23.同じ形の魂
逃げ出して、半年が過ぎた頃だった。
ある町の市の広場の掲示板に、自分の顔が貼られていた。
――正確には、俺の顔のつもりらしい、何かが。
黄ばんだ紙に、炭で描かれた男の顔。
目は吊り上がり、鼻は潰れ、口元はいかにも凶悪そうに歪んでいる。その下に、身の丈ほどの大剣を背負った男の全身図が、子どもの落書きのような線で添えられていた。
『手配 大罪人リーフ
王家の宝物を盗み、出奔せし者
人殺し、火付け、婦女への乱暴、その他…
見つけし者は、最寄りの領主館へ届け出よ
生死を問わず 報奨金 金貨三十枚』
リーフは、フードの陰から、その紙をしげしげと眺めた。
「……え、えへ」
思わず、声が漏れた。
(全然、似てない)
俺は、もっとかっこいい。
神器のことは、どこにも書かれていなかった。
影のことも。魔骸のことも。
代わりに、王家の宝物だの、神殿の冒涜だの、もっともらしい罪状が、ずらりと並べられていた。
(宝物、ね)
背中の大剣の重みを、確かめる。
(――嘘じゃないけど)
だいたい本当のことだった。
人殺しも。火付けも。婦女への乱暴も。
書いた役人が、思いつきで並べただけなのだろうけれど。
リーフは、似ていない自分の顔に微笑みかけて、人混みの中へ消えた。
***
大きな町には近づかなかった。
城壁のある町には、領主の兵がいる。門番がいる。手配書を見比べる目がある。
だから、リーフが選ぶのは、いつも、地図にも名前の載らないような、山あいの小さな村だった。
村に着いたら、まず、女を数える。
若いのが、何人。
人妻が、何人。
乳飲み子を抱いているのが、何人。
どの家に男がいないか。どの家の窓が低いか。
――夜になったら、一軒ずつ。
剣を見せれば、女は黙った。
喉に当てれば、言うことを聞いた。
隣の部屋で夫が眠っている家もあった。壁一枚向こうで、赤ん坊が泣いている家もあった。
どの家でも、女たちは、声を殺して、泣いた。
――その泣き顔が、リーフには、何よりの悦びだった。
気が済むと、リーフはいつも、へらへらと笑って言った。
「え、えへ……だって、そっちが悪いんだよ。窓、低いんだもん。戸、開いてたもん。……入ってくださいって、言ってるようなもんじゃない」
そして、剣の柄に、刻み目をひとつ、増やした。
***
逃げ出して一年が経つ頃には、柄の革巻きは、刻み目で埋め尽くされた。
リーフは、刻み目を、鍔に移した。
鍔が埋まると、今度は、刀身の根元に、小刀で刻んだ。
継承の剣は、何も言わなかった。
ただ、刻み目が増えるたびに――光が、強くなっていく気がした。
あの頃の、澄んだ青ではなかった。
夜、焚き火のそばで刀身を眺めると、青い光の芯に、黒い靄のようなものが、ゆらゆらと揺れていた。
墨を一滴、清水に落としたような。
(……えへ)
リーフは、その黒い揺らめきを、うっとりと見つめた。
(お前も、楽しいんだね)
この剣の中には、死にたくないと叫んで死んでいった何千人がいる。
生きたい。生きたい。もっと生きたい。
――もっと欲しい。もっと、もっと。
その声が、リーフの声と、ひとつに溶けていくのが分かった。
***
二年目の秋。
東の丘陵の、四十軒ほどの村でのことだった。
その夜、リーフは、村はずれの納屋にいた。
藁の上で、若い女が、縄で手首を縛られて震えていた。
頬に、剣の切っ先でつけた細い傷が、一本走っている。唇を噛み、声を殺して泣いていた。
リーフは、その泣き顔を、うっとりと眺めていた。
――ぎい、と。
納屋の戸が開いた。
灯りを提げた、白髪の老人が立っていた。
夜回りの番をしていたのだろう。腰には、錆びた鉈を提げていた。
老人の灯りが、藁の上の女を照らした。
それから、ゆっくりと、リーフの顔を照らした。
老人の目が、見開かれた。
「……お、お前……」
皺だらけの唇が、わなわなと震えた。
「その、剣……その顔……。手配書の……」
(――あ)
リーフは、首を傾げた。
(似てないのに。あんなに、似てなかったのに)
剣だ。
身の丈ほどの大剣を背負った若い男。
顔がいくら似ていなくても、それだけで、十分だったのだ。
