19.影の子ら②
ナティアが笑うのは、いつだって、マルスの前でだけだった。
訓練のあと、ナティアがマルスの肩の打ち身に膏薬を塗っていた。
マルスの冗談に、ナティアがくすくすと笑う。
リーフが近づくと、その笑いは、すうっと消えた。
「……何、リーフ」
冷たい目だった。
いつからだったか。
あの日、泣きながら「見て見て」としがみついてきた少女は、いつの間にか、リーフをこういう目で見るようになっていた。
訓練をさぼる。どうせ死なないからと、手を抜く。都合が悪くなると、誰かのせいにしてへらへら笑う。女を見る目つきが、いやらしい。
――あんたって、いつも自分のことばっかりね。
何度そう言われたか、分からない。
(なんでだ)
マルスの顔は、悪くはない。だが、日に焼けた、ごつごつとした、どこにでもいる男の顔だ。
顔なら、俺のほうがずっときれいで、ずっと価値がある。百十年、誰も握れなかった剣に選ばれたのも、俺だ。
なのに、なんで、そっちを見る。
――マルスが、裏で俺の悪口を吹き込んでるに決まってる。
そうでなきゃ、俺がこんなに嫌われる理由がない。
「え、えへ……なんでもないよ。マルス兄ちゃん、肩、大丈夫? ……ナティアに塗ってもらえて、いいなぁ。えへへ」
「ああ、大したことない。ありがとうな、リーフ」
マルスは、何の疑いもなく笑い返した。
膏薬を塗るナティアの指先が、マルスの裸の肩を撫でている。
あの指が、自分に触れるところを、リーフは想像した。
ナティアの胸元で、昨夜リーフが顔を埋めていた晒しが、呼吸に合わせて上下していた。
***
その夜、四人は馬車で王都の城へ呼び戻された。
八年前と同じ、裏手の古い門から。
人目を避けた細い通路をいくつも抜けた先に、白い大理石の小さな礼拝堂があった。
月の光が、色硝子の窓から床に落ちていた。
祭壇の前に、一人の男が立っていた。
白髪交じりの金の髪。深い皺の刻まれた、彫りの深い顔。飾り気のない黒い長衣で、王冠も宝石も身につけていない。
それでも、ひと目で分かった。
ヴァルドが片膝をつき、四人も慌ててそれに倣った。
「――面を上げよ」
ローデリア国王、ガルディウス四世。
勇者アルデンの末裔。
王が、四人の顔を一人ずつ見た。
ナティアを。ニコを。マルスを。
そして――リーフを。
王の目が、ほんの一瞬、リーフの上で止まった。
(――見てる。この国の王が。俺を、見てる)
この国でいちばん偉い人間が、まっすぐに見ている。
背筋が、ぞくぞくと震えた。
身体の芯が、かっと熱くなった。
「そなたらに、命を下す。この国に散らばる魔王の骸を、討て」
***
「この国の神器は十九。それを五つの影に分け、国の東西南北と、王都の守りに当たらせている」
王の声は、静かだった。
「北と西を受け持っていた『狼』が、先の春、骸との戦いで二人を失った。残る二人では、骸は消せぬ。……北と西の果て、まだ誰も手をつけておらぬ骸を、そなたらがひとつずつ消せ」
「は」
マルスが、深く頭を垂れた。
「そなたらの名は、どの記録にも残らぬ。民はそなたらを知らず、讃える者もおらぬ。……もし民に骸と刃を交わす姿を見られたなら、その者の口を封じよ。封じられぬなら、そなたら自身が消えよ」
王の目が、四人をもう一度見渡した。
「真の勇者の名は、我が祖先に。そなたらの名は、影。――この国を三百年守ってきた、もう一つの勇者の務めだ」
ナティアが、唇を噛み締めて頷いた。
ニコは、珍しく笑っていなかった。
マルスは、まっすぐに王を見上げていた。
リーフは、王の背後で燭台を捧げ持つ侍女を見ていた。
栗色の髪を結い上げた、色の白い、年増盛りの女だった。
月の光に透ける薄い衣の下で、胸がふっくらと盛り上がり、燭台の重さに身じろぎするたび、かすかに揺れる。
(……城の女は、いいもの食ってるんだな)
あの澄ました顔を、泣き顔に変えてやったら、どんな声を上げるのか。
王の言葉は、半分も耳に入っていなかった。
「――隼の長は、マルスとする」
その一言だけが、はっきりと聞こえた。
(……は?)
