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自己愛性ハーレム勇者 〜元の世界が俺の価値を理解できなかっただけ!〜【R15版】  作者: シュキラ
リーフの章~影の勇者~

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23/23

23.同じ形の魂

 逃げ出して、半年が過ぎた頃だった。


 ある町の市の広場の掲示板に、自分の顔が貼られていた。


 ――正確には、俺の顔のつもりらしい、何かが。


 黄ばんだ紙に、炭で描かれた男の顔。

 目は吊り上がり、鼻は潰れ、口元はいかにも凶悪そうに歪んでいる。その下に、身の丈ほどの大剣を背負った男の全身図が、子どもの落書きのような線で添えられていた。


『手配 大罪人リーフ

 王家の宝物を盗み、出奔せし者

 人殺し、火付け、婦女への乱暴、その他…

 見つけし者は、最寄りの領主館へ届け出よ

 生死を問わず 報奨金 金貨三十枚』


 リーフは、フードの陰から、その紙をしげしげと眺めた。


「……え、えへ」


 思わず、声が漏れた。


(全然、似てない)


 俺は、もっとかっこいい。


 神器のことは、どこにも書かれていなかった。

 影のことも。魔骸のことも。

 代わりに、王家の宝物だの、神殿の冒涜だの、もっともらしい罪状が、ずらりと並べられていた。


(宝物、ね)


 背中の大剣の重みを、確かめる。


(――嘘じゃないけど)


 だいたい本当のことだった。

 人殺しも。火付けも。婦女への乱暴も。

 書いた役人が、思いつきで並べただけなのだろうけれど。


 リーフは、似ていない自分の顔に微笑みかけて、人混みの中へ消えた。


 ***


 大きな町には近づかなかった。


 城壁のある町には、領主の兵がいる。門番がいる。手配書を見比べる目がある。

 だから、リーフが選ぶのは、いつも、地図にも名前の載らないような、山あいの小さな村だった。


 村に着いたら、まず、女を数える。


 若いのが、何人。

 人妻が、何人。

 乳飲み子を抱いているのが、何人。

 どの家に男がいないか。どの家の窓が低いか。


 ――夜になったら、一軒ずつ。


 剣を見せれば、女は黙った。

 喉に当てれば、言うことを聞いた。

 隣の部屋で夫が眠っている家もあった。壁一枚向こうで、赤ん坊が泣いている家もあった。

 どの家でも、女たちは、声を殺して、泣いた。


 ――その泣き顔が、リーフには、何よりの悦びだった。


 気が済むと、リーフはいつも、へらへらと笑って言った。


「え、えへ……だって、そっちが悪いんだよ。窓、低いんだもん。戸、開いてたもん。……入ってくださいって、言ってるようなもんじゃない」


 そして、剣の柄に、刻み目をひとつ、増やした。


 ***


 逃げ出して一年が経つ頃には、柄の革巻きは、刻み目で埋め尽くされた。


 リーフは、刻み目を、鍔に移した。

 鍔が埋まると、今度は、刀身の根元に、小刀で刻んだ。


 継承の剣は、何も言わなかった。

 ただ、刻み目が増えるたびに――光が、強くなっていく気がした。


 あの頃の、澄んだ青ではなかった。

 夜、焚き火のそばで刀身を眺めると、青い光の芯に、黒い靄のようなものが、ゆらゆらと揺れていた。

 墨を一滴、清水に落としたような。


(……えへ)


 リーフは、その黒い揺らめきを、うっとりと見つめた。


(お前も、楽しいんだね)


