15.知る者たち①
――しゅうううううううううっ。
沸騰した鉄瓶が、湯気を噴き上げるような音だった。
あちこちで、それが鳴っていた。
黒獣の背中から伸びた何十本もの触手。その一本一本が、ぶくぶくと内側から膨れ上がり、表面の棘の隙間から、白い蒸気を噴き出している。赤黒い肉の管が、熱した鉄のように、じわじわと赤く、橙色に、明るく灼けていく。
そして――。
どぉんっ!!
一本の触手の先端が、弾けた。
弾けた肉の中から炎の塊が噴き出して、燃え残っていた家の屋根に叩きつけられる。乾いた茅葺きが一瞬で火を噴き、屋根ごと、家ごと、内側から吹き飛んだ。
どぉんっ。どぉんっ。どぉんっ。
次から次へと。
爆ぜた触手は、根元からまた新しい肉を伸ばし、またぶくぶくと膨れて、また爆ぜる。そのたびに、谷のどこかで炎が噴き上がり、誰かの家が、誰かの暮らしが、跡形もなく吹き飛んでいく。
村は、燃えていた。
村のすべてが、燃えていた。
***
地面が、ぬかるんでいた。
雨など降っていない。
夏の終わりの、乾いた土の道だった。
それが今は、踏み出すたびに、ぐちゃり、ぬちゃりと足の裏に絡みついてくる。
炎に照らされて、赤黒く、てらてらと光っていた。
血だった。
谷じゅうの道が、血の泥濘になっていた。
その泥濘の中に、あちこちに、転がっていた。
誰のものかも分からない、千切れた肉の欠片が。
人だったものの、成れの果てが。
逃げ惑っていた悲鳴は、もう、ほとんど聞こえなかった。
ときおり、燃える家の中から、か細い呻き声が上がる。それも、すぐに、炎の轟きに呑まれて消えた。
村の下手へ逃げようとしていた人の群れは、谷の出口の手前で、触手に追いつかれていた。
何十人もの人間が、折り重なるように倒れていた。母親が、子どもを胸に抱いたまま、背中から串刺しにされていた。
その上を、触手が、ずるずると這い回っている。
まだ動くものを探すように。
まだ息のあるものを、見逃さないように。
――村は、終わっていた。
***
ミナトは、広場の手前に、立っていた。
右手に、大剣を握っていた。
剣先が、血の泥濘に、だらりと垂れて沈んでいる。
羽織っただけの上着の前は、はだけていた。その下には、何ひとつ身につけていなかった。
その顔に、サリヤの血が、まだ、べっとりとついていた。
(……ああ)
ミナトは、ぼんやりと思った。
(……夢、だな、これ)
そうだ。夢だ。
こんなことが、現実に起きるはずがない。
黒獣は、あの日、俺が斬った。村は平和になった。俺は勇者様で、みんなに崇められて、女たちに囲まれて、毎晩――。
(そうだ……目が覚めたら、サリヤが、隣で寝てるんだ)
栗色の髪を枕に広げて、すうすうと寝息を立てて。
朝になったら、「おはようございます、ミナト様」って、ひまわりみたいに笑って。
村長の家で、マルタさんが粥をよそってくれて。リオが「とーさま、だっこ」って、膝によじ登ってきて。
(……ああ、腹、減ったな)
ミナトは、ふらりと、一歩、踏み出した。
何かを、踏んだ。
ぐにゃりと柔らかい、温かいものを。
見下ろした。
小さな、手だった。
ミナトは、もう一度、ゆっくりと前を向いた。
何も、見なかったことにした。
――しゅうううううっ。
すぐ頭上で、鉄瓶の音がした。
***
ミナトは、ゆっくりと、顔を上げた。
一本の触手が、真上から、ミナトを見下ろしていた。
先端が、花のように裂けて開き、その内側に並んだ鋸の歯のような棘が、炎の照り返しを受けて、ぬらぬらと光っている。
表面が、ぶくぶくと膨れ上がり、赤く、橙色に、灼けていく。
(……ああ)
ミナトは、ぼんやりとそれを見上げた。
(これで、終わりか)
逃げようとは、思わなかった。
逃げる理由が、思い当たらなかった。
触手が、落ちてきた。
――その瞬間。
右手の大剣が、光った。
青い、燃えるような光だった。
ミナトの腕が、勝手に動いた。
だらりと垂れ下がっていた剣先が跳ね上がり、刀身を盾のように横に倒して、頭上に掲げる。両足が、勝手に血の泥濘を踏みしめて、腰を落とす。
――防御の構えだった。
触手の先端が、大剣の腹に叩きつけられた。
どぉんっ!!