リーフは顔を上げた。
王は、もう、リーフを見ていなかった。
(なんでだよ。さっき、俺を見てただろ。継承の剣だぞ。百十年、誰も握れなかった剣だぞ)
深く頭を下げるマルスの横顔を、ナティアが誇らしげに見つめていた。
(――ヴァルドのじじいだ。あいつが、陛下に余計なことを吹き込んだんだ。そうに決まってる)
リーフは床に額をつけたまま、へらりと笑った。
誰にも見えない角度で、奥歯を、ぎりりと鳴らしながら。
***
翌朝、四人は城の裏手の古い門から、王都へ出た。
ちょうど建国祭の朝だった。
下町の通りには色とりどりの旗が張られ、屋台が並び、広場の人形劇の小屋の前には、子どもたちが群がっていた。
金色の鎧の勇者の人形が、黒い魔王の人形を、ひかりのつるぎで斬り伏せる。
魔王の人形は、ばたりと倒れて動かなくなる。
「勇者さまー!」
「勇者アルデンさまー!」
歓声の後ろを、四人は外套のフードを目深にかぶって、黙って通り過ぎた。
(――馬鹿どもが。魔王は死んでない。その尻拭いをしてるのは、俺たちなんだぞ)
なのに、誰も知らない。誰も、俺の名前を呼ばない。
人形の勇者は讃えられて、本物の勇者である俺は、フードで顔を隠して裏門から出ていく。
――こんなに、きれいな顔をしているのに。
噴水のそばで、成人の祝いの花冠を頭に載せた娘たちが、五、六人、笑い合っていた。
リーフは、フードの陰から、一人ずつ品定めした。
あの髪の長いのは、腰がいい。
あの笑っているのは、胸が小さい。でも、脚がいい。
あの、屈んで花を摘んでいるのは、胸元が緩い。
あの端の、気の強そうな目をしたのは――ああいうのが、いちばん、泣き顔がいい。
「……えへ」
フードの陰で、声が漏れた。
「リーフ。何してんの、早く」
前を行くナティアが、振り返って眉をひそめた。
「え、えへ……ごめんごめん。人形劇、懐かしいなぁって」
***
その夜、四人は王都の北の宿場町に泊まった。
夜更け、リーフはひとり宿を抜け出した。
懐で、ヴァルドから一人ずつ渡された手当の袋が、ちゃり、と鳴った。
宿場町のはずれに、赤い提灯を軒に吊るした娼館があった。
塀の中の八年間、この夜を何百回も夢に見てきた。
それでも、戸口で三度、引き返しかけた。
四度目に、ようやく暖簾をくぐった。
「あ、あの……え、えへ……は、初めて、なんですけど……」
帳場の女将は、リーフの整った顔と膨らんだ懐を見比べて、にっこりと笑った。
並べられた女たちを、リーフは端から舐めるように見た。
顔ではなく、胸を。腰を。薄衣の裾から覗く脚を。
選んだのは、金色の髪を長く伸ばした、客慣れした気の強そうな目の女だった。
「か、髪……結ってもらって、いいですか。えへ……高いところで、一本に。そ、それから……俺のこと、ゴミを見るみたいな目で、見て、もらえますか」
「……は?」
「い、いいから。お金なら、倍、出すんで。えへへ」
女は銀貨を受け取って肩をすくめ、髪を結い上げた。
それから寝台に腰かけたまま、言われたとおりに、冷たくリーフを見下ろした。
――ナティアの、目だった。
少しも似ていないのに、リーフには、そう見えた。
リーフは、女の手首を掴んで、寝台に引き倒した。
「……ちょっと、乱暴――」
「――見下ろしてろって、言ったろ」
へらへらした笑いが、すっと消えていた。
腰帯で、女の両手首を寝台の柱に縛りつける。
女の目に、初めて本物の怯えが浮かんだ。
その目を見た瞬間、リーフの全身を、痺れるような熱が駆け抜けた。
「なあ、ナティア。……泣けよ。もっと泣けよ」
髪を掴んで覗き込んだ顔は、もう芝居をしていなかった。
涙で濁った目で、縛られた手首を震わせながら、女は「やめて」と言った。
リーフは、その顔を、飽きもせずに見下ろしていた。
抱くことさえ、忘れていた。
怯えて泣く女の顔を見ているだけで、腹の底が、どうしようもなく満たされていった。
「……え、えへ。だって、そっちがゴミを見る目なんかするからさ。金もらってるんだから、ちょっとくらい我慢してよ。俺、ちゃんと倍、払ったでしょ?」