 この剣の中には、死にたくないと叫んで死んでいった何千人がいる。

 生きたい。生きたい。もっと生きたい。

 ――もっと欲しい。もっと、もっと。


 その声が、リーフの声と、ひとつに溶けていくのが分かった。


 ***


 二年目の秋。


 東の丘陵の、四十軒ほどの村でのことだった。


 その夜、リーフは、村はずれの納屋にいた。

 藁の上で、若い女が、縄で手首を縛られて震えていた。

 頬に、剣の切っ先でつけた細い傷が、一本走っている。唇を噛み、声を殺して泣いていた。


 リーフは、その泣き顔を、うっとりと眺めていた。


 ――ぎい、と。

 納屋の戸が開いた。


 灯りを提げた、白髪の老人が立っていた。

 夜回りの番をしていたのだろう。腰には、錆びた鉈を提げていた。


 老人の灯りが、藁の上の女を照らした。

 それから、ゆっくりと、リーフの顔を照らした。


 老人の目が、見開かれた。


「……お、お前……」


 皺だらけの唇が、わなわなと震えた。


「その、剣……その顔……。手配書の……」


(――あ)


 リーフは、首を傾げた。


(似てないのに。あんなに、似てなかったのに)


 剣だ。

 身の丈ほどの大剣を背負った若い男。

 顔がいくら似ていなくても、それだけで、十分だったのだ。


「え、えへ……。お、おじいさん。あの、ちょっと、聞きたいんだけど」


 リーフは、へらへらと笑いながら、老人のほうへ一歩、踏み出した。


「俺のこと、誰かに、話した?」


「……っ」


「手配書、見たんでしょ。……誰かと一緒に、見た? 俺っぽいやつが、村に来てるって、誰かに、言った?」


 老人は、鉈の柄に手をかけたまま、震えていた。

 その目が、ちらりと、村のほうへ泳いだ。


「そっか」


 リーフは、頷いた。

 心底、困ったように眉を下げた。


「じゃあ、仕方ないね」


 ***


 老人の首が灯りごと、藁の上に落ちた。


 灯りの油が零れ、藁に火が移った。

 ぱちぱちと、小さな炎が、這うように広がっていく。

 藁の上の女が、炎と、転がった老人の首と、リーフの顔を、順に見て――喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。


 リーフは、その悲鳴を剣のひと振りで止めた。


 村は、夜の底で眠っていた。


 リーフは、納屋の炎を背に、村の通りを歩き出した。

 大剣を引きずるように提げて。


 全部、消せばいい。


 一軒目の戸を剣で叩き割った。


 寝台から跳ね起きた男が、何か叫ぼうとした。

 叫ぶ前に、胴が、ふたつに分かれた。

 その隣で、毛布を被った女が、目を見開いたまま凍りついていた。


「え、えへ……ごめんね。ほんとは、こんなこと、したくないんだよ」


 リーフは、謝りながら、剣を振り下ろした。


「でも、おじいさんが、見つけちゃったから」


 二軒目。三軒目。四軒目。


 納屋の炎が、風に煽られて、隣の家の茅葺きに燃え移った。

 村のあちこちで、悲鳴が上がり始めた。


 戸口から飛び出してくる男を、斬った。

 鍬を構えて向かってくる男を、鍬ごと斬った。

 子どもを抱えて逃げる女の背中を、子どもごと――。


 リーフは、数えるのを、やめた。


 血が、雨のように降った。

 炎の照り返しで、通りの泥濘が、赤黒く、てらてらと光っていた。

 リーフの顔も、髪も、血でずぶ濡れになっていた。

 剣の柄が、ぬるぬると滑った。それでも、剣は、手に吸いつくように離れなかった。


 ――軽かった。


 剣が。身体が。

 人を斬るたびに、刀身の黒い靄が、ぐるりと渦を巻き、濃くなっていく。

 斬った分だけ、力が流れ込んでくる気がした。

 疲れなかった。息も上がらなかった。


(えへ……えへへ……)