「え、えへ……。お、おじいさん。あの、ちょっと、聞きたいんだけど」
リーフは、へらへらと笑いながら、老人のほうへ一歩、踏み出した。
「俺のこと、誰かに、話した?」
「……っ」
「手配書、見たんでしょ。……誰かと一緒に、見た? 俺っぽいやつが、村に来てるって、誰かに、言った?」
老人は、鉈の柄に手をかけたまま、震えていた。
その目が、ちらりと、村のほうへ泳いだ。
「そっか」
リーフは、頷いた。
心底、困ったように眉を下げた。
「じゃあ、仕方ないね」
***
老人の首が灯りごと、藁の上に落ちた。
灯りの油が零れ、藁に火が移った。
ぱちぱちと、小さな炎が、這うように広がっていく。
藁の上の女が、炎と、転がった老人の首と、リーフの顔を、順に見て――喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
リーフは、その悲鳴を剣のひと振りで止めた。
村は、夜の底で眠っていた。
リーフは、納屋の炎を背に、村の通りを歩き出した。
大剣を引きずるように提げて。
全部、消せばいい。
一軒目の戸を剣で叩き割った。
寝台から跳ね起きた男が、何か叫ぼうとした。
叫ぶ前に、胴が、ふたつに分かれた。
その隣で、毛布を被った女が、目を見開いたまま凍りついていた。
「え、えへ……ごめんね。ほんとは、こんなこと、したくないんだよ」
リーフは、謝りながら、剣を振り下ろした。
「でも、おじいさんが、見つけちゃったから」
二軒目。三軒目。四軒目。
納屋の炎が、風に煽られて、隣の家の茅葺きに燃え移った。
村のあちこちで、悲鳴が上がり始めた。
戸口から飛び出してくる男を、斬った。
鍬を構えて向かってくる男を、鍬ごと斬った。
子どもを抱えて逃げる女の背中を、子どもごと――。
リーフは、数えるのを、やめた。
血が、雨のように降った。
炎の照り返しで、通りの泥濘が、赤黒く、てらてらと光っていた。
リーフの顔も、髪も、血でずぶ濡れになっていた。
剣の柄が、ぬるぬると滑った。それでも、剣は、手に吸いつくように離れなかった。
――軽かった。
剣が。身体が。
人を斬るたびに、刀身の黒い靄が、ぐるりと渦を巻き、濃くなっていく。
斬った分だけ、力が流れ込んでくる気がした。
疲れなかった。息も上がらなかった。
(えへ……えへへ……)
リーフは、笑っていた。
炎の中を、血の雨の中を、鼻歌を歌いながら、歩いていた。
村長の家の前で白髪の女が、両手を広げて立ち塞がった。
その後ろで、若い娘が二人、抱き合って震えていた。
「お、お願いです……っ、娘たちだけは……っ、どうか、娘たちだけは……っ!」
リーフは、立ち止まった。
首を傾げて、女の後ろの娘たちを、上から下まで、ゆっくりと眺めた。
「……え、えへ。うん。分かった」
白髪の女の顔に、一瞬、安堵が浮かんだ。
その顔のまま、首が、落ちた。
「娘さんたちは――あとで、ね」
***
夜が明けたとき、村には音がなかった。
四十軒の家は、ほとんどが、黒い炭の山になっていた。
焼け残った柱から、細い煙が、何本も、何本も、灰色の空へ昇っていく。
通りには、人だったものが、あちこちに転がっていた。
井戸の縁に、小さな靴が片方だけ引っかかっていた。
リーフは、井戸の水で、顔を洗った。
血は、なかなか落ちなかった。
(……仕方なかったんだ)
リーフは、水面の自分に、言い聞かせた。
(あのじじいが、見つけるから悪いんだ)
(俺は、悪くない)
(俺は、自分の身を、守っただけだ)
水面の自分が、いちばんきれいに見える角度で微笑んだ。
***
三年目も、旅は続いた。
村を回り、女を数え、夜を待った。
手配書の罪状に、「村ひとつを焼き払いし者」という一行が加わった。報奨金は、金貨百枚に跳ね上がった。
追手の気配を感じたことはほとんどなかった。
一度だけ、遠くの街道で、黒い外套の四人組を見かけた。影の組だったかもしれない。リーフは、その夜のうちに反対の方角へ山をひとつ越えた。
それきりだった。
隼の三人は、一度も、現れなかった。
(……来ないなー)
リーフは、焚き火のそばで、膝を抱えた。
(ナティアも、ニコも、ガラムも。……俺を探してくれているかな?)
