大槌を、ナティアは誰にも渡そうとしなかった。
ひと月半の帰り道、ナティアはほとんど口をきかず、ニコはもう笑わなかった。
荷車の後ろを歩くリーフだけが、ときどき、へらへらとひとりで笑っていた。
***
森の修道院に戻った翌日。
ヴァルドは、マルスの亡骸と背中の傷を、長いあいだ黙って見下ろしていた。
それから、三人に告げた。
「――当面、隼の長は、ナティアとする」
(……は?)
マルスがいなくなれば、次は自分のはずだった。
百十年、誰も握れなかった剣の持ち主。最後のひと太刀を任される、隼の切り札。
魔骸を消したのは俺の剣だ。
(なのに――また、俺じゃない)
***
理砕の槌が次の手を選んだのは、それから十日後のことだった。
「――お、あんたらが隼か! よろしくなぁ!」
修道院の門をくぐってきたのは、見上げるような大男だった。
岩のような体躯。日に焼けた浅黒い肌。短く刈った褐色の髪。
彫りの深い厳つい顔立ち――なのに、子どものように屈託なく笑っていた。
年の頃は、リーフたちとさして変わらない。
「ガラムだ。ドラヴァって知ってるか? 東の、山ばっかりの国。そこの生まれでさ」
「ドラヴァ……?」
ニコが、目を丸くした。
「なんで、そんな遠くから?」
「ガキの頃に奴隷商に売られてな。あっちこっち転がされて、気づいたらこの国の孤児院だ。で、先日そこの先生に連れてこられて、こいつを握ってみたら――」
ガラムは、理砕の槌を片手でひょいと持ち上げた。
マルスが両手で担いでいた大槌を、木の枝でも振るように、くるりと回してみせる。
鉄の頭が、赤く灯った。
当たり前のように。最初から、この男のものだったかのように。
「――光っちまった!」
「……ほう。理砕の槌が、ここまで素直に応えるか」
ヴァルドが、珍しく眉を上げた。
「よし。今日から、隼の長は、ガラムとする」
リーフの頭の中が、真っ白になった。
今日来たばかりの男だぞ。
この国の生まれでもない、どこの馬の骨とも知れない、奴隷上がりの男だぞ。
「は!? 俺が? いやいや先生、俺、今日来たばっかだぜ。字だってろくに読めねえのに」
「字なら、ナティアが読める」
「……そういうもんか?」
ガラムは大きな手で頭を掻き、それから、豪快に笑った。
「まあ、任されたからにはやるけどさ。よろしくな、ナティア、ニコ、リーフ!」
差し出された手を、リーフは見下ろした。
まっすぐな目。分厚くて温かそうな手のひら。
(――マルスを、ただ、もっとでかくしただけじゃないか)
「……え、えへ。よ、よろしくね、ガラム」
リーフは、いちばんきれいに見える角度で笑いながら、その手を握った。
***
ガラムは、たった数日で隼に馴染んだ。
夕げの鍋を、誰より手際よく作った。香辛料の効いた見たこともない煮込みだった。
「……にゃ、にゃにこれ!? 辛っ!! でも、うまっ!!」
「だろ? 俺の生まれ故郷の味だ。――ま、故郷の記憶なんてこれっぽっちもねえけどな!」
ガラムが豪快に喉を鳴らして笑う。
「じゃあ、ただのあてずっぽうな創作料理ってこと?」
呆れたようにツッコミを入れたニコの口元が、小さく緩んでいた。
――マルスが死んでから、ニコが笑ったのは、それが初めてだった。
ナティアの背負っていた荷を、ガラムが何も言わずにひょいと持ってやったとき。
ナティアは、ほんのわずかに目元を緩めた。
「……ありがと」
小さな声だった。
それでも、マルスが死んで以来、ナティアが誰かに向けた、初めての柔らかい声だった。
リーフは、食卓の端で煮込みを口に運んでいた。
辛かった。舌が、焼けるように痛かった。
(なんでだよ)
マルスを消したんだぞ。
邪魔な背中をどかして、ナティアの隣も、長の座も、全部空けてやったのに。
なんで、そこに、別の男が当たり前みたいな顔で座ってるんだ。
(俺がいなきゃ、魔骸ひとつ消せないくせに。俺の剣がなきゃ、だめなくせに。……なんで、誰も、俺を見ないんだ)
匙を握る指が、白くなっていた。
***