触手が、爆ぜた。
炎の塊が、ミナトの全身を呑み込んだ。
熱い。
焼ける。
上着が燃え上がり、髪が焦げ、剥き出しの脚の皮膚が、じゅうっと音を立てて焼け爛れていく。
だが――刀身から溢れる青い光が、膜のようにミナトの身体を包み込んで、炎の芯を、押し返していた。
炎が、晴れた。
ミナトは、立っていた。
焼け焦げた上着の切れ端を肩にぶら下げ、全身から煙を上げながら。
焼け爛れた皮膚が、見る間に再生していく。
大剣の青い光が、すうっと、薄れていった。
また、ただの鉄の塊に戻っていく。
(……なんだ、これ)
ミナトは、自分の手の中の剣を、見下ろした。
(サリヤのときは、光らなかったくせに)
なのに、今は。
ミナト自身に触手が落ちてきた、その瞬間に。
(……俺自身が、死にそうなときだけ、光るのか?)
初めて黒獣と対峙したあの日。
ヘルガの炎に焼き殺されかけたとき。
今、触手に叩き潰されかけたとき。
――この剣が応えたのは、いつだって、ミナト自身の命が危ないときだけだった。
(なんなんだ……なんなんだよ、お前……っ)
サリヤは、目の前で潰された。
アーシャも、フィオも、ミレイも、カヤも。
その誰のためにも、この剣は、光らなかった。
ミナトは、焼け焦げた上着の切れ端を肩にぶら下げただけの、裸同然の姿で、血の泥濘の中に、呆然と立ち尽くしていた。
***
――しゅうううううううううううっ。
音が、何重にも重なって、鳴り響いた。
ミナトは、顔を上げた。
黒獣が、ミナトを見下ろしていた。
無数の紅い目が、一斉に、ミナトだけを見つめていた。
その背中から、何十本もの触手が、一斉に持ち上がっていった。
うねりながら、絡み合いながら、一本に、束になっていく。
十本、二十本、三十本。
何十本もの肉の管が、縄を綯うように撚り合わさって、一本の、巨大な柱になっていく。家一軒を丸ごと貫けるほどの、太さの。
その表面が、ぶくぶくと膨れ上がり、赤く、橙色に、白く、灼けていく。
鉄瓶の音が、悲鳴のように甲高くなっていく。
あれが、落ちてくれば――。
この剣が光ろうと、光るまいと、関係ない。
この身体ごと、骨まで、灰になる。
ミナトは、それを、見上げていた。
大剣が、また、青く光り始めていた。
腕が、また、勝手に構えを取ろうとしていた。
ミナトは――その腕から、力を抜いた。
(……もう、いい)
剣先が、だらりと、泥濘に垂れた。
(もう、いいよ)
サリヤは、もういない。
あの村は、もうない。
俺を崇める村人たちも、俺を求めてくれた女たちも、俺の子どもたちも。
俺が手に入れたものは、全部、もう、どこにもない。
(……なんでだよ)
なんで、俺ばっかり、こうなるんだ。
やっと手に入れたのに。
元の世界で、何ひとつ持たせてもらえなかった俺が、やっと、やっと手に入れた、俺の村だったのに。俺の女たちだったのに。俺の暮らしだったのに。
それを、横から、全部、踏み潰していきやがった。
(……もう、いい。どうでもいい)
俺のものが何も残っていない世界に、しがみつく理由なんか、ない。
巨大な触手の柱が、ゆっくりと、傾き始めた。
ミナトの頭上へ。
ミナトは、目を閉じた。
――ひゅんっ。
何かが、空を裂いた。
***
閉じた瞼の裏が、黄色く、眩しく、焼けた。
ミナトは、目を開けた。
頭上で、触手の柱が――真っ二つに、断ち切られていた。
柱の根元から、ほんの少し上。
何十本もの肉の管が撚り合わさった、家一軒ほどの太さの柱を、一本の黄色い光の線が、まっすぐに貫いていた。
光の線が通り抜けた跡が、まるで熱した刃で切ったように、赤く、ぶすぶすと焼け焦げている。
切断された柱の上半分が、ゆっくりと、傾いて――。
どぉぉぉぉんっ!!