***
そして、四年目の春が来た頃。
リーフは、ひどく、空っぽだった。
女を泣かせても、満たされなかった。
泣き顔を見下ろしても、前ほど、ぞくぞくしなかった。
金貨の袋は重かった。
何でも手に入った。誰でも言うことを聞いた。
――なのに。
誰も、リーフを見ていなかった。
怯えて目を逸らす女。
泣いて命乞いをする男。
誰ひとりリーフの顔を、まっすぐに見なかった。
ふと、思い出すことがあった。
あの夜。
王が、四人の顔を順に見た。
ナティアを。ニコを。マルスを。
そして――リーフを。
あの一瞬。
この国でいちばん偉い人間が、自分の顔を、まっすぐに見た。
あのときの背筋の震え。
あれは、どの女を泣かせたときよりも強かった。
(……誰かに、見てほしい)
焚き火の炎を見つめながら、リーフは、ぽつりと思った。
(怖がるんじゃなくて。泣くんじゃなくて。……すごいって。ありがとうって)
金でも、脅しでも、手に入らないもの。
四年かけても、ただの一度も、手に入らなかったもの。
――それが、欲しかった。
***
その年の秋、逃げ続けるうちに、リーフは北へ、北へと流れていた。
麦畑の平野を抜け、街道の町を避け、森と丘陵を越えた。
やがて、地平線に、ぎざぎざの山並みが現れた。
王国の北の果てに連なる、グラウ山脈だった。
麓の交易の町には寄らなかった。
そこからさらに三日。
獣道のような山道を登り、峠を越え、谷へ下った。
――その谷の底に、小さな村があった。
冷たく清らかな川が、谷の真ん中を流れていた。
斜面には、石垣を積んだ段々畑が、階段のように連なっている。
夕暮れの光の中で、家々の煙突から夕餉の煙が細く、まっすぐに、立ち昇っていた。
(……いい村だなぁ)
リーフは、峠の上から、村を見下ろした。
(女、多そうだなぁ)
指を折って、数え始めた。
***
「まあまあ、こんな山奥まで、よくおいでなさった!」
白髪交じりの男が、両手を広げて出迎えた。
村長だという。
「旅のお方か。この谷には宿なんてもんはありゃせんが、うちでよけりゃ、泊まっていきなされ。なに、遠慮はいらん。客人なんぞ、年に何度も来やせんのでな」
手配書の噂は、こんな山奥までは届いていないらしかった。
村長はリーフの背中の、布に巻かれた大剣を見ても、「ほう、立派な荷物ですなあ」と笑っただけだった。
村長の家は、坂の上の、石造りの大きな家だった。
戸口で、ふくよかな女が、鍋を抱えて迎えてくれた。村長の妻だという。
「さあさあ、お上がりなさいな。ちょうど、山羊の煮込みができたところでねえ」
炉端の椅子に座らされ、木の椀に、湯気の立つ煮込みがよそわれた。
その椀を運んできたのは娘だった。
「どうぞ。熱いので、気をつけてくださいね」
肩口で切りそろえた、艶やかな栗色の髪。
透き通るような白い肌。
ひまわりのような、屈託のない笑顔。
「娘ですわ」
村長が、目を細めて言った。
「え、えへ……。きれいな娘さんで……」
リーフは、へらへらと笑った。
娘はにこりと笑い返した。
それから、ほんの少しだけ、不思議そうに首を傾げた。
リーフの目が、娘の顔を見ていなかったからだ。
前掛けの紐で締まった細い腰を。椀を差し出す白い手首を。襟元から覗く、華奢な鎖骨を。
上から下まで、ねっとりと、舐めるように見ていたからだ。
――だが、娘はすぐにまた、笑った。
旅の疲れで、ぼんやりしているのだろう……と。
「おかわり、たくさんありますからね。遠慮しないでくださいね」
その笑顔が、まっすぐに、リーフを見ていた。
(……えへ)
リーフは、熱い煮込みを啜りながら、腹の底で、ゆっくりと笑った。
(明日にしよう)
今夜は、疲れていた。