 リーフは、笑っていた。

 炎の中を、血の雨の中を、鼻歌を歌いながら、歩いていた。


 村長の家の前で白髪の女が、両手を広げて立ち塞がった。

 その後ろで、若い娘が二人、抱き合って震えていた。


「お、お願いです……っ、娘たちだけは……っ、どうか、娘たちだけは……っ!」


 リーフは、立ち止まった。

 首を傾げて、女の後ろの娘たちを、上から下まで、ゆっくりと眺めた。


「……え、えへ。うん。分かった」


 白髪の女の顔に、一瞬、安堵が浮かんだ。


 その顔のまま、首が、落ちた。


「娘さんたちは――あとで、ね」


 ***


 夜が明けたとき、村には音がなかった。


 四十軒の家は、ほとんどが、黒い炭の山になっていた。

 焼け残った柱から、細い煙が、何本も、何本も、灰色の空へ昇っていく。

 通りには、人だったものが、あちこちに転がっていた。

 井戸の縁に、小さな靴が片方だけ引っかかっていた。


 リーフは、井戸の水で、顔を洗った。

 血は、なかなか落ちなかった。


(……仕方なかったんだ)


 リーフは、水面の自分に、言い聞かせた。


(あのじじいが、見つけるから悪いんだ)


(俺は、悪くない)


(俺は、自分の身を、守っただけだ)


 水面の自分が、いちばんきれいに見える角度で微笑んだ。


 ***


 三年目も、旅は続いた。


 村を回り、女を数え、夜を待った。

 手配書の罪状に、「村ひとつを焼き払いし者」という一行が加わった。報奨金は、金貨百枚に跳ね上がった。


 追手の気配を感じたことはほとんどなかった。

 一度だけ、遠くの街道で、黒い外套の四人組を見かけた。影の組だったかもしれない。リーフは、その夜のうちに反対の方角へ山をひとつ越えた。

 それきりだった。


 隼の三人は、一度も、現れなかった。


(……来ないなー)


 リーフは、焚き火のそばで、膝を抱えた。


(ナティアも、ニコも、ガラムも。……俺を探してくれているかな?)


 ***


 そして、四年目の春が来た頃。


 リーフは、ひどく、空っぽだった。


 女を泣かせても、満たされなかった。

 泣き顔を見下ろしても、前ほど、ぞくぞくしなかった。

 金貨の袋は重かった。

 何でも手に入った。誰でも言うことを聞いた。


 ――なのに。


 誰も、リーフを見ていなかった。


 怯えて目を逸らす女。

 泣いて命乞いをする男。

 誰ひとりリーフの顔を、まっすぐに見なかった。


 ふと、思い出すことがあった。


 あの夜。

 王が、四人の顔を順に見た。

 ナティアを。ニコを。マルスを。

 そして――リーフを。


 あの一瞬。

 この国でいちばん偉い人間が、自分の顔を、まっすぐに見た。


 あのときの背筋の震え。

 あれは、どの女を泣かせたときよりも強かった。


(……誰かに、見てほしい)


 焚き火の炎を見つめながら、リーフは、ぽつりと思った。


(怖がるんじゃなくて。泣くんじゃなくて。……すごいって。ありがとうって)


 金でも、脅しでも、手に入らないもの。

 四年かけても、ただの一度も、手に入らなかったもの。


 ――それが、欲しかった。


 ***


 その年の秋、逃げ続けるうちに、リーフは北へ、北へと流れていた。


 麦畑の平野を抜け、街道の町を避け、森と丘陵を越えた。

 やがて、地平線に、ぎざぎざの山並みが現れた。

 王国の北の果てに連なる、グラウ山脈だった。


 麓の交易の町には寄らなかった。

 そこからさらに三日。

 獣道のような山道を登り、峠を越え、谷へ下った。


 ――その谷の底に、小さな村があった。


 冷たく清らかな川が、谷の真ん中を流れていた。

 斜面には、石垣を積んだ段々畑が、階段のように連なっている。

 夕暮れの光の中で、家々の煙突から夕餉の煙が細く、まっすぐに、立ち昇っていた。


(……いい村だなぁ)


 リーフは、峠の上から、村を見下ろした。


(女、多そうだなぁ)