縄も解かずに部屋を出ると、帳場で娼館の主人が喚き始めた。
追加の銀貨を投げつけると、黙った。
金があれば、誰も逆らわない。
――それも、リーフがその夜、覚えたことのひとつだった。
***
宿に戻ったのは、夜明け前だった。
裏の井戸端で、ナティアが顔を洗っていた。早起きのマルスが、その隣で桶に水を汲んでいた。
肩が触れるほど近くで、小さく何か話し、ナティアが声を立てずに笑った。
娼館の女の泣き顔とは、まるで違う顔だった。
ナティアが、ふとリーフに気づいた。
すん、と小さく鼻を鳴らす。
安物の白粉と、汗の匂い。
空色の目が、すうっと冷えていった。
「……どこ行ってたの」
「え、えへ……さ、散歩。眠れなくて」
ナティアはそれ以上何も訊かず、マルスの袖を引いて、宿の中へ戻っていった。一度も振り返らなかった。
(なんで、俺がそんな目で見られなきゃいけないんだよ。金、払ったんだぞ。誰にも迷惑かけてないだろ。……お前がマルスとばっかりいるから、俺は、ああいうところに行くしかないんだろうが)
あの女の怯えた顔を思い出すと、腹の底が、また、ゆっくりと熱を持ち始めていた。
***
宿場町を三つ過ぎると、宿はなくなった。
夜は、街道脇の林で野営した。焚き火をひとつ熾し、その周りに四人で毛布を並べて眠る。
食べるのも、眠るのも、身体を拭うのも、用を足すのも、壁一枚ない野の中だった。
――リーフにとって、それは、夢のような毎日だった。
***
野営を始めて、三日目の夜。
焚き火が熾火になった頃、毛布の擦れる音がした。
ナティアが、三人が眠っているのを確かめるように見回してから、音を立てずに林の奥へ歩いていく。
リーフは、目を閉じたまま、その足音を数えていた。
――十七歩。
昨日の夜も、十七歩だった。野営の場所が変わっても、ナティアは決まって、焚き火から十七歩ほど離れた、風下の茂みを選ぶ。
足音が止まった。
衣擦れの音。帯を緩める、かすかな革の軋み。
(……ナティアが)
ゴミを見るような目でリーフを見下ろす、あのナティアが。
背筋をぴんと伸ばして弓を引く、誇り高いナティアが。
今、茂みの陰で用を足している。
その気配を、すべて聞かれているとも知らずに。
心臓が、早鐘のように鳴った。
やがて、衣擦れの音がして、ナティアが戻ってきた。
毛布にくるまる気配。夜露と土の匂い。
リーフは、鼻からゆっくりと、その空気を吸い込んだ。
ナティアに背を向けたまま、毛布の中で、声を殺して笑った。
***
五日目の夜には、もう、聞くだけでは足りなくなっていた。
ナティアが茂みへ向かうのを見届けて、そっと毛布を抜け出す。
風下に回り込み、木の幹の陰に這いつくばる。
月明かりの下に、しゃがみ込んだナティアの白い背中が、ぼうっと浮かんでいた。
「……っ、は……」
両手で、自分の口を塞いだ。
息が荒くなり、頭の芯が、かあっと痺れていた。
あのナティアの、誰にも見せない、いちばん無防備な姿。
――俺だけが、知っている。
(えへ、えへへ……ナティアの……)
顔が、勝手に、だらしなく崩れた。
その夜、リーフはなかなか焚き火のそばに戻らなかった。
***
ニコは、もっと無防備だった。
「にゃは、ウチ、ちょっとそこらでしてくるー」
昼間でも平気でそう言って、街道脇の藪に飛び込んでいく。ナティアに「声が大きい」と叱られても、にゃははと笑うだけだった。
ニコが藪に入ると、リーフは決まって「お、俺も……えへ、小便」と言って反対側の藪に入り、ぐるりと回り込んだ。
一度、ニコが用を足しているところに、出くわした。
しゃがみ込み、膝を抱えるように小柄な身体を丸めていた。
いつも笑っている口元が、ぎゅっと引き結ばれている。
ニコのこんな顔を、リーフは初めて見た。
(……ニコが)
礼拝堂で小便を漏らしたリーフを笑った、あのニコが。
八年間、ことあるごとにそれを持ち出して笑ったニコが。
今、藪の中で、誰にも見せたくない姿を、俺に見られている。
同時に、身体の芯が、ぞくぞくと熱くなった。