山道の三日間で、どっと出ていた。
この村は、逃げない。女たちも、逃げない。
(明日の夜から、ゆっくり……一軒ずつ)
(まずは――この家から、かな)
***
その夜、リーフは村長の家の屋根裏の小部屋で眠った。
干し草を詰めた寝床は、ふかふかと柔らかく、日向の匂いがした。
階下から、村長と妻の、のんびりとした話し声が聞こえる。
娘が、鼻歌を歌いながら皿を洗っている。
久しぶりの、誰かの声が聞こえる夜だった。
――孤児院の、屋根裏みたいだ。
ふと、そう思った。
寒くて、隙間風が吹いて、それでも、ちびたちの寝息が聞こえていた、あの屋根裏。
マルス兄ちゃんが、熱を出したちびの枕元に、一晩じゅう座っていた、あの屋根裏。
(……なんで、今、そんなこと)
リーフは、寝返りを打って、目を閉じた。
***
――悲鳴で目が覚めた。
窓の外が、赤かった。
リーフは、跳ね起きた。
屋根裏の小窓に駆け寄り外を見た。
谷が、燃えていた。
谷の下手の家々から、炎が噴き上がっていた。
逃げ惑う人影。泣き叫ぶ子どもの声。家畜の悲鳴。
そして――。
炎の中に、黒い影が、立っていた。
家々の屋根を優に超える、巨大な影だった。
漆黒の剛毛に覆われた、異形の獣。
無数の紅い複眼が、炎の照り返しの中で、ぎらぎらと光っていた。
太い鉤爪が、逃げる男たちを、一薙ぎに叩き潰した。
捕らえた村人を、口元へ運び――生きたまま、噛み砕いた。
「――黒獣だぁぁぁっ!!」
「黒獣が出たぞぉっ!! 逃げろ、逃げろぉっ!!」
村人たちの叫び声が、谷じゅうに響き渡った。
(……黒獣?)
リーフは、小窓の縁を、握りしめた。
(……あれは、魔骸だ)
四年ぶりに見る、魔王の骸。
逃げよう。
最初に浮かんだのは、それだった。
剣ひとつで、魔骸は消せない。
隼の四人でなければ、四つの光を合わせなければ、あれは消えない。
――一人で斬るな。お前たちは、四人で一つだ。
今なら、裏の山道から逃げられる。
村のことなど、知ったことではない。どうせ、明日には、俺が好きにするはずだった村だ。骸が先に喰おうが、同じことだ。
リーフは、大剣を背負い、屋根裏の梯子を駆け下りた。
階下の戸口に、村長が立っていた。
手に、古びた槍を握っていた。その手が、ぶるぶると震えていた。
「……マ、マルタ、サリヤ……っ、お前たちは、裏から逃げろ……っ!」
「あんた、何を言ってるの! そんな槍で、黒獣に――!」
「お父さん、嫌、一緒に逃げてっ……!!」
娘が、村長の腕にすがりついて、泣いていた。
リーフは、その横を、すり抜けようとした。
――そのとき。
娘が振り返った。
涙に濡れた栗色の目が、リーフの背中の、大剣を見た。
「……旅の、方」
娘の唇が、震えた。
「その、剣……。あなた、剣士様、なんですか……?」
――縋るような目だった。
怯えて目を逸らす目ではなかった。
泣いて命乞いをする目でもなかった。
この人なら、と。もしかしたら、と。
祈るように、まっすぐに、リーフの顔を、見ていた。
(……あ)
リーフの足が止まった。
(これだ)
――もし、俺が、あれを仕留めたら。
この村の連中は、どんな顔をするだろう。
泣いて、縋って、手を合わせて。
ありがとうございます、と。あなたのおかげです、と。
――勇者様、と。
この国の人形劇の勇者のように。
王都の広場で、子どもたちが手を叩いて叫んでいた、あの名前のように。
金でも、脅しでも、手に入らなかったもの。
四年かけて、ただの一度も、手に入らなかったもの。
それが、すぐ、そこにあった。
(……えへ)
リーフは、背中の大剣の布を、ほどいた。
(えへ……えへへ……)
刀身が、青く光った。
その芯で、黒い靄が、ゆらりと揺れた。