 指を折って、数え始めた。


 ***


「まあまあ、こんな山奥まで、よくおいでなさった!」


 白髪交じりの男が、両手を広げて出迎えた。

 村長だという。


「旅のお方か。この谷には宿なんてもんはありゃせんが、うちでよけりゃ、泊まっていきなされ。なに、遠慮はいらん。客人なんぞ、年に何度も来やせんのでな」


 手配書の噂は、こんな山奥までは届いていないらしかった。

 村長はリーフの背中の、布に巻かれた大剣を見ても、「ほう、立派な荷物ですなあ」と笑っただけだった。


 村長の家は、坂の上の、石造りの大きな家だった。

 戸口で、ふくよかな女が、鍋を抱えて迎えてくれた。村長の妻だという。


「さあさあ、お上がりなさいな。ちょうど、山羊の煮込みができたところでねえ」


 炉端の椅子に座らされ、木の椀に、湯気の立つ煮込みがよそわれた。


 その椀を運んできたのは娘だった。


「どうぞ。熱いので、気をつけてくださいね」


 肩口で切りそろえた、艶やかな栗色の髪。

 透き通るような白い肌。

 ひまわりのような、屈託のない笑顔。


「娘ですわ」


 村長が、目を細めて言った。


「え、えへ……。きれいな娘さんで……」


 リーフは、へらへらと笑った。


 娘はにこりと笑い返した。

 それから、ほんの少しだけ、不思議そうに首を傾げた。


 リーフの目が、娘の顔を見ていなかったからだ。

 前掛けの紐で締まった細い腰を。椀を差し出す白い手首を。襟元から覗く、華奢な鎖骨を。

 上から下まで、ねっとりと、舐めるように見ていたからだ。


 ――だが、娘はすぐにまた、笑った。

 旅の疲れで、ぼんやりしているのだろう……と。


「おかわり、たくさんありますからね。遠慮しないでくださいね」


 その笑顔が、まっすぐに、リーフを見ていた。


(……えへ)


 リーフは、熱い煮込みを啜りながら、腹の底で、ゆっくりと笑った。


(明日にしよう)


 今夜は、疲れていた。

 山道の三日間で、どっと出ていた。

 この村は、逃げない。女たちも、逃げない。


(明日の夜から、ゆっくり……一軒ずつ)


(まずは――この家から、かな)


 ***


 その夜、リーフは村長の家の屋根裏の小部屋で眠った。


 干し草を詰めた寝床は、ふかふかと柔らかく、日向の匂いがした。

 階下から、村長と妻の、のんびりとした話し声が聞こえる。

 娘が、鼻歌を歌いながら皿を洗っている。


 久しぶりの、誰かの声が聞こえる夜だった。


 ――孤児院の、屋根裏みたいだ。


 ふと、そう思った。

 寒くて、隙間風が吹いて、それでも、ちびたちの寝息が聞こえていた、あの屋根裏。

 マルス兄ちゃんが、熱を出したちびの枕元に、一晩じゅう座っていた、あの屋根裏。


(……なんで、今、そんなこと)


 リーフは、寝返りを打って、目を閉じた。


 ***


 ――悲鳴で目が覚めた。


 窓の外が、赤かった。


 リーフは、跳ね起きた。

 屋根裏の小窓に駆け寄り外を見た。


 谷が、燃えていた。


 谷の下手の家々から、炎が噴き上がっていた。

 逃げ惑う人影。泣き叫ぶ子どもの声。家畜の悲鳴。

 そして――。


 炎の中に、黒い影が、立っていた。


 家々の屋根を優に超える、巨大な影だった。

 漆黒の剛毛に覆われた、異形の獣。

 無数の紅い複眼が、炎の照り返しの中で、ぎらぎらと光っていた。


 太い鉤爪が、逃げる男たちを、一薙ぎに叩き潰した。

 捕らえた村人を、口元へ運び――生きたまま、噛み砕いた。


「――黒獣だぁぁぁっ!!」

「黒獣が出たぞぉっ!! 逃げろ、逃げろぉっ!!」


 村人たちの叫び声が、谷じゅうに響き渡った。


(……黒獣?)