ミナトから数十歩離れた、燃える家の上に落ちて、凄まじい轟音とともに爆ぜた。
黒獣が、咆哮した。
怒りの咆哮だった。
無数の紅い目が、一斉に、ミナトから逸れて――谷の上手、坂の上の、ある一点を睨みつけた。
ミナトも、そちらを見た。
坂の上。
ミナトの家の、さらに上の、尾根へ続く岩場の上に。
人が、立っていた。
三人。
真ん中に立っているのは、若い女だった。
炎に照らされて金色に輝く長い髪を、高い位置で一本に結っている。その髪が、谷を吹き上げる熱風に煽られて、炎のように翻っていた。
すらりと伸びた手足を、丈の短い革の胴着と、膝までの革の脛当てで包んでいる。身体の線は細く、しなやかで、それでいて、少しも無駄がない。
その手に、弓を構えていた。
身の丈ほどもある、白木の長弓。弦を引き絞った指先に、矢はなかった。代わりに、引き絞った弦と弓の間に、黄色い光が凝縮されていた。
その右に、小柄な女。
短く刈り込んだ黒髪に、少年のように引き締まった身体。袖のない胴着から伸びる細い腕に、獣の革を巻いている。
その手から、光る鞭が、地面まで垂れていた。緑色に淡く発光する、しなやかな鞭。それが、まるで生き物のように、ゆらゆらと岩場の上でうねっていた。
その左に、大男。
岩のような体躯。日に焼けた浅黒い肌に、彫りの深い、厳つい顔。短く刈った褐色の髪の下で、太い眉の奥の目が、黒獣をまっすぐに睨みつけている。
その肩に、巨大な槌を担いでいた。人の胴ほどもある鉄の頭を持つ、長柄の大槌。その鉄の頭が、赤い光を帯びて、熾火のように、じりじりと輝いていた。
黄色い光の弓。
緑色の光の鞭。
赤い光の槌。
三人が、一斉に、その武器を、黒獣に向けて掲げた。
――その瞬間。
ミナトの手の中で、大剣が、光った。
青く。
燃えるように。
これまでのどの光よりも、強く、眩しく。
まるで、三つの光に、呼び応えるように。
「――な……」
ミナトは、自分の手の中の剣を見下ろした。
刀身から溢れる青い光が、脈打つように明滅している。それに合わせて、坂の上の三つの光も、同じ拍子で、明滅していた。
どくん、どくん、と。
まるで、ひとつの心臓の鼓動を、四つの武器が分け合っているように。
(なんなんだ、こいつら……っ)
***
金髪の女が、岩場を蹴った。
ふわりと宙を舞い、燃える家の屋根を、二歩、三歩と踏んで、跳ぶように坂を駆け下りてくる。その間も、弓は引き絞ったまま。
黒獣の触手が、女めがけて何本も襲いかかった。
女は、空中で身を捻った。
ひゅんっ、ひゅんっ、ひゅんっ――!
黄色い光の矢が、三本、続けざまに放たれた。
三本の触手が、根元から焼き切られて、落ちた。
女は、ミナトのすぐ目の前に、ざっと着地した。
血の泥濘が、跳ね上がる。
近くで見ると、ひどく整った顔立ちをしていた。
切れ長の、澄んだ空色の瞳。通った鼻筋。きゅっと引き結ばれた薄い唇。炎の照り返しを受けて、白い頬が、金色の髪と一緒に輝いていた。
その空色の瞳が、ミナトを、見た。
上から、下まで。
焼け焦げた上着の切れ端。血まみれの顔。そして、裸同然の、無様な姿。
女の眉が、ぎゅっと寄った。
その顔に浮かんだのは、驚きでも、安堵でもなかった。
――怒りだった。
それから、底のない、侮蔑だった。
「……死ね――リーフ」
女が、吐き捨てるように言った。
――リーフ。
ミナトは、その名前を、知らなかった。
だが、女は、まっすぐにミナトを見て、その名を呼んでいた。
ミナトの顔を。この身体の顔を。
(まさか……この身体の、持ち主の……名前、か?)
この女は、この身体を知っている。
黒獣が村を襲ったあの日に、ふらりと現れて、ひとりで大剣を抜いて立ち向かい、胸を貫かれて死んだという――あの旅の剣士を。
「四年よ。四年、あんたを探してた。……あんたが逃げたあと、あたしたちが、どんな目で見られてきたか……――いいえ、そんなことより」
女の声が、震えていた。
「あんたが通った街や村が、どうなったかも――あたしたちは全部っ」
言葉が、途切れた。
女は唇を噛みしめ、ミナトから目を逸らした。
「……いいわ。よくないけど。今は一旦、いい」
女は、再び弓を引き絞り、黒獣のほうへ向き直った。
「あたしの矢、知ってるでしょ。魂まで焦がす、耐えがたい痛み……死ぬよりタチの悪い苦しみを味わいたくないなら……今は手を貸しなさい」
***