「――下がってて」
リーフは、村長の前に出た。
いちばんきれいに見える角度で、振り返った。
「俺が、やるから。……あれは、俺が、消すから」
娘の目が、大きく見開かれた。
その目に、涙と一緒に、光が灯った。
――希望の、光だった。
リーフは、燃える谷を、駆け下りた。
大剣を、頭上に掲げて。
逃げ惑う村人たちの間を、まっすぐに、黒獣のほうへ。
「――うおおおおおおおおっ!!」
叫んだ。
生まれて初めて、腹の底から、叫んだ。
村人たちが、振り返った。
炎の中を、青く光る大剣を掲げて駆けていく、旅の剣士を。
「旅のお方が黒獣に……!」
その声が、背中に聞こえた。
背筋が、ぞくぞくと震えた。
あの夜、王に見つめられたときと、同じ震えだった。
黒獣と呼ばれた魔骸の、無数の紅い目が、リーフを捉えた。
リーフは跳んだ。
大剣を黒獣の前脚に叩きつけた。
――がぎん、と。
鈍い音がした。
刃が、漆黒の剛毛に、食い込んだ。
浅かった。
ほんのわずかな切れ目が入っただけで、刃は、分厚い革に弾かれるように、跳ね返された。
(……え?)
切れ目が塞がっていく。
見る間に、肉が蠢いて、何事もなかったかのように。
黒獣は、リーフを見下ろしていた。
無数の紅い目に、何の感情も浮かんでいなかった。
足元を這う、虫を見るような目だった。
――太い鉤爪が、無造作に、薙いだ。
リーフの身体が、宙を舞った。
燃える家の壁に叩きつけられ、壁ごと崩れ落ちた。
肋骨が、何本も、砕ける音がした。
口から、血が溢れた。
――治っていく。
継承の剣が砕けた骨を、無理やり繋ぎ合わせていく。
リーフは、立ち上がった。
また、走った。また、斬りつけた。
また、弾かれた。また、薙ぎ払われた。
何度も。
何度も、何度も、何度も。
剣の光が、弱かった。
四年前、三つの光と共鳴していたときの、あの眩しさが、どこにもなかった。
ひとりきりの青い光は、炎の赤に呑まれて、今にも消え入りそうに、揺らいでいた。
(なんで)
リーフは、血を吐きながら、剣を握りしめた。
黒獣は、もう、リーフを見てもいなかった。
背を向けて、逃げ惑う村人たちのほうへ、のそりと歩いていく。
鉤爪が振り下ろされるたびに、悲鳴が上がり、そして、途切れた。
足止めすら、できていなかった。
――一人では、何も、できなかった。
***
(……ナティアが、いれば)
瓦礫の中に膝をついたまま、リーフは、思った。
(ナティアが、目を潰していれば。ニコが、縛っていれば。ガラムが、殻を割っていれば)
(俺は、最後に、叩き込むだけでよかったのに)
(この剣が、弱いから)
(この村の連中が、さっさと逃げないから)
(あの娘が、あんな目で、俺を見たから――)
――俺は、悪くない。
炎が、轟々と、渦を巻いていた。
黒獣が、振り返った。
無数の紅い目が、もう一度だけ、リーフを見た。
額の真ん中で、ひときわ大きな目が、ぎょろりと動いた。
鉤爪が、来た。
リーフは、剣を構えようとした。
――腕が、上がらなかった。
ずぶり、と。
鉤爪が、リーフの胸を、貫いた。
「……っ、が……」
熱い。
胸の真ん中に、焼けた杭を打ち込まれたような熱さだった。
背中から、鉤爪の先が、突き抜けているのが分かった。
黒獣が、鉤爪を引き抜いた。
リーフの胸から、血が、噴水のように噴き上がった。
身体が、ゆっくりと、仰向けに倒れていく。
燃える空が、見えた。
火の粉が、雪のように、降ってくる。
(……あれ)
治らなかった。
継承の剣が、どれだけ脈打っても、胸の穴は、塞がらなかった。
心臓が、なかった。
鉤爪が、そこにあったはずのものを、根こそぎ、抉り取っていった。
(うそ、だろ)
(死ぬの、俺……?)