 リーフは、小窓の縁を、握りしめた。


(……あれは、魔骸だ)


 四年ぶりに見る、魔王の骸。


 逃げよう。


 最初に浮かんだのは、それだった。


 剣ひとつで、魔骸は消せない。

 隼の四人でなければ、四つの光を合わせなければ、あれは消えない。

 ――一人で斬るな。お前たちは、四人で一つだ。


 今なら、裏の山道から逃げられる。

 村のことなど、知ったことではない。どうせ、明日には、俺が好きにするはずだった村だ。骸が先に喰おうが、同じことだ。


 リーフは、大剣を背負い、屋根裏の梯子を駆け下りた。


 階下の戸口に、村長が立っていた。

 手に、古びた槍を握っていた。その手が、ぶるぶると震えていた。


「……マ、マルタ、サリヤ……っ、お前たちは、裏から逃げろ……っ!」

「あんた、何を言ってるの! そんな槍で、黒獣に――!」

「お父さん、嫌、一緒に逃げてっ……!!」


 娘が、村長の腕にすがりついて、泣いていた。

 リーフは、その横を、すり抜けようとした。


 ――そのとき。


 娘が振り返った。

 涙に濡れた栗色の目が、リーフの背中の、大剣を見た。


「……旅の、方」


 娘の唇が、震えた。


「その、剣……。あなた、剣士様、なんですか……?」


 ――縋るような目だった。


 怯えて目を逸らす目ではなかった。

 泣いて命乞いをする目でもなかった。

 この人なら、と。もしかしたら、と。

 祈るように、まっすぐに、リーフの顔を、見ていた。


(……あ)


 リーフの足が止まった。


(これだ)


 ――もし、俺が、あれを仕留めたら。


 この村の連中は、どんな顔をするだろう。


 泣いて、縋って、手を合わせて。

 ありがとうございます、と。あなたのおかげです、と。

 ――勇者様、と。


 この国の人形劇の勇者のように。

 王都の広場で、子どもたちが手を叩いて叫んでいた、あの名前のように。


 金でも、脅しでも、手に入らなかったもの。

 四年かけて、ただの一度も、手に入らなかったもの。


 それが、すぐ、そこにあった。


(……えへ)


 リーフは、背中の大剣の布を、ほどいた。


(えへ……えへへ……)


 刀身が、青く光った。

 その芯で、黒い靄が、ゆらりと揺れた。


「――下がってて」


 リーフは、村長の前に出た。

 いちばんきれいに見える角度で、振り返った。


「俺が、やるから。……あれは、俺が、消すから」


 娘の目が、大きく見開かれた。

 その目に、涙と一緒に、光が灯った。


 ――希望の、光だった。


 リーフは、燃える谷を、駆け下りた。


 大剣を、頭上に掲げて。

 逃げ惑う村人たちの間を、まっすぐに、黒獣のほうへ。


「――うおおおおおおおおっ!!」


 叫んだ。

 生まれて初めて、腹の底から、叫んだ。


 村人たちが、振り返った。

 炎の中を、青く光る大剣を掲げて駆けていく、旅の剣士を。


「旅のお方が黒獣に……!」


 その声が、背中に聞こえた。

 背筋が、ぞくぞくと震えた。

 あの夜、王に見つめられたときと、同じ震えだった。



 黒獣と呼ばれた魔骸の、無数の紅い目が、リーフを捉えた。


 リーフは跳んだ。

 大剣を黒獣の前脚に叩きつけた。


 ――がぎん、と。


 鈍い音がした。


 刃が、漆黒の剛毛に、食い込んだ。

 浅かった。

 ほんのわずかな切れ目が入っただけで、刃は、分厚い革に弾かれるように、跳ね返された。


(……え?)