ぱきり。
足元で、小枝が鳴った。
「――はにゃっ!?」
ニコが跳ねるように顔を上げ、慌てて裾を下ろした。
「だ、誰!? ……リーフ!? ちょっ、何してんの、そんなとこで!」
「え、えへ……お、俺も、小便しようと思って……こ、こっちのほうが、茂みが深かったから……」
外套の前をかき合わせながら、へらへらと笑う。
「ぐ、偶然だよ、偶然。見てないって。……ていうか、ニコこそ、道から見えそうなところでするから。俺、悪くないよね? えへへ」
「…………」
ニコは、珍しく笑わなかった。
しばらくリーフをじっと見てから、ぷいと顔を背けて、藪の奥へ行ってしまった。
それから、ニコは用を足しに行くとき、必ずナティアを連れて行くようになった。
(自意識過剰だな)
二人の背中を見送りながら、リーフは唇を舐めた。
***
旅に出て、ひと月が過ぎた頃には、リーフはナティアの「周期」をすっかり覚えていた。
その数日前になると、ナティアは少しだけ苛立ちやすくなる。
ニコの軽口に、いつもより短く言い返す。
弓を引く前に、一瞬、下腹を押さえる。
野営の夜、膝を抱えて丸くなって眠る。
そして、その日が来ると――焚き火のそばを通り過ぎるナティアから、ほんのかすかに、鉄錆のような匂いがした。
リーフは毛布の中で、その匂いを、鼻を鳴らして嗅いだ。
夜明け前。三人がまだ眠っている時刻に、ナティアは丸めた布の包みを抱えて、そっと小川へ降りていく。
リーフは目を閉じたまま、戻ってくるまでの時間を数えた。
(あの包みの中身は、ナティアの、血だ)
あの誇り高い女が、月に一度、腹を押さえ、こっそり汚れた布を洗っている。
何日目に来て、何日続いて、何日目にいちばん苛立つのか。
ナティア自身よりも、自分のほうが、よく知っているかもしれない。
リーフは、背負った剣の柄の革巻きに、爪で小さな刻み目をつけた。
ナティアの日が来るたびに、ひとつ。
ニコの日が来るたびに、ひとつ。
ふたつの刻み目の列が、柄の上で、少しずつ伸びていく。
――それを数えるのが、旅のいちばんの楽しみになった。
***
「……リーフ。あんた、変だよ」
ある夜、焚き火越しに、ナティアが言った。
「ずっと、見てるでしょ。あたしたちが、夜、起きるたびに」
「え? え、えへ……見てないよ。寝てたし。ぐっすり」
「嘘。あんた、寝てるときはいびきかくもん。あたしが起きると、いびきが止まる」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
ニコが、ナティアの陰に隠れるように身体を寄せていた。
マルスが、黙って、リーフを見ていた。
「え、えへへ……気のせいだって。ナティア、気にしすぎ。……ていうか、夜中にごそごそするほうが悪くない? うるさくて、目、覚めちゃうんだよ。俺が被害者っていうか……えへ」
ナティアは、何も言わなかった。
その夜から、ナティアとニコは、焚き火を挟んでリーフからいちばん遠い場所に毛布を敷くようになった。
その二人とリーフのあいだに、黙って、マルスが毛布を敷いた。
(――また、マルスだ。あいつが、いつも、邪魔をする)
***
翌日も、四人は北へ歩いた。
先頭を、大槌を肩に担いだマルスが歩いていた。
そのすぐ隣を、ナティアが歩き、ときどきマルスの横顔を見上げては何か話しかけている。
ニコがその後ろを、鞭をくるくる回しながら跳ねるように歩いていた。
リーフは、いちばん後ろを歩いていた。
陽に照らされたマルスの背中を、じっと見ていた。
ナティアとニコを、リーフから隔てるように歩く、その広い背中を。
――もし。
ふと、思った。
――もし、マルスがいなければ。
隼の長は、誰になる。
ナティアは、誰を見る。
王が、あの夜、名を呼ぶのは、誰だった。
背負った剣が、かすかに、青く脈打った気がした。
リーフは、ゆっくりと口元を緩めた。
毎朝、水桶の前で練習した、いちばんきれいに見える角度で。
その考えは、それから先、旅のあいだじゅう、リーフの頭から離れることはなかった。