***
――生きたい。
剣の中で、声がした。
――生きたい。生きたい。生きたい。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
何百。何千。
死にたくないと叫んで死んでいった者たちの声が、リーフの手のひらから、胸の穴へ、どっと流れ込んできた。
(……うん)
リーフも、叫んだ。
声は、もう、出なかった。
(死にたくない。死にたくない。死にたくない)
(俺は、こんなところで、死んでいい人間じゃない。もっと女を泣かせたい)
(まだ、何も、手に入れてない――)
――ぷつり、と。
何かが、ちぎれる音がした。
リーフの意識が、ばらばらに、ほどけていった。
ひとつだったものが、いくつもの、小さなかけらになって、暗闇の中に、散らばっていく。
継承の剣が、それを、必死に、掻き集めようとしていた。
――足りない。
かけらでは、この身体は、動かない。
剣が、叫んだ。
何千の声で、ひとつのことを、叫んだ。
――探せ。
――この身体に入れる魂を。
――同じ形の魂を。
――どこまでも、どこまでも、探せ。
***
村人たちは、のちに、こう語った。
旅の剣士が、黒獣の爪に胸を貫かれ、血を噴いて倒れた、その瞬間――。
天から、眩い光が、降り注いだ、と。
燃える谷の空が、真昼のように白く輝いた。
光の柱が、倒れた剣士の身体に、まっすぐに落ちた。
黒獣でさえ、その眩しさに怯んで、後ずさった。
***
――光の中で。
リーフの、最後のかけらが、それを見た。
世界の、ずっと、ずっと向こう側。
見たこともない、四角い、白い光の灯る部屋。
机の上に、突っ伏している男。
くたびれた服。たるんだ腹。生白い手。
男の唇が、かすかに動いていた。
――死にたくない。
――俺はまだ、何も、手に入れてない。
(……ああ)
リーフの、最後のかけらが、笑った。
(同じだ)
へらり、と。
(……えへ。頼んだよ)
光が、すべてを、塗り潰した。
***
――真っ暗な意識が、強烈な光の奔流とともに弾け飛んだ。
目を開けた瞬間、男の五感を襲ったのは、むせ返るような血生臭さと、鼓膜を劈く無数の絶叫だった。
黒煙が立ちのぼり、紅蓮の炎が木造の家屋を包んでいる。
泣き叫ぶ子どもを抱えて逃げ惑う母親の背後から、漆黒の巨大な影が覆いかぶさる。
――なんなんだ、ここは!?
混乱と恐怖で息が止まりかけた、その瞬間。
気付いた時には、男の両手は、身の丈ほどもある大剣を握りしめていた。
刀身が、青く、燃えるように光っていた。
男は、剣の心得など、何ひとつ持っていなかった。
だが――肉体が、勝手に動いた。
この身体に刻み込まれた型が、ちぎれ残ったかけらが、男の腕を、脚を、突き動かした。
大地を蹴る。
咆哮する怪物の、額の真ん中へ。
――ズドォォォォンッ!!
大剣が、黒獣の脳天を、断ち割った。
両断された巨体が、地響きを立てて崩れ落ちた。
漆黒の剛毛も、無数の紅い目も、鉤爪も、黒い灰となって、夜空へ散っていく。
男は、大剣を握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。
意識が、ぷつりと途切れる。
炎の明かりの中で、村人たちが、ひとり、またひとりと、物陰から這い出してきた。
灰の山と、倒れた剣士を、呆然と見比べていた。
最初に駆け寄ったのは、栗色の髪の娘だった。
「……っ、剣士様……!!」
村長の娘が男の血まみれの頭を、膝に抱き上げた。
涙が、ぽろぽろと、男の頬に落ちた。
「生きてる……生きてる……っ! お父さん、お母さん、剣士様、生きてるっ……!!」
村人たちが、男の周りに、集まってきた。
誰かが、膝をついた。
誰かが、手を合わせた。
誰かが、泣きながら、その言葉を、口にした。
「……勇者様だ」
その言葉が、波のように、広がっていった。
「勇者様が、黒獣を、斬ってくださった……!」
「三百年の悪夢を……たった一振りで……!」
「勇者様……! 勇者様……!!」
燃え残る谷に、村人たちの声が、いつまでも、いつまでも、響いていた。
――リーフが四年間、喉から手が出るほど欲しかったものだった。
それを受け取ったのはもう、リーフではなかった。