 切れ目が塞がっていく。

 見る間に、肉が蠢いて、何事もなかったかのように。


 黒獣は、リーフを見下ろしていた。

 無数の紅い目に、何の感情も浮かんでいなかった。

 足元を這う、虫を見るような目だった。


 ――太い鉤爪が、無造作に、薙いだ。


 リーフの身体が、宙を舞った。


 燃える家の壁に叩きつけられ、壁ごと崩れ落ちた。

 肋骨が、何本も、砕ける音がした。

 口から、血が溢れた。


 ――治っていく。

 継承の剣が砕けた骨を、無理やり繋ぎ合わせていく。


 リーフは、立ち上がった。

 また、走った。また、斬りつけた。

 また、弾かれた。また、薙ぎ払われた。


 何度も。

 何度も、何度も、何度も。


 剣の光が、弱かった。

 四年前、三つの光と共鳴していたときの、あの眩しさが、どこにもなかった。

 ひとりきりの青い光は、炎の赤に呑まれて、今にも消え入りそうに、揺らいでいた。


(なんで)


 リーフは、血を吐きながら、剣を握りしめた。


 黒獣は、もう、リーフを見てもいなかった。

 背を向けて、逃げ惑う村人たちのほうへ、のそりと歩いていく。

 鉤爪が振り下ろされるたびに、悲鳴が上がり、そして、途切れた。


 足止めすら、できていなかった。


 ――一人では、何も、できなかった。


 ***


(……ナティアが、いれば)


 瓦礫の中に膝をついたまま、リーフは、思った。


(ナティアが、目を潰していれば。ニコが、縛っていれば。ガラムが、殻を割っていれば)


(俺は、最後に、叩き込むだけでよかったのに)


(この剣が、弱いから)


(この村の連中が、さっさと逃げないから)


(あの娘が、あんな目で、俺を見たから――)


 ――俺は、悪くない。


 炎が、轟々と、渦を巻いていた。


 黒獣が、振り返った。


 無数の紅い目が、もう一度だけ、リーフを見た。

 額の真ん中で、ひときわ大きな目が、ぎょろりと動いた。


 鉤爪が、来た。


 リーフは、剣を構えようとした。

 ――腕が、上がらなかった。


 ずぶり、と。


 鉤爪が、リーフの胸を、貫いた。


「……っ、が……」


 熱い。

 胸の真ん中に、焼けた杭を打ち込まれたような熱さだった。

 背中から、鉤爪の先が、突き抜けているのが分かった。


 黒獣が、鉤爪を引き抜いた。


 リーフの胸から、血が、噴水のように噴き上がった。

 身体が、ゆっくりと、仰向けに倒れていく。


 燃える空が、見えた。

 火の粉が、雪のように、降ってくる。


(……あれ)


 治らなかった。


 継承の剣が、どれだけ脈打っても、胸の穴は、塞がらなかった。

 心臓が、なかった。

 鉤爪が、そこにあったはずのものを、根こそぎ、抉り取っていった。


(うそ、だろ)


(死ぬの、俺……?)


 ***


 ――生きたい。


 剣の中で、声がした。


 ――生きたい。生きたい。生きたい。死にたくない。死にたくない。死にたくない。


 何百。何千。

 死にたくないと叫んで死んでいった者たちの声が、リーフの手のひらから、胸の穴へ、どっと流れ込んできた。


(……うん)


 リーフも、叫んだ。

 声は、もう、出なかった。


(死にたくない。死にたくない。死にたくない)


(俺は、こんなところで、死んでいい人間じゃない。もっと女を泣かせたい)


(まだ、何も、手に入れてない――)


 ――ぷつり、と。


 何かが、ちぎれる音がした。


 リーフの意識が、ばらばらに、ほどけていった。

 ひとつだったものが、いくつもの、小さなかけらになって、暗闇の中に、散らばっていく。


 継承の剣が、それを、必死に、掻き集めようとしていた。

 ――足りない。

 かけらでは、この身体は、動かない。


 剣が、叫んだ。

 何千の声で、ひとつのことを、叫んだ。


 ――探せ。

 ――この身体に入れる魂を。

 ――同じ形の魂を。

 ――どこまでも、どこまでも、探せ。


 ***


 村人たちは、のちに、こう語った。


 旅の剣士が、黒獣の爪に胸を貫かれ、血を噴いて倒れた、その瞬間――。

 天から、眩い光が、降り注いだ、と。


 燃える谷の空が、真昼のように白く輝いた。

 光の柱が、倒れた剣士の身体に、まっすぐに落ちた。

 黒獣でさえ、その眩しさに怯んで、後ずさった。


 ***


 ――光の中で。


 リーフの、最後のかけらが、それを見た。


 世界の、ずっと、ずっと向こう側。

 見たこともない、四角い、白い光の灯る部屋。

 机の上に、突っ伏している男。

 くたびれた服。たるんだ腹。生白い手。


 男の唇が、かすかに動いていた。


 ――死にたくない。

 ――俺はまだ、何も、手に入れてない。


(……ああ)


 リーフの、最後のかけらが、笑った。


(同じだ)


 へらり、と。


(……えへ。頼んだよ)


 光が、すべてを、塗り潰した。


 ***


 ――真っ暗な意識が、強烈な光の奔流とともに弾け飛んだ。


 目を開けた瞬間、男の五感を襲ったのは、むせ返るような血生臭さと、鼓膜を劈く無数の絶叫だった。


 黒煙が立ちのぼり、紅蓮の炎が木造の家屋を包んでいる。

 泣き叫ぶ子どもを抱えて逃げ惑う母親の背後から、漆黒の巨大な影が覆いかぶさる。


 ――なんなんだ、ここは!?


 混乱と恐怖で息が止まりかけた、その瞬間。

 気付いた時には、男の両手は、身の丈ほどもある大剣を握りしめていた。

 刀身が、青く、燃えるように光っていた。


 男は、剣の心得など、何ひとつ持っていなかった。

 だが――肉体が、勝手に動いた。

 この身体に刻み込まれた型が、ちぎれ残ったかけらが、男の腕を、脚を、突き動かした。


 大地を蹴る。

 咆哮する怪物の、額の真ん中へ。


 ――ズドォォォォンッ!!


 大剣が、黒獣の脳天を、断ち割った。


 両断された巨体が、地響きを立てて崩れ落ちた。

 漆黒の剛毛も、無数の紅い目も、鉤爪も、黒い灰となって、夜空へ散っていく。


 男は、大剣を握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。

 意識が、ぷつりと途切れる。


 炎の明かりの中で、村人たちが、ひとり、またひとりと、物陰から這い出してきた。

 灰の山と、倒れた剣士を、呆然と見比べていた。


 最初に駆け寄ったのは、栗色の髪の娘だった。


「……っ、剣士様……!!」


 村長の娘が男の血まみれの頭を、膝に抱き上げた。

 涙が、ぽろぽろと、男の頬に落ちた。


「生きてる……生きてる……っ! お父さん、お母さん、剣士様、生きてるっ……!!」


 村人たちが、男の周りに、集まってきた。

 誰かが、膝をついた。

 誰かが、手を合わせた。

 誰かが、泣きながら、その言葉を、口にした。


「……勇者様だ」


 その言葉が、波のように、広がっていった。


「勇者様が、黒獣を、斬ってくださった……!」

「三百年の悪夢を……たった一振りで……!」

「勇者様……! 勇者様……!!」


 燃え残る谷に、村人たちの声が、いつまでも、いつまでも、響いていた。


 ――リーフが四年間、喉から手が出るほど欲しかったものだった。


 それを受け取ったのはもう、リーフではなかった。

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